▼ 06:灯火を胸に
煉獄の死から数日後。
百瀬は藤色の訪問着を着て、陽の光に炙られた道を歩いていた。
今日は珍しく非番の日で、隊服の洗濯やら、刀の手入れやら…片付けるべき雑務は沢山あったのだが、今この時ばかりは見なかった事として。
真昼の蒸し暑い中、宅地の合間にのたばる道を無言で歩き、一人煉獄家を目指す。
一昨日執り行われた彼の葬儀には他の隊士と共に参列させてもらい。
線香を立てに行く以外、暫くは煉獄家へ出向く用事はないと思われたが───昨日の夜半に実家の父から送られてきた文により、急遽煉獄の父…煉獄愼寿郎を訪ねていく次第となったのだ。
まあ『訪ねていく』と言っても。
鎹鴉が実家の父の元から息せき切って運んできた文を 受け取って、彼女がそれを直接愼寿郎の元へ持っていく、というだけなのだが。
最初のうちこそ、全て鴉に託す気でいたけれど…脳裏へ『これから任務が続く中で、何度線香を立てに行けるか分からないから…。』という思いもあり、今回は直接文を届けるという選択をするに至ったのだ。
「(選ぶなら、後悔を残さない方を…後から、自分で確りと納得出来る方を。)」
そんな事を思いながら、彼女はぼんやりと葬儀の時の事を思い起こす。
煉獄の弟である千寿郎は兄の死を悲しみ、終始涙を流していたが…父の愼寿郎は、そんな彼を幾度か叱りつけていた。
尚、その時の愼寿郎から酒の匂いがした、というのが妙に印象に残っている。
『実の息子の葬式だってのに───こういう時くらい素面で出ようとは思わなかったのかねぇ、愼寿郎様は。』
『本当ですわ…元炎柱ともあろう方が、何たる体たらく。加えて、本当ならばこの家から新たに炎柱が立つはず…だのに、弟の千寿郎様は剣士の資質すら無いそうではありませんの…一時は名門と謳われた煉獄家も落ちたものですねぇ…。』
『よしなさい…言ったところでどうにもなりゃしないんだから…しかし、これでは杏寿郎さんが浮かばれないね……継子もいらっしゃらなかったようだし…何から何まで気の毒になぁ……。』
こんな具合に、何人かの隊士がひそひそと話をしていたのを小耳に挟んでしまった訳だが、それを咎めたりする気力も無く…流れてくる涙をハンカチーフで押さえながら黙っているしかなかった。
彼女自身、煉獄家とは少なからず縁があり。
実家の父と煉獄の父が友人同士であった事も手伝って、子どもの時分に父に連れられて煉獄家を訪ね、幾度か座敷へ上げてもらった事もあった。
自分が子どもの頃に垣間見た煉獄家には幸せそうな時間が流れていたし、厳しいながらも優しい両親と一緒に居た杏寿郎はいつでも嬉しそうに笑っていたのを覚えている。
それが崩れたのはいつ頃からだったろうか───少なくとも、杏寿郎の母である瑠火が亡くなった後。
即ち、愼寿郎が炎柱を引退した辺りからと見て差し支え無さそうではあるが、彼が父と何故上手くいかなくなったのかまでは知りようがない。
百瀬が桃と契りを結び、鬼殺の隊士となるべく東師範の元で修行をしていた頃。
彼は一体どんな生活を送っていたのだろうか。
一人で刀を握って鍛錬を重ね、書物を読んで呼吸を習得する…それがどれだけ大変な事なのか、彼女はよく知っている。
思えば。
修行をしている時分でも、彼へ文を書こうと思えば書く事だって出来ただろう。
隊士になって再会した際には、時間を作って…これまであった事柄を振り返りながら、ゆっくり話をする事だって出来たはずだ。
「(けれど………私はそれをしなかった。)」
彼が今何をしているのか。
母亡き後、家族と共にどう暮らしているのか。
頭の片隅で気になっていながら『今は時間が無いから。』『お互いに忙しいだろうから、』なぞと様々理由をつけて。
「(……自分から、彼の方へ歩み寄っていこうとはしなかった。)」
後悔は先に立たず、覆った水が盆に返る事がないように。
