桃と鬼 | ナノ
 15

気付けばもう昼も過ぎ。

薄い日陰の中で申し訳程度の涼を得つつ、かれこれ二時間半程前から。
百瀬は、待ち合わせ場所として指定された藤の家門の家の軒下で、炎柱の煉獄杏寿郎を待っていた。


今日は任務の都合上、体に合わせた作りの黒い隊服ではなく、私物の中から薄浅葱色の着物と濃紺の袴を出して着ているから、暑さは軽減されているはずなのだが。

暑くないはず、我慢がきくはず…と言い聞かせるものの、その実あまり変わらないような感じもしてついに考えるのを止めた。


浮いてくる汗をハンカチで押さえ、いよいよ蜃気楼まで見え出した往来を眺めるが、どれ程目を凝らしたとて辻から待ち人が現れる気配はない。

その上、いつもは行き交う人で賑わうはずの通りは、茹だるような暑さのためか暫く前から無人と化していた。


本当に誰も居ないのか、と辻の先を見ようとして一度日向へ頭を出すと、くらりと目眩がし…慌てて日陰へ戻ったのは言うまでも無く。

以前より少しだけ伸びた髪をきつめに編み上げて纏め、程良いところへかけた紺色のリボンが生温い風に撫ぜられて揺れる。

今日はやけに遅いな、と思いながら取り出した懐中時計は、待ち合わせの時間を大幅に過ぎた時刻を指し示していた。


普段から時間に遅れることはまずない人だから『珍しい』とは思いこそすれ、伝令が無いところからしてかなり忙しいのだろうか。

…まあ、肝心の任務までにはまだ時間があるし、煉獄のことであるから。
有事の際は鴉を飛ばしてどうすべきか必ず伝えてくれるだろうと考えて、自身の懐から少しだけ顔を覗かせていた懐紙をすっと抜いた。


徐にそれを開くと、中から『無限列車』と印字された小さな切符が顔を出す。

…今夜の討伐の舞台は、夜汽車の中であった。


今日の朝方に鴉が運んできてくれた文には『無限列車の中へ出没すると思われる鬼を炎柱や他の隊士達と共に討伐せよ』という簡潔な伝令文と共にこの切符が挟まっており、理想的な討伐の流れと大まかな作戦等が書き連ねられていたが。

現地集合ということではなく、こうして待ち合わせ場所が指定されている事から察するに、細かな所は話し合って決めて良いのだろう。


ただ、今回の任務で彼女に課せられている役割は討伐の補助であり…言ってしまえば、もしもの時の補欠や伏兵のようなものである。


『今回は隊服ではなく、平服で任務へ当たられるべし。』
『一般人に紛れて索敵と討伐をこなされますよう。』

文の至る所へこんな但し書きがあった時点で、乗車直後から煉獄達とは別に動く必要があるらしいと察しては居たが、果たしてここまでする必要はあるかどうか…。


抜けるように青い空を眺め上げ、暑さのためによく回らない頭で『彼が到着するまで中で休ませて貰おうか、』と思い至り、藤の家紋の家の敷居を跨ごうと踵を返した時。


辻の向こうから、唐突に誰かがこちらへ向かってくるような足音が聞こえた。

ついに煉獄が来たのかとそちらを見るも───現れたのは全くの別人であり、少々落胆してしまう。


しかし、暑い中を飄々と歩くその人物は黒い隊服を身に纏っており、自分や煉獄と同じ鬼殺の隊士である事が見て取れた。

ここは藤の家紋の家であるのだから、隊士が休息のために訪れるというのは当たり前だろうが…彼はこちらと目が合った途端に笑みを浮かべ、手を振りながら此方へ走り寄ってくる。


