桃と鬼 | ナノ
 05:欺瞞

ふと目蓋を上げれば、そこは家の縁側だった。

庭先に植えられた桃の木はぼんやりとした陽の光を受け、はらはらと花を散らしている。


いつの間に寝てしまったのだろうと目を擦り、欠伸をして何気なく周囲を見渡すと、先程まで自分が使っていたと思しき折り紙や鞠等の遊び道具が散乱しているのが目に留まったと同時に、全身からさぁっと血の気が引いていく。


「(早く片付けないと、父様に叱られる…!)」


そんな考えが頭を過り、慌ててそれらを掻き集めようとすると、真横から『待って、』と声がかかり。

声のした方を見やれば、自分のすぐ隣へ、男性であるのか女性であるのか…ぱっと見では判別がつかぬ程、酷く中性的な容姿をした子どもが腰掛けているのが目に留まる。


しかし、件の人物は声をかけておきながらこちらを見る事はなく、俯き加減でひたすら手を動かしているので。

何をしているのかと覗いた先には、すり傷や痣の付いた小さな手に摘ままれ、薄桃色の千代紙が丁寧に折られているのが見えた。


「折り紙…?」

「そう、折り紙。」


つい口をついて出た言葉尻を拾い上げて繰り返した声は、先程よりか急を要するものではないからか、幾分か低い。

けれど、決して怒っているような感じではなく、何処か温かみがあって優しい…上手く言い表せないが、穏やかな感じのする声だった。


「(見た目は女の子のようだけど……やっぱり、体つきや手や声なんかは、ちゃんと男の子なのよね。)」


歳は一緒なのに、こんなに見た目の差が出て来るなんて。
これが性別の違いによるものか、としみじみ思いながら、どういうわけか溜息が出た。

このままいけば、今年中か来年にはいよいよ背を越されてしまうだろうし、もっと時が経てば、以前耀哉の家で見せてもらった写真のようになるのだろうか。


そう遠くないうちに訪れるであろう、どうにも口惜しい結果が目に見えた気がして。
子どもっぽいなと思いはしたが、自然と自分の頬が膨らむのが分かる。

当たり前ではあるけれど、やはり『何から何までいつまでも一緒』というわけにはいかないのだろう。


特にやる事もなしに覗き込んだ先にある折り紙は彼の手の中で忙しなく動き、まるで踊っているかのように目まぐるしく形を変えていく。

程なくして出来上がったのは、互いの羽を繋ぎ合わせたような形をした二連鶴で───これは確か、妹背山とかいう難しい折り方の物だったか。


そんな風に思いながら、出来上がったばかりの二連鶴を眺めていると。
彼の手が鶴の尾を摘まんで何の気なしに持ち上げ、そのままこちらの膝の上へ鶴を置いた。

身に付けた着物越しに僅かな鶴の重さを感じ、そろりと視線を移すと、こちらを眺めていた彼と目が合う。


「あ……ええと、」


気付けば、喉の奥から何とも無意味な音が這い出した事に驚き、慌てて両の手で口を覆い。

変だと思われたかと焦ったが、何ともはしたないであろうこちらの行動を咎めるでも無く、彼は人好きのする笑みを浮かべただけだった。


「前会った時はちゃんと渡せなくてごめん。今日は運良くまた会えたから、今度こそ姉さんにあげる。こんな物でも何かの役に立つかもしれないから、捨てたりしないできちんと持っていてね?」

「…あなたからもらった物だもの。万が一にも捨てたりなんかしないわ、」


間髪を入れずに切り返せば、彼は破顔する。
その顔は当然ながら父によく似ていたし、自分ともそっくりで…何だか不思議な感じもしたが。


「(───私達は双子なんだから、見た目がよく似ているのは当たり前の事。)」


かれこれ十数年生きてきた中で彼と間違われる事は多々あったし、素知らぬふりをして互いの服を交換し、入れ替わる遊びをした事だって数え切れない程あったというのに。

今更何を感心する事があるのだろう。


膝へ置かれた桃色の二連鶴を持ち上げ、目の前まで持ってきて眺めながら考えた時。

何とはなしに思い出された事があり、考えは一息にそちらへ引っ張られた。


…もう随分前の事。
私は元々四人姉弟であり、今はもう皆鬼籍へ入ってしまったけれど、弟が三人居た。
一番目の弟とは三つ違い。
二番目の弟とは五つ違い。
三番目の弟とは…歳が七つも違っていたっけ。