ともすると、これは昔の自分が無意識のうちに蒔いてしまった怠惰が積み重なった結果という事になろうか。
────今はもう話す事の出来ぬ彼の事を思い。
自分の至らなさを強烈に悔いながら道を急ぐ。
浮いた汗をハンカチーフに吸わせ、所々に植えられた木の側を通る度に追い縋る蝉時雨を振り払って。
何度か道を折れ、ようやっと煉獄家を見つけて安堵したのも束の間。
その玄関先へ、本来ならば決してここに居るはずのない隊士の姿があるのを認め、立ち止まった。
遠目からでもよく分かる…特徴的な市松模様の羽織に、赤みを帯びた黒髪。
先日の任務の折に負った怪我のために、暫く蝶屋敷で絶対安静を言い渡されているはずの炭治郎が、何故ここへ居るのか。
今頃、蝶屋敷で炭治郎の姿を探しながら不機嫌そうにしているであろう胡蝶の姿が容易に想像出来てしまい、途端に冷や汗が出始めたが…幾度瞬きをしようとも、目の前で千寿郎と話をしている炭治郎の姿が掻き消える事は無い。
「(怪我の具合からして、とても歩けるような状態では無いのだろうけど───いや、でも…彼の事だから。)」
恐らくは、無理を押してまで煉獄家に訪問せねばならぬ用事があったのだろうが。
それにしたって、いくら『若いから』とはいえ、毎度毎度何て無茶をするのだろう。
とにかくそちらへ向かおうと再び歩き出した時───俄に玄関先が騒がしくなった。
「…やめろ!!どうせ下らん事を言い遺しているんだろう。たいした才能も無いのに剣士になどなるから………だから死ぬんだ!!くだらない…愚かな息子だ、杏寿郎は!!」
こちらまで聞こえる程の大声に何事かと顔を顰めたが…声の感じからして、怒鳴っているのは間違いなく愼寿郎だ。
途端に、彼女は歩みを早めた。
その最中も愼寿郎の声が遠くに聞こえ、時折千寿郎を厳しく叱りつけているような怒声も飛んでくる。
「お前……そうか。『日の呼吸』の使い手だな?そうだろう!?」
「『日の呼吸』?何の事ですか………?」
愼寿郎の問い掛けに対して戸惑いながら炭治郎が答えた途端、彼は胸ぐらを掴まれ、地面に引き倒された。
直後『父上、やめて下さい!!』と。
どうにか間に入ろうと千寿郎が縋り付くが、それすら払いのけられるのが見え、いよいよ焦る。
そうしているうちにも、炭治郎が語気も荒く拳を振るい、それを見切った愼寿郎が後ろへ飛ぶ。
真昼の住宅地に似合わぬ物々しい雰囲気に気圧されはしたが、誰の目があるやも分からぬこの場で怪我人が出るのは好ましくない。
そんな思いから自然と小走りになるが、その間も愼寿郎と炭治郎の言い合いは続き、段々と語気も荒くなっていく。
「『日の呼吸』の使い手だからといって調子に乗るなよ、小僧!!」
「───乗れるわけ無いだろうが!!今、俺がどれだけ自分の弱さに打ちのめされてると思ってるんだ、この糞爺!!……煉獄さんの悪口言うな!!」
一際激しい言い合いの後に殴りかかっていった炭治郎の拳を容易く避けると、隙を突いて愼寿郎が彼の頬を殴り付けたのを目にして…もう我慢がきかず、声を上げた。
「────何をなさっているのです、お止めなさい!!!!」
自分でも驚く程大きな声。
それを耳にした愼寿郎が弾かれたようにこちらを見て。
そうかと思いきや、炭治郎が体を捻り、愼寿郎へ渾身の頭突きを食らわせようと飛び付く。
『まずい』と思った頃にはもう遅い。
既視感に苛まれながら足を止めた途端……………ゴッ、と。
妙に鈍い音を引き連れ、二人はそのまま地面へ倒れ込んだ。
***
「すみません百瀬さん…せっかく来て頂いたのに、父の手当から介抱まで手伝って頂いて……。」
「いえ、これくらいどうという事はありませんわ…それにしても、大変でしたね。」
隣で困ったように笑う千寿郎へ気丈に笑いかけ、彼女は静かに庭を眺める。
件の一悶着から早一刻。
百瀬は煉獄家の縁側に千寿郎と並んで座り、目が醒めるなり酒を買いに出かけてしまった愼寿郎を待ちがてら世間話をしていた。