そうしている間に、彼は目の前へやって来て『東殿、お久し振りです。』と笑うものだから、ひとまず挨拶を返して頭を下げはしたが…困った事に全く見覚えがない。

けれど、こちらの胸中が伝わる事はなく。
『その節は大変お世話になりまして、』なぞと人懐こく話しかけられてしまったものだからいよいよ困る。


「(ええと…どこかでお会いした…のは確かなようだから、どちら様だったか思い出せばどうにかなるかしら……?)」


那多蜘蛛山の討伐の時に会った…佐藤殿だったか。
もしかすると、半年前の一斉討伐の時に話をした七森殿…ではなくて、南野殿だったかもしれない。

こんな調子でざっくり見当を付けたところまでは良かったけれど、曖昧なまま名前を呼んで間違っていたら失礼だし、かといって素直に分からないと言ってしまえば傷つける事になりかねないし……。


曖昧に笑い、話の節々に相槌を打ちながらどうしようかと考えあぐねていると、目の前の彼は急に真面目な表情になり、こんな事を言い出す。


「ところで、一つ伺いたいのですが───東殿はいつ鬼殺隊を辞められるんです?」

「………………。」


一瞬、何の事かと思ったが…時間が経つにつれて、言葉の裏にある気持ちが透けて見えたのと同時に『またか、』と溜息が出そうになった。


実は、柱合会議以降。

平の隊士の間にも『竃門兄妹の件に彼女が一枚噛んでいた』という事実が噂として広まり、誰が言い出したのか定かではないが、そこへ尾鰭が付いて。

ここ一月の間、百瀬に関する真偽の不確かな噂が一人歩きしている…というような状況が続いていた。


当然ながら、わざわざその一件についての抗議を書き連ねた文を鎹鴉に持たせてくる隊士も居たし、そんな状況を慮って励ましの頼りを送ってくれる隊士も居たが…ごく稀に、面と向かって抗議をしに来る隊士も居るのである。


目の前の彼はまさにその稀な一例であるのだが。

稀と言いつつ、ここ最近は三日に一度くらいの頻度で血の気の多い隊士に突撃されるという事態が多発しているのも確かで。


一昨日は仕事終わりに『件の一件に対して是非とも物申したい、』という隊士の剣幕に圧倒されてその場を逃げ出したものの。

……執念深く追い掛けられてしまい、最後は屋根の上で正座させられた挙げ句、三時間近くなじられるという結末に至ったのか思い起こされて早くも心が折れそうになる。


逃げて酷い目に遭った事を考えると、今回は真正面から相手の主張を受け止めた方が幾らか救いのある結果が得られるのではないか…。

そこに一縷の望みを見出し、伏し目がちに謝罪を口にする。


「…申し訳ないのですが、私が鬼殺の仕事を辞める事はありません。あなたも、柱合会議の一件で私に会いに来て下さったのだと思いますが……事実は、あなたが耳にした噂とおおよそ違わないはずです。」


淡々と告げれば、彼はこちらを冷たく睨め付け…先へ続く言葉を要求しているようだった。


「鬼殺の隊士として相応しくない行いに加担してしまった事や、隊士の方々の思いに反する行動を取ってしまった事、申し訳ございませんでした───どうか、今後も鬼殺の隊士の末席に身を置く事だけはお許し下さいまし。」


そう言って深々と頭を下げてすぐ…下がった目線の先にあった男性隊士の拳が細かく震えるのを見て、嫌な予感にぞわりと肌が粟立った。

直後。
身を捩る間もなく胸倉を握り締められ、乱暴に体が持ち上げられる。


「『申し訳ない』だと…?とにかく謝れば良いってわけじゃない!!甲の隊士だからって、自分より下の階級の隊士を馬鹿にするのも大概にしろよ!?」


顔に音の振動を感じるほど大きな怒声と共に、僅かに宙へ浮いた体をがくがくと揺らされ、眉根を寄せたまま彼を見下ろすと…それが気に入らないのだろう。

その応酬として、舌打ち混じりの睨め付けが寄越された。


「謝ったからって、はいそうですかなんて簡単に許せるわけあるか!!!そんな単純な問題じゃないんだ…俺は姉を鬼に食い殺されて鬼殺隊に入ったんだぞ!?何で俺より階級が上のアンタが…俺より強いアンタが、何で鬼を殺さないで生かしてんだよ!?!?なあ、おい、おかしいだろうが!!!」