後にも先にも、自分の弟といったらこの三人の事を指すのだが。


「(この三人の他に、双子の弟なんていたかしら…?)」


彼は私の事を『姉さん』と呼んでいるし、私は彼の事をよく知っているのだから、兄弟であるには違いない。
年の頃は明らかに同じで、互いの顔は鏡に映したかのようによく似ている上、彼と一緒に過ごした思い出もちゃんとあって。

彼が何より大切で、大好きな。
自分と同じ顔をした唯一無二の存在であった事をよく覚えているのに。


「(こんなに大切で、大好きで…忘れちゃいけない人だったはずなのに。)」


つぅと、背中を冷たい汗が伝う。
けれど、それが何の汗であるのかすら考える余裕も無かった。


ただ酷い焦りに追い立てられるようにして記憶を辿れば、彼との懐かしい日々が幾つも思い起こされたが。

何をどうしても。
どんなに頑張ってみたところで、彼が確かにそこに居たのだという証拠を見つけられないばかりか、彼を彼たらしめる物が。

彼の名前が…どうしても思い出せない事に気付き、愕然とする。


彼に名を尋ねれば、きっと快く。
『何でもない、』というようなふうで教えてくれるだろう。

よく分かっているのだけれど、その優しさに甘えて軽々しく問うてしまったが最後。
自分が彼の名を忘れてしまったという事実は、彼を酷く傷付けてしまうに違いなかった。


こうなっては、もう黙り込む他に自分に出来る事はない。

誰に教えられるともなく悟ってしまった辺りからだったか。


次第に視界がぼやけ始め、熱を孕んだ雫が頬を伝ってすぐ…慌てて膝を抱え、泣き顔を見られぬうちにと、その僅かな隙間へ顔を埋めた。

か弱い虫のように体を丸め、嗚咽を堪えて震える様は、傍目からはさぞみっともなく見えるだろう。

…その見た目に違わず、大事な人の名前すら思い出せぬ自分の中身は惨めで最低なのだと。
いっとうよく分かっているから、尚のこと涙が止まらなかった。


「(ごめん…ごめんね…!)」


心の中で叫びながら、次々上がってくる嗚咽を噛み殺し、強く手の平を握り締める。

柔い肉へ爪が食い込んでいく感覚と共に、涙を呑み込んだその時。

前触れなく肩を掴まれ、軽く揺さぶられたのに驚いて顔を上げると───。


***


「百瀬、」

「……!!」


自分の名を呼ぶ宇髄の声と共に肩を揺さぶられているのを感じ、はっと目を開けたが…確かに目蓋を上げたはずなのに何故か視界は暗いままであったので、少しばかり動揺する。


ここは。
私はさっきまで何をしていたのだったか。

こうなる前は任務で鬼の気配を辿っていたはずだが。
まさか、その最中に居眠りを……?

かつてない大失態の予感にびくつきながらも、とりあえず自身の目がある部位へ恐る恐る手を当てると、何か厚い布らしき物で覆われているのが分かる。


件の布と肌の隙間へ親指を入れて押し上げようとするも、頭の後ろできつめに結わえられているせいか、容易にずり上げる事は叶わず…今度は頭の後ろへと手を伸ばし、きつい結び目と格闘し始めた頃。

