▼ 01:いつかの二連鶴
目を開けると、薄明るい山中に立っていた。
右手にはいつも持ち歩いている三振りの日輪刀のうち、黒刃の打刀を抜き身で握り、腰には脇差、懐には短刀の重みを感じる。
それに安堵を覚えながら状況を鑑みようとするも…近場の藪やら木の幹をべったりと汚す鮮血が目に止まった瞬間に、先程までの事が薄らと思い出されてくる。
「(そういえば、私は少し前まで鬼を討伐していて…。)」
鬼を崖まで追い込んで……それから先はどうしたのだったか。
傷の治りが早くなったのにも困ったが、近頃は前にも増して眠れくなってしまったせいもあり、任務中でも時々意識が飛ぶようになったから困りものだ。
近頃は専ら単独任務をこなすだけだからまだ良いが。
『誰かに迷惑がかかる前にどうにかしなくては』と思わないわけではないが…何しろ、どうにかできるならもうとっくにどうにかやっているはずで。
よく回らない頭でだらだらと考え続けながら刀についた血を払い落とし、鞘に収めて。
他にも何か忘れている事が無いか記憶を辿っていると…そこで初めて、自身の足元から何やらか細い囁き声がしている事に気が付く。
何の気なしに視線を下げた先。
切り落とされて尚、啜り泣きながら命乞いを口にする鬼の首と目が合ってしまう。
「だずげっ…だずげでっ……いたい、いだいよぉ…!!」
「…………………。」
涙に鼻水に涎…穴という穴から体液を垂れ流し、縋るようにこちらを見ている濁った瞳を見返すと、息つく間もなく言葉が寄越される。
「まだ、まだ死にだぐない…死にだぐないんだ…!もっと、ずっと生きていたい…生きていたかったんだよぉ……!なのに、何で…何にも悪い事なんかじでないのに…っ、」
震える言葉尻が耳に飛び込んできた途端、自分の顔が強張ったのを感じる。
死を目の前にし、言うに事欠いて『生きていたかった』『何も悪い事なんかしていない』とは。
理由はどうあれ。
道を踏み外し、鬼に成り果てた事を不憫に思いはしたものの、慎ましさの欠片も無いような最後を見届ける気にもなれず、百瀬は鬼に背中を向けた。
けれども鬼は最後の力を振り、追い縋るように大声を上げる。
「待っで…!!一人に、するなっ!!怖いんだよう…一人で死ぬのは…一人は嫌だ、一人は怖い……!!」
「……………。」
何と言われようと立ち止まる気は無く、言葉を返す気も無い。
土を踏みしめ、ここから立ち去ろうと歩みを早めた時。
俄に向こうの山際が明るみ、太陽が顔を覗かせ…その眩さに顔を顰めるのと同時に、背後から『ギャッ…!!』という短い断末魔が上がった。
それきり声は止み、しぶとく残り続けていた気配も消えたので、当然の如く『鬼は陽の光に当たって絶命したのだ』という結論に至る。
「(隠の方に連絡をして、鬼が居た痕跡を完全に消して…。)」
いや、その前に鴉を呼ぶべきか。
相変わらずよく回っていない頭に渇を入れるようにこめかみを強く押したところで、自分の背後に鬼とはまた違う気配がある事に気付き、刀の鞘を強く握り締めたまま勢い良く振り返れば、どこから現れたものか。
さも用件があるというように大きな木の幹の後ろからじっとこちらを眺めている音柱───宇髄天元の姿を見つける。
いつもの如くあまり感情の読み取れぬ赤い瞳を見返し、軽く会釈をすると、宇髄は音も無く近付いてきた。
彼は元忍であるという噂があるのだが、今のところ一緒に任務をこなした回数自体が極端に少ないため、真偽の程は定かでない。
それはさておき、今日も今日とて派手な見た目をしていらっしゃる……なぞと思っているうち。
近くへ来た彼はこちらを見下ろすなり、腕を組んで眉根を寄せる。
「思ったより顔色が悪いな……一応聞いとくが、最後に寝たのはいつだ。」
「え…?ええと……一昨日…いや、一昨々日だったかも…。」
「…最後にきちんと飯を食ったのは?」
「…その…お水と、川魚を焼いた物と…たまに会う股木の叔父様方から買った燻製肉と……、」
「いや、食事の内容を聞いてるわけじゃねぇ。俺は『最後にきちんと人里に降りて飯を食ったのは何時だ、』ってのを聞いてんだよ。」
「……………………。」
「肝心な所で黙んな……ったく、相変わらず地味な奴だな…、」
渋い顔でそう告げ、何やら思案するように黙ってしまった彼の様子を覗いながら、無意識に後退ってしまっていたからか。
溜息混じりの『ちゃんと見せてみろ。』という言葉と共に腕を掴まれ、元居た位置に引き戻されてしまう。
更に、空いていた方の手で顎を掴まれ、上を見るように固定されてしまったため、目線を彷徨わせながらも仕方なしにそのままじっとしていると。
隊服から出ている肌全体に宇髄の視線が突き刺さっているような感覚に苛まれた。
「いや、思ったよりか細いな…こりゃ大分体重も減っちまってるだろうし、顔色も悪い……。」
「…………。」
「大方、山に籠もって鬼狩って。挙げ句、野宿に粗末な食事が続いたせいもあるだろうが、まさかここまで酷ぇとは……。」
独り言のような言葉を受けて、その意味を回らない頭でどうにか理解してから。