「…申し訳、ございません………。」

「俺達は鬼殺隊…『鬼』を『殺』す『隊』で鬼殺隊だ!!何で鬼なんかを生かしておく必要があるんだよ!?あんな化け物どもは、早いとこ一匹残らず討滅すべきだろ!!!!」

「もうし、わけ…「いくら謝られたって許せるわけあるか、もう黙れ!!!───それに、俺はアンタみたいなのが上の階級に居るのも気にくわないんだよ!!!前々からおかしいと思ってたんだ……アンタ、自分が女だからってのにかこつけて、男の柱と寝てその階級までまんまと上がりやがったんだろ!!よく考えてみりゃ辻褄があわない事だらけだ!!この柔い体と細腕でそう幾つも鬼の首を斬れるわけもない…女の隊員は年を重ねれば重ねる程鬼殺隊を辞めていくか、階級が下がっていくのが普通じゃないか…はは…とんだお笑い種だな!!!」

「……………っ、私はどう言われても仕方がありませんが、他の方々まで悪く言うのはお止め下さい…!」


聞くに堪えぬ物言いに少なからず傷付き、激しく揺さぶられながらも抗議の声を上げたが、彼はそれを鼻で笑っただけだった。


「健気な物言いをしたって無駄さ、それどころかますますきな臭い…ふしだらな女ってのは抜け目がないもんだな…大方、アンタが今髪にかけてる高そうなリボンも誰かから買い与えられた物なんだろ?ほら、誰と寝て買って貰ったんだよ…教えてみろ。風柱か、水柱か…流石に蛇柱と霞柱はないとして…後は炎柱か音柱か……。」

「……ですから、私は誓って柱の方々とそういった関係ではありません…もう、この話はやめて下さい……。」

「どうだか……この後におよんで蒲魚ぶって。まさかその歳で未通女ってわけでもないだろうに、」

「…………………。」


百歩譲って、この話をしているのが室内ならまだ良かったかもしれないが、いくら他に人が居ないといったってここは屋外。

…誰に聞かれているかも分からないのに、こんな話を続けられるのはあんまりだ。


その時、何の気まぐれか。
彼がようやっと胸倉から手を離してくれたので、これ幸いと一歩後ろへ下がるも…逃げられるのを危惧してか、額に青筋を立てたままこちらの腕を掴み、動きを封じようとしてくる。