宇髄が気を利かせて、かわりに後ろの結び目を解いてくれたので、ようやっと視界が開けた。


ただ、これまでの暗さに順応していた目は、秋口とはいえ未だ強い日差しに耐えきれなかったようで。

あまりの眩しさに顔を顰めながら慌てて両の手を眉間へくっ付けて重ね、簡易的な庇とすれば、彼は『…そりゃそうなるわな、』と独りごちた。


幸か不幸か…目元が隠れていたせいもあり、話しかけられる直前まで眠っていた事は勘付かれていないようで。

どうせ夢の内容も覚えていないし、それならわざわざ申告する必要もないかと開き直る事とし、宇髄の方へ顔を向ける。


「申し訳ありませんが、暫くこのままで失礼しますね…そちらの様子はいかがでしたか?」


僅かな日陰の中、幾度か瞬きをして目を慣らしつつ問えば、予想通り『特に変わった事はないな、』という答えが寄越され。


「お前の方は何か分かったか?」


これまたお決まりの問いが寄越されるも、首を横に振り『申し訳ありません、私の方もさっぱりでして…、』と伝えれば、申し合わせたかのように互いの口から溜息が漏れ出た。

───悲しいかな。
このやり取りは今日だけで既に三遍も繰り返されており、今のも合わせればもう四遍目という事になる。


というか、彼と合流した一昨日の真夜中から今日に至るまでの二日の間。

吉原の中に位置する適当な郭の屋根の上で似たようなやり取りが繰り返され続けており、いい加減何かしらの変化が欲しくなってくる頃合いだった。


「(それに、今回は先発で調査をして下さっていた宇髄殿の奥様方と連絡が取れなくなってしまっているし…、)」


彼女らを追うようにして各妓楼へ潜入している炭治郎達から上がってきた報告によれば『少し前に男と足抜けした』とか『病に伏せって切見店へやられた』とか『数日前から具合が良くないようで、部屋に籠もりきりだ』とか。

そんな具合に、今は直接のやり取りが出来ない状況であると聞かされたようだった。


もし仮に、彼等が掴んできた情報が全て本当であるのなら『何かしら理由を付けて上手く逃げ仰せられたようで良かった』で済むのだが。

安全な所へ退避しているのなら何かしらの連絡があるだろうから、その線は薄い。


そもそも、彼女らが遊郭から姿を消した…もしくは、意図的に姿を隠さざるをえなくなった原因というのは、ここに巣喰う鬼にあると考える方が自然だろう。

潜入中、外部へ情報を流しているのを鬼に知られてしまい、睨まれて動けなくなったか。
もしくは─────、


「……………。」


これ以上先を考える事は憚られたので、沸き上がってくる悪い考えを振り払うように両目を閉じ、鬼の気配がないか意識を張り巡らせるが。


「全体的に薄ら嫌な感じはするが、何処に居るかまでは探れねぇ……大方、そんなとこか?」


急に宇髄に問い掛けに頷けば、彼は溜息交じりに話を続ける。


「そうか…しっかし、お前でも容易に辿れない程の気配の消し方の上手さといい、地味さといい…こりゃ、もしかするともしかするかもな。」

「…含みがある言い方ですが、」


つまりは、何と言いたいのだろう。

はっきり聞きたいのと聞きたくないのとが混ざり、胸中は穏やかではなかったが、あちらは先を促す言葉を待っていたのか。

特に勿体ぶる事もなく『ここに潜んでんのは、上弦の鬼なのかもな。』と、何の躊躇も無しに告げる。


ただの冗談なのか、大体の見当がついているからこそ出た結論なのか。

どちらにせよ、宇髄の言葉は自身にとってあまり嬉しくない物であり、自然と眉間に皺が寄る。
同時に、数ヶ月前に遭遇した…あの禍々しい上弦の鬼の姿が思い起こされ、ぞわりと鳥肌が立った。


経験上知り得ているのは、上弦の鬼は柱を凌ぐ程の力を持ち得ている事と、並の隊士ではまず歯が立たぬ相手である事。

吉原に出ると噂されている鬼が宇髄の言うように上弦であった場合、今の面子で健闘したとしても、何の損害も無しに勝てるという保証は無い。


「もし、宇髄殿の仰るように上弦の鬼が潜んでいた場合。当然ながら撃退ではなく、討伐という流れになるとは思うのですが…相手は並大抵ではない数の人を喰らって長らえてきた鬼です。やはり、少しでも人手があった方が戦局が有利になりますから、今のうちに事情を説明して応援を頼んでおいては如何でしょう?」