目を動かし、彼の顔を眺めれば『図星だろうが。』と呆れたような言葉が寄越される。
「大体、お前は………だろうが。加減ってモンを………だな、」
「…………?」
続けて、宇髄が何かを言ったのは分かったのだが。
…こんなに近くに居るのによく聞き取る事が出来ず『ごめんなさい、もう一度言って下さいませんか?』と告げれば、妙な顔をしつつも彼は律儀に同じ言葉を繰り返してくれたようだった。
しかし。
「(あれ……?)」
先程よりかゆっくりと耳に入ってきた言葉を理解しようとしても、相手が何を言っているのか切れ切れにしか分からず、単語を組み合わせてどうにか話の内容のあたりをつけようと頑張るも、上手く行く兆しはない。
そうして、必死に頭を使いながらぼんやりと宇髄の方を眺めているうち、瞬きの感覚が長くなり───刹那、ぐにゃりと視界が歪んだ。
***
甘い桃の香りに誘われるように目蓋を上げれば、そこは実家の庭先だった。
季節外れの暖かな日差しに抱かれ、どうやら縁側に座ったまま眠り込んでいたらしい。
辺りには、紙風船とあやとりの紐。
それから、作りかけの紙の人形が幾つか散乱していて。
早く片付けなければ父に叱られてしまうという考えが頭を過り、慌てて玩具を拾い集めようとすると、左隣から『あ…もう少し待っていて。』という声が上がり、はっとした。
さっきまでは確かに一人だったはずで、他に誰の気配もないと思ったのに。
強張った顔のままゆっくりと左を見やると、自分と同じ年頃と思しき誰かが少し離れた所へ腰掛け、折り紙で遊んでいるのが目に留まる。
やや俯いているために表情こそ分からないが…後ろで無造作に束ねられた髪が解れ、落ちてきた合間から覗く顔は、一見男のようにも感ぜられ、角度によっては女のようにも思えて。
その何とも中性的な見た目に性別の見当をつける事すら出来ずに困ってしまう。
思いつく限りでだが、近所にこんな友達は居なかったから、最近越してきたばかりの子が急に遊びに来たのだったか。
自分の中で納得の行く考えが出かかったところで、左隣の誰かは朗らかな笑みをたたえたままこちらへ向き直り、ひどく優しい声で話しかけてくる。
「…さっきからずうっと、ばかに難しい顔をしているね。考え事?」
これまた中性的であるが、ひどく耳馴染みの良い声に乗る言葉につい首を横に振ると、相手がこちらへ向き直ってくれたために、件の顔をついに正面から拝む事が出来たのだが。
やはり…というか、見れば見る程少年のようでもあり、少女のようでもある見た目である事に変わりはなく、ますます訳が分からなくなってしまう。
自然と眉間へ皺が寄る様を隠しきれないまま堪らず俯くと、目の前に居る相手は優しく手を握ってこちらを覗き込んできて。
距離が詰まったためか、先程から感じていた桃の香りが近くなり。
甘やかな匂いを纏っていたのは、紛れもなく目の前の人物であった事を察した。
「姉さんが言いたくないのなら、俺はこれ以上聞かないよ。それと…はい、どうぞ。」
齢にそぐわぬ大人びた物言いの後、彼の手からそっと掌へ移された物を目にし───何故だか強烈な懐かしさが込み上げて。
綺麗に折られた二連鶴。
確か、互いの羽が絡まるように繋がった様子から『妹背山』とか呼ばれる特殊な折り方であったか。
当然ながら彼が折ったのだろう。
それが、自分の手中で静かに寄り添いあっている。
たったそれだけの事だというのに、みるみる内に視界がぼやけていき……程なくして、自分の頬を大粒の涙が伝った。
少し塩気のある水へ追い縋るようにして這い出てきた嗚咽を殺そうと、鶴を持っていない方の手で咄嗟に口を押さえようとしたが、それより先に彼の温かい手が肩を抱き、優しく背を擦ってくれる。
「───大丈夫だよ、俺達は二人で一つ。ずっとずっと昔から決まっていて、そういう風に生まれるようになっているんだから。これから先も、姉さんと俺が離れ離れになる事なんかないよ。」
きっと、ね。
力強く言葉をくれたきり、彼は優しい笑みをたたえたまま黙り込んでしまう。
けれども、それ以上の言葉は必要ではなかった。
こうして、隣に…他ならぬ彼が、自分の手の届く距離に。
ただ寄り添っていてくれるだけで、たまらなく嬉しかったし、心強かった。
彼の名前も、自分との関係性もよく分からぬままではあったけれど───今、目の前の彼の手を強く握って離さぬようにしなければ、もう二度と会えなくなるような気がして。
涙を流しながらその手を握り返し、彼の肩へ額をそっと押しつける。
すると、僅かな動作は衣擦れの音を引き連れ。
彼の服や肌からは、桃の木に生を捧げ、鬼に勝ち続ける事だけを義務付けられた血筋の者が纏う香りがした。
「(……父様や私と、おんなじ匂い。)」
甘く、切なく。
時に鬼へ自分の居場所を知らせる印ともなり得る肌の香り。
幼い頃から近くにあった香りを改めて肺腑の奥まで迎え入れながら、いつまでも少年の手を離せずにいた。
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