───こんな事になるくらいなら、最初から逃げた方が賢明だったかも知れない。


先程の自分の選択を後悔しながら再度身を捩れば、男性隊士のもう片方の手が何をするでもなく彼女の頭の後ろへ回され、瞬き一つの間にまた目の前へ戻って来て。

…その豆だらけの硬い手に握られていたのが髪へかけていたはずのリボンである事を認めるや否や、必死にそちらへ手を伸ばす。


「か…返してっ……!!」


ゆらゆらとはためく紺色を取り戻さんとして必死に伸び上がるも、一歩及ばず。

悲しいかな。
武骨な手によってリボンは皺が出来るほど強く握られ、自分の身の丈では到底手の届かぬ所へと持ち上げられてしまう。


「お願い…返して下さいっ!!それは、とても大切な物なんです…ですから…!!」


意図せず縋るような言葉が口をついて出たが、彼はこちらを冷たく見下ろしてせせら笑うばかりだ。


「は…そんなに必死になるなんて、やっぱりこれは男からの貰い物なんだろう?物としちゃ悪かないが、趣味も悪いし色味も悪い。」

「…酷い事ばかり言っていないで、早くそれを返して!!」


もう我慢が出来ず、先程より幾分か強い口調で告げるが、それが余計に気に障ったのだろう。

男性隊士は血が出そうなくらい強く唇を噛み締めた。


「忌々しい女狐め…鬼殺隊の恥さらしが…!!」


憎々しげな呟きと共にリボンが空中に放り投げられ、握り締められた拳が風を切って。

重い拳が脳天目掛けて降ってくる…そう直感したはいいが、今からでは避けきれないものであると判断した上で受けきる覚悟を決め、目を瞑った途端。


「───そこまでだ、」


男性隊士の背後から驚くほど低い声音が迫り、永らく捕まえられていた腕へかかっていた圧がふっと消える。

何が起きたのか定かでなかったが、恐々目を開ければ…いつの間にやら、男性隊士の居た位置には煉獄が立っており。

件の男性隊士はというと、煉獄によって日向へ引き摺り出され。
先程の百瀬のように胸ぐらを掴まれて宙吊りにされていた。


「……よもや。先程から黙って見ていれば、婦女に対して何と下劣極まりない物言いか…男の風上にも置けないな。」


突然の事に頭がついていかず、煉獄の方を凝視していると不意に目線がかち合い。
気を遣ってか、彼はいつもの調子でこちらへ声をかけてくる。


「出て来るのが遅くなってすまなかった。君には悪い事をしたな…大事はないか?」


それに答えようとはしたが、適切な返しが出て来ずにただ頷くと、煉獄は笑みを浮かべ。


「色々思うところはあるかもしれんが、ここは俺に任せて…もう少しだけ待っていてくれ。」


そう言い置き、再び男性隊士に向き直った。


「え…炎柱……何故、こちらへ…。」

「決まっているだろう…これから彼女と任務に行くために待ち合わせをしていた。本当は少し前から着いていたのだが…用件が終わるまでと待っていれば、こんな事になっていようとは。」

「ひっ…お、お許しを……!けど、元はといえば全部ソイツが悪いんです…鬼殺の隊士にあるまじき行いをしたっていうのに、のうのうと上の階級に居て…柱達は、きっとその女狐に騙されて」


その途端───煉獄の纏う雰囲気が変わった。

周囲の空気が俄に重くなったのを察し、その場から動けずにいると。
彼は炎のような色の瞳をすぅと細め、静かに笑みを浮かべる。


「『騙されている』とは…これはまた妙な事を言う。そこまではっきりと言い切るからには根拠があるのだろうな…?」


そんな問い掛けが呼び水になったのか。
それとも、煉獄が笑みを浮かべたから気が緩んだのか…男性隊士はこれ幸いとばかりに捲し立てた。


「そ、そうです!炎柱は騙されているに違いないんです!!俺…噂で聞きました、ソイツが女のくせに長いこと甲の階級に居られるのは、柱に媚を売って夜伽をしているからだって!!きっとそうだ、そうに決まってる…!!」

「……ふむ。君の言い分はよく分かった。ただ、最後の方は聞き捨てならない上に、君の話は元の所から大分論点がずれている。」

「………だ、だって、皆そう言って」
「だから何だ───言いたいことはそれだけか?」


反論を許さぬ物言いをしながらも、煉獄は相変わらず笑みを浮かべていた。

…笑みを浮かべてはいたけれど、彼が怒りを抑えているのは火を見るより明らかであったが。


「君は百瀬について幾つも酷い思い違いをしているようだが…彼女が甲の階級に身を置いているのは、それ相応の実力があるからに他ならない。今回、彼女が水柱の隊律違反の一件に加担していた事について憤る気持ちが抑えられないのも分かるが…それをありきにしたとて、嘘を嘘と見抜けず、真偽の定かでない噂噺を真に受けて。あまつさえ自分より古参の隊士を嬉々として辱めるというのは感心しないな。」