出来るだけ言葉を選んでそう進言するも、それきり彼は黙り込んだ。
宇髄との間に珍しく沈黙が降り、先程まではよく聞こえなかった往来のざわめきだけが妙にはっきりと聞こえてくる。

───別段、宇髄の腕を信用していないというわけではないし、自分としても任務へ参加する以上は全力で鬼の討伐を行う気ではあるが…その最中に誰かが死ぬという事態はどうしても避けたい。

そんな思いが前面に出てしまったが故、つい『応援を…』なぞと口走ってしまったわけだが、気を悪くさせてしまったろうか。


いつまで待っても返答は無く…ついに目蓋を上げ、冷や汗をかきながら右隣を見やって。

すると、やけに整った顔が物憂げに通りを眺めているのが視界に映り…様々心配したよりか状況が悪くない事に安堵する。

しかしながら、相変わらず彼から返答はない。
かといって話しかける用件も無いので、やっぱり黙っていると、赤い瞳がちらとこっちを見やって。


「さっきお前が言ってた事だが、一理あるな。捕り物がいつ始まるか定かじゃねぇが、いざやり合うとなりゃ人手がいるのも確かだ。」

「では…鴉を飛ばして、連絡を回します。」

「ああ、頼む…それと。出来れば、応援はお前と同じ階級の隊士か他の柱をよこすように伝えてくれ。」

「承知しました。それではまた後程、」


どうかお気を付けて。

言い終わらぬうち、彼はふっと姿を消す。


気配が消えたのと同時に周囲の様子をうかがうと、既に三軒隣の屋根の上を走り去って行く背中が見え、何と足の早い事かと感嘆の溜息が漏れ出た。


「(そうそう、早速鴉に文を…。)」


やるべき事は沢山あるのだから、ぼんやりしないで一つ一つ確実にこなさなくては。

いそいそと懐から巾着を取り出し、中から鴉笛を取り出した時、掴み取った笛の後へ続くようにぽろり…と。
酷く色褪せ、所々朽ちた箇所のある折り鶴が膝へ転がり落ちた。


使われている折り紙自体は妙に古いように見え、経年劣化による折皺やら紙自体の変色やらで、もう元がどんなふうであったのかは見当が付かない。

訝しんで摘まみ上げたそれは平らに折りたたまれており、興味本位で広げてみると、二羽の鶴同士が互いの羽を重ね合わせたような…いわゆる、二連鶴という名称で呼ばれる類の鶴であった事から疑問が湧き出る。


さて、こんな物いつ紛れ込んだのやら。

自分はあまり器用な質ではないので、無意識のうちに作って持っていたというのは絶対にないし、宇髄が…というのもないだろう。


この巾着自体は鬼殺隊に入った頃から愛用している代物で、時折中に必要な物を出し入れする事はあったが、ひっくり返して中身を確認したのはもう随分と前の事に気が付き、また肌が粟立つ。

…となると、だ。
本気で出所が分からず、混入した経路に心当たりもないので、最早この鶴の処遇は自分が決める他無いという事を意味していて。


「…………………。」


ほんのひとときだけ、鶴を捨てるか否か迷ったが。

見れば見るほど丁寧に折られたそれは、偶然紛れ込んだと仮定するにせよ、誰かの思いが込められた物のように感ぜられたのも確かで、ひとまずは『これも何かの縁だろう』としておく事とし、ぼろぼろの二連鶴を元のように折りたたんでまた巾着の中へしまい込むに至る。

どんな物でも、一応は大切に持っておけば何かの役に立つだろう…実際のところ、無駄にはならないが、得にもならない代物であるのかもしれないけど。


「(単調な事ばかり続いているから、たまにいつもしないような行動を取っても罰は当たらないはずよね───。)」


溜息交じりにそんな事を考えながら鴉笛を幾度か吹き。
音を聞き付け、宇髄の居る方角から大慌てでやって来る鴉の姿を認めるより先に、取り出した紙へ簡易的な文を書き始める。