先程までは炭治郎がすぐ近くの座敷で千寿郎と話をしており、その間彼女は仏壇に線香を上げさせてもらっていたのだが。
手を合わせてじっとしている内、炭治郎の見送りを終えたらしい千寿郎に肩を叩かれ『何もお構いできなくてすみませんでした、』と茶を勧められて今に至る。
「…そういえば、百瀬さんは父上に用があったんですよね?」
「ええ───といっても、私の父が書いた愼寿郎殿宛の文を置きに来ただけなのですけれど。」
「そうなんですね。百瀬さんの父上…確か『仁科桃吾』さん、でしたか。昔、家にいらっしゃった折に遊んで頂いたのを覚えています。」
その時、きし…と廊下が鳴り、音のした方を見やると酒瓶を手にした愼寿郎が立っている。
杏寿郎や千寿郎と同じ、炎のような色味の瞳がゆっくりと動き、やや気怠そうな表情でこちらを捉えた。
「桃吾の娘か……今日は何の用だ。」
低い声で問われてすぐ、彼女は居住まいを正して軽く会釈をする。
「日も空けず突然お伺いしてしまって…申し訳ございません。私の父から愼寿郎殿宛の文を預かりましたので、届けに参りました。」
簡潔にそう告げると、立ち上がって愼寿郎の近くへ寄っていき、袂から出した手紙を取り出して目の前に差し出す。
彼は無言で百瀬の顔と差し出された文とを交互に見ていたが。
「───相も変わらず、まめで耳が早い。御苦労な事だな、」
どこか皮肉っぽく呟いてすぐ、文を受け取って懐へ入れたのを確認し、彼女は千寿郎の方を向く。
「千寿郎殿、お茶…ご馳走様でした。それでは、今日は失礼させて頂きます。」
方々への会釈を済ませるが早いか、彼女は一人玄関へ向かって歩き出す。
やや遅れて。
「待って下さい…お見送りを、」
そんな言葉と共に、ぱたぱたと千寿郎が追い掛けて来たが、彼が隣へ並んだ際に『これから愼寿郎殿と大事なお話があるのでしょう?…私なら大丈夫ですから、どうかお構いなく。』と返すと、彼は一瞬目を伏せ。
「───何から何まで、お心遣い頂き、ありがとうございます。」
少々寂しげに笑って、彼は父の歩いて行った方へ踵を返し、大急ぎで走って行く。
杏寿郎の物より幾分か小さなその背中が角を曲がって消えるまで見送り、百瀬は無言で廊下を歩き出した。
着物に付いた線香の匂いが、まだ長く続くのであろう夏の空気と混じりあい、何とも言えぬ物悲しさを感じる。
加えて、夕刻まではまだ時間があるというのに、カナカナ…とそこかしこで鳴き出したひぐらしの声が聞こえだして、より一層彼女の気持ちを重苦しい物にしていく。
間もなくついた玄関で草履を履いて外に出ると、真っ青な空へ白い入道雲が湧き出ていた。
────この分だと、そう遠くないうち雨が降る。
濡れる前に帰らなくてはと思いながら、彼女はそろりと煉獄家を抜け出て、再び細い道を歩き出した。
何をしていようが、頭の片隅では『煉獄殿は今年の夏を迎えられなかった。』という事実がこびり付いて離れず、それが酷く彼女の精神を苛む。
鬼殺の仕事をする中で、人が亡くなるのは何度も見てきたし、そのうちの何人かの死に際に立ち会い、見送ってきた側ではあったのだが…。
ここまで酷く気分が落ち込んだままなのは、胡蝶カナエが亡くなって以来無かった気がした。
勿論、人が亡くなるというのは皆等しく悲しい出来事であるし、今際の際に立ち会ったり、看取ったりした後は数日気持ちが落ち込んだり、それを思い出して泣いたりする。
……しかしながら。
『自分と関わりが深かった人物の死』は心に深く影を落とし、時折耐え難い程の悲しみに苛まれる物である、と。
今更ながらに思い出し、瞳に涙を浮かべる。
そうしているうち、背後から聞こえてきたゴロゴロ…という雷の音に追い立てられるようにして、百瀬は慌てて走り出した。
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