「…っ、し、しかし……!」

「同じ事はそう何度も口にしない方が良い───言えば言う程、君の株が下がるだけだ。」

「……………………!」


それきり、男性隊士は黙ってしまった。
当然ながら顔色は悪く、いっそ気の毒なようにすら思えてくる。

長い沈黙の中。
どこかで鳴き出した蝉の声音が暑い空気へ解けていく頃、最初に声を上げたのは煉獄だった。


「さて…百瀬。この隊士は君に対して随分と酷い事ばかり言っていたようであるし、隊士同士の私闘が禁じられているにも関わらず、頭に血が上った挙げ句最初に手を出したという事実もある───彼を柱合裁判にかけて今後の処遇を決める事も出来るが、どうする?」


急に話を振られたのと同時に、先程の一悶着が頭を過る。

…正直な所、言ってしまった物は引っ込められないとしても、暴力沙汰は煉獄が割り込んでくれたために未遂で終わっているわけだし。

何より、ここでうっかり『柱合裁判へ…、』なぞと言ってしまえば最後。
あの息の詰まりそうな空間へ招集され、この隊士が峻酷に取り調べを受ける様を半日かけて傍観する羽目になるのは分かりきっているため、彼女は迷わず自身の思いを口にする。


「…炎柱殿さえ宜しければ、今日の所は不問として頂けると私としても助かります。」


お願い出来ますでしょうか。

淀みなく伝えるや否や、彼は一つ溜息を着く。

すぐ後に『…君、そういう所だぞ。』と、煉獄がぼやいたのが聞こえたが、どうやらこちらの願いを聞き届けてくれる気は在るらしい。


程なくして。
しぶしぶ…といった感じではあったが、彼は永らく掴んだままの胸元から手を離し、男性隊士は咳き込みながら往来へ座り込んだ。


***


「彼女に免じて今日の一件は特別に不問とするが、二度と同じ過ちは繰り返すな───次は無い。」


ぞっとするような念押しが終わったと同時に、悲鳴を上げながら逃げていった男性隊士の背中を眺める煉獄の表情はいつになく険しいもので、見ているこちらとしても話しかけるのを躊躇してしまう程であったが。

陽炎の踊る辻へ件の隊士の姿が消えてしまうのを見送ったと同時に、彼の表情から獅子のような鋭さが抜け落ちたのを見て、ようやっと息を着いた。


「なかなかに面倒な相手だったが……よもや、君はいつもああいった輩に絡まれているのか?」

「…ええと…そうであるような、ないような……。」

「…む。では、場合によりけりという事か…、」


何とも言えずに黙れば、彼は何事か思案するようにこちらを眺めていたが、引き結ばれた唇が言葉を発する事は無い。

生温い風が煉獄と百瀬との間を吹き抜け、それきり沈黙が降りた。


溶けてしまいそうな程強い陽光に炙られながら黙り込み、何となく視線を足元へやって暫し。

『そういえば』という声がけと共に肩を叩かれ、顔を上げた瞬間。
煉獄の大きな手にそっと握られた紺色の細長いきれが姿を現す。


「……それは、」

「君が大事にしている物のようだったから咄嗟に取り返してみたが…少し皺が寄ってしまったな……申し訳ない。」


いつになく慎重な手つきでそっと差し出されたそれを受け取り、急いで頭を下げれば、彼が苦笑したのを感じた。


「いいえ、とんでもありませんわ…取り戻して頂き、ありがとうございます。本当に助かりました、」


そう伝え、皺の寄ったリボンを丁寧にたたんで懐へしまおうとすると、彼から待ったがかかる。

何事かとそちらを見上げれば、煉獄は眉根を寄せ…若干困ったような表情のままこんな事を言い出した。


「俺は女人の装飾品に詳しくはないのだが…それは髪に飾ってこその物なのだろう?」

「それはそうですが…先程のように意図せず外れてしまう事があるといけませんし…無くさないよう、しまっておこうかと思いまして……。」


着物の袷へ入れかけたリボンを握り、呟くように言葉を吐き出す。

波間を切り取ってきた、と言われたら信じてしまうくらいには鮮やかな紺色を眺めていると、あの夜の事が思い出されて…少々心がざわつくのを感じたが、それを悟られぬよう表情を引き締める。


