▼ 閑話:桃と傷
煉獄が亡くなってから二月が経とうとしていた。
今夜も鬼を討伐し、帰り着いた宿で風呂に浸かりながら白み始めた空を眺める。
そうして、湯に包まれている自身の体をぼんやりと眺め『またか、』と溜息が出た。
基本的に痛みを感じないのと、常人の三倍近く傷の治りが早いのは以前からであるが…近頃、どういうわけか前にも増して傷が塞がるのが早いのだ。
先程は鬼が左の手首へ齧り付いてきたのを避けきれなかったため、そこへくっきりと歯跡が残り、酷く鬱血していたはずだが。
今や『最初から怪我なぞしていなかった、』とでも言うかのように傷が塞がり、鬱血すら嘘のように消え去った…いつもと変わりない様子の左手首が湯殿越しに見え、何やら薄ら寒い物を感じる。
桶へ石鹸と共に入れていた剃刀を徐に手に取って。
人差し指の先へそっと刃を当てると、切れた皮膚から赤い物が滲み、丸い形を取った血液がぽたぽたと湯殿へ飛び込んでいく。
痛みは全くない。
けれど、重要なのはそこではない。
剃刀についた血を『悪い事だ』とは思いつつも湯殿ですすいで桶に戻し、故意に傷を付けた方の指も湯にくぐし。
傷ついた指先を凝視すると…果たして。
まだ薄らと血の滲む皮膚は、みちみちと音を立てながら瞬く間に塞がっていく。
裂かれた肉同士が吸い付くように完全に傷が塞がり、剃刀で傷を付けた前と何ら変わらぬ様子でそこにある自身の手を眺めて、また溜息が出た。
「…これではまるで。」
『鬼と変わらない。』
そんな言葉が出かかったが、誰かに聞かれているかも分からないから、と咄嗟に呑み込んだ。
…もしかしなくとも、どんどん常人離れしていく自分の体が恐ろしかった。
「(今はまだ人間味がある方ではあるけれど…これから先、私は一体どうなるんだろう。)」
漠然とした不安が脳裏を過り、湯殿の中で膝を抱える。
これは間違いなく桃との契りが関係しているに違いないが───諸々の不調を書き連ね『急ぎ詳しい事を教えて欲しい、』と実家の父母へ文を出したばかりであったが、返事はまだ無い。
もし。
「(もしも、桃との契りのせいで、私が鬼に準ずるような恐ろしい者に成り果てたのなら………。)」
それを必ず誰かが止めてくれるという宛はない。
意思が一欠片でも残っているのなら自害する事も出来ようが、そうでなければ────。
そこまで考えてしまった所で、百瀬は突然湯殿から立ち上がった。
長湯をしてしまったせいで若干逆上せているような気もするが構わず縁を跨ぎ、近くへ放っていた手拭いで肌についた水滴を拭き取る。
『心配事もこうして容易く拭き取ってしまえれば良いのに、』と下らない事を思いながら剃刀と石鹸を持ち、彼女は風呂場を後にした。
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