とにかくすぐ話が回せるよう、要点に絞って短く纏め。

目一杯頭を使っているその時、自身の足元…荻本屋内の一室から鬼の気配がした。


「!」


どう考えても『突然湧いて出た』としか言いようのないようなそれは、存外弱々しい感じがしたが。
鬼であると分かってしまった以上、易々と逃がすわけにはいかない。

文を放り出し、短刀を鞘から引き抜いて屋根に耳をつけ。
続いて『おい、バレてんぞ!!』という伊之助の野太い叫びと共に、瀬戸物の割れる音が鳴り響く。

彼から逃げているのか、ゾゾゾ、ゾゾ…と、狭い壁の隙間を縫うように這いずる鬼の気配が屋根越しに感ぜられ、力任せに瓦を一枚剥がして。


「(壁の中を這い回っている…だとすれば、蛇のような形をした鬼…?)」


我ながらぞっとしないような想像をした刹那。
気配が自分の真下を通過していくのに合わせ、短刀をあらん限りの力で瓦の剥がれた箇所へ押し込むと、思ったよりか柔らかい───薄い織物を刀で裂いたような手応えがあり『ギャッ!?!?』と短い悲鳴が上がる。

それからしばし。
鬼は完全に動きを止め、仕留めたかと思ったが。
突如、憎々しげな舌打ちと共にガリッ…という何とも言い表せぬような音と共に両手へ感じていた手応えは霧散し、代わりに妙な軽さが纏わり付く。


このままでは逃げられる…察した時にはもう遅かった。


真下の気配は物凄い速度で元居た方へ戻っていき、建物の隙間を巧みに掻い潜って郭の地下…ひいては、更にその奥へと気配が降りていき。

それでもどうにか追い掛けようと屋根の上から地面を見降ろした頃には、気配はまた元のようにぱったりと途切れてしまい、これ以上の追撃は無理だと悟る。


次いで、恐々引き抜いた短刀は柄ぎりぎりの所で折り砕かれており、屋根にぽっかり空いてしまった穴から中を見やるも、鬼が居たと思しき痕跡も血痕も。
…砕かれた短刀の破片すら見つからず、顔を顰めてしまう。

当然といえば当然だが、相手も馬鹿ではないという事だろう。


柄だけになった短刀を握りしめながら地面を眺め、考え込んでいると、自身の肩へとん…と軽い物が着地した感じがあり。

目線を向けて確認すると、胸元へ一片だけ白い毛の混じった鎹鴉が肩へ止まり、小首を傾げて『用件は何か』とでも言いたげにこちらを見つめていた。


「あっ…そうだ、文…。」


そこで元々は応援を頼む為の文を書いていたのを思い出し、慌てて手元を眺めると、文章を書きかけのまま放り出した紙と下ろし立ての鉛筆が無い事に気が付いて冷や汗が吹き出す。

───鉛筆はまだいいが、文が無くなったとなれば大問題だ。


重要な事柄を纏めていた物であっただけに、今回ばかりは見て見ぬふりをするわけにもいかず。
やるべき事は山のようにあれど、まずは文を探す所から始めるべきなのは明らかである。

出そうになった溜息を無理矢理に飲んでやり、何とも憂鬱な気分で書きかけの文の捜索に乗り出したのは言うまでも無い。

けれど、屋根から屋根へ飛び移り、文を探して動き回っている間も様々な考えが頭を巡る。


このまま文が見つからなかったらどうしよう。

先程取り逃してしまった鬼の根城は地下と見て良いのだろうか。

わざとではないにしろ、この前打ってもらったばかりの短刀を早々に折ってしまった事を刀匠が知ったら───。


泡のように湧いては消えを繰り返す考えを振り払うように見上げた空は、いつの間にか薄らと茜色を帯びていて。

今日も夜がこの遊郭へ忍び寄り、鬼が闊歩する時間がやって来るのだと思うと自然に気持ちが引き締まり、幾分か頭がすっきりした。


「(…後はこのまま手紙が見つかれば、何も言うことは無いのだけど。)」


半ば祈るような心地のまま明かりの灯り始めた遊郭を見下ろすと、何処からともなく香の香りが漂ってくる。

赤い檻の中へ行儀良く並んで座り出した遊女達を眺める一方で、完全に日が落ちる前に…と、文を探すのを急いだ。

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