よく考えれば『大事にします』と。
このリボンの贈り主である冨岡に約束した手前、普段使いするのはあまり良くない事だったのかも知れない。

本当に大事にするのであれば、桐の箱にでも入れて保管しておくべきだったろうか。

何より、先程のように妙な因縁をつけられて取り上げられるというような事があっては怖いので、今後は休みの日にだけ髪にかけるようにした方が───。


「それにしても、目が覚めるような色だな。よく見れば舶来の品のようだが、これも君の最初の育手だった……いや、養母のすゐ子殿の形見か?」


…急に話を振られたもので、一瞬『何の事だろう』と呆けてしまったが、彼の視線が自身の手元へ向けられている所から察するに、どうやらリボンの事を聞かれているらしい。

ひとまず首を横に振って否定し、これが『最近貰った物』である事を伝えると、彼から思いもかけぬ言葉が寄越される。


「……ふむ。では、これが冨岡から君へ贈られた物か。」


何でも無いような調子で言われたためについ頷きそうになったが…今度は『何故それを煉獄が知っているのか』という点が気になり、どっと冷や汗が噴き出す。


これまでの会話の流れで冨岡に関する話題は出ていなかったはずであるし、当然ながらこのリボンについても『最近貰った物だ、』と言っただけで、誰から貰ったかという所まで言及した覚えは無い。

だとすると、やはり件の隊士が言っていたような…不健全極まりない噂が広がっているのだろうか。

そう考えてしまうともう駄目で、全身から血の気が引いていくのが分かった。


「つかぬ事をお聞きしますが、一体誰がそんな事を…。」

「誰、というか……俺は冨岡本人から聞いたのだが、」

「───冨岡殿から?」

「任務帰りに立ち寄った浅草の蕎麦屋で偶然会ってな、冨岡の方から少しだけ話をしてくれた。」

「…左様でしたか、」


ならばいいかと思ったのも束の間。

平生から口下手であるのを理由に人と話す事を避けがちな冨岡が、自分から同僚に世間話をするとは…珍しい事もあったものだ。


それと同時に件の夜の出来事が蘇り、胸中へ不安が募る。

あの夜の冨岡は何だか変だった。
でも、あの夜の自分だっていつもとは違っていた。


彼の纏う雰囲気に呑まれていたからか、そうではないのか。

どちらにせよ、いつもなら軽く流せたはずの冗談に何も返せなかったのは確かであるし。
あの僅かな瞬間に、彼と自分との間にある『踏み越えてはならない一線』が消えかかりそうだったのは間違いない。


あの時。
もしこちらから変に何か言葉を返していたら、今頃どうなっていたのだろう?

そう考えると、何も返さないという選択は無難であったように思う。


けれど、彼は…こちらから何も言葉を返さなかった事を、冨岡は何と思っていたろうか。

決まった答えが返ってくると知っていた上での戯れであったのか、あるいは───。


「…冨岡殿は、それ以外に何か仰っていましたか?」


つい何の脈略もなく聞いてしまっていたが、煉獄はさして気にしたふうでもなく頷く。


「他にも二、三話した事はあるが…伝えるとなると長くなる。君とこうして話をするのも随分久し振りであるし、嫌でなければ座って話をしないか?」


そう言って彼が見やったのは、自分の背後…即ち、藤の家門の家である。

勿論異論は無い。
肯定の意を示すために数回頷いてみせると、彼は笑みを浮かべた。


「うむ、では…少しの間、やっかいになるとするか。」


元気よく告げて藤の家紋の家へ入っていく彼に続き、自分も踵を返しながら再度懐中時計を取り出して時刻を確認すると、最後に盤面を見た時から三十分程しか経っておらず、仰天してしまう。

未だ熱風の吹く往来から逃げるように煉獄の背を追い、彼女は暗く陰った敷居を跨いだ。

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