桃と鬼 | ナノ
 11

僅かな静寂の中。

百瀬は、自身の現状を顧みるより先に、腕に抱えたままの木箱へ目を落とす。


咄嗟の行動だったもので、刀が僅かに掠ったのではないかと心配したが…不安に対して、箱に目立った傷はない。

それに安心していると、未だ肩に触れたままだった刀の切っ先が離れていくのを感じ…彼女は恐々不死川の方を振り返った。


視界の端。

手を伸ばせば届く距離へ居ると思い込み、振り向いたその先へ、彼の姿は無い。


一瞬、惚けて。
しかし、自身の背後へ僅かな気配を感じた時にはもう遅かった。


いつのまにやら、音も無く背後を取っていた不死川によって、酷く無遠慮に肩を押され、腕に抱えていた箱ごと砂利の上へ倒れ込む。


突然の事だったので、片手をつく間すらなく。

倒れ込んだ先で、自身の頬へ硬くゴツゴツとした石の感触を味わいながら、どうにか起き上がろうとするも…そうは問屋が卸さない。


続いて、何の予告もなしに自身の腰の辺りへ、妙に重たい物が乗って来たのと同時に差した影にぎょっとし、弾かれたように顔を上げれば───自身の体の上へ馬乗りになり、迷い無く喉へ刀を当ててくる不死川と目が合った。

鋼の冷たさを喉元へ感じているというのに、己の皮膚の下を流れる血潮は、熱した火箸を押しつけられていると錯覚する程に熱く、胸は早鐘を撞くように騒ぐ。


『僅かにでも動けば、すぐさま刃が押しつけられ、難なく首と胴体が泣き別れる。』

脳裏を過った血生臭い光景を反芻しながら、彼女は呼吸すら忘れ、じっと不死川を見る。


「なあ、百瀬よォ…。」


互いの息がかかるのではないかと思える程の近距離。

彼は容赦のない眼差しでこちらを睨み、百瀬が抱いたままだった箱の縁へ拳を叩きつけて、再度口を開く。


「もういっぺんだけはっきり言っとくが───お前にゃ、ここで身を挺してまで後ろのそれを庇う義務はねぇ。それから、俺は今、鬼殺隊の柱としてお前に話をしてる…分かるか?」


「………勿論、存じております。」


「…なら、今のお前は、この場で『冨岡が隊律違反を働くのに加担した挙げ句、柱の命令に背いた一般隊士』って扱いになってんのも分かるな?」


「………よく、分かっております。」


噛み締めるように答えながら、もし自分がそれを理解出来なかったとして。

今、この時ばかりは、そちらの方がどれ程良かったか。


そんな事を考えながら、彼女は浅くなりかけていた呼吸を正常に保つため、一旦深く呼吸をした。


───下手な事を言えば、禰豆子の身に危害が及ぶだけでなく、自分の体すら二度と使い物にならないようになりかねない。

極度の緊張と不安感、その他諸々の弱い感情達が雪崩れてきて、なけなしの理性を支配されてしまいそうになりながらも、百瀬は強引に自身の唇を開き、言葉を声に乗せて必死に押し出す。


「………私には『お館様から護衛を言い付かったから、』という事の他にも、この箱を不死川殿へお渡しするわけにはいかない理由があります。元より、この身に処罰が下るというのは分かりきった事。私も、それ相応の覚悟を持って風柱殿からの命をお断りしているつもりです。」


その辺りで、自身の喉元へ刃がかすかに触れて、チリ…と何か熱い物が迸ったのを感じはしたが、知らないふりをした。

こちらの一挙手一投足を尋問でもするかのように冷たく眺めながら、彼は徐に口を開く。


「───そりゃご大層なこった。なら、今ここでその『理由』ってのを話してみろよ…幸い、ここには他の柱もいる。」


『場合によっちゃ、特例中の特例として、お前の言い分が通るかもしれねぇ、』と。

呟くように言い捨てて、彼はそれきり押し黙った。


「(『場合によっては、言い分が通るかもしれない、』なんて…。)」


聞きようによっては大変良心的なように思える申し出だが…不死川の口から件の謳い文句が出て来た瞬間から、嫌な汗がどっと噴き出して止まらなくなる。

───それというのも。
彼が、さもありなん、というように口にしていた『特例中の特例』なぞという物は、今日に至るまで一度だってあった試しがないのだから。


これまでに柱合会議で裁かれてきた幾人もの隊士が件の謳い文句に乗り、そこに至るまでの経緯や理由を包み隠さず述べたとて、当然ながら罪が軽くなるわけもなく。

誰も等しく峻酷な取り調べを受け、それ相応の処罰を下されている…その事実を、彼女は誰より良く知っていた。


これ自体は、鬼を拷問する際にも恒常的に使われる手段であるから、よく考えなくとも、その先へ救いが無い事は分かるはずだが…藁にも縋るような精神状態であるなら、あるいは、と。

目の前へ突如として転がってきた甘い申し出に、一縷の望みをかけてしまうのかもしれない。


いよいよ後には引けなくなったのを感じながら、彼女は不死川を見返し、気丈に話をする。


「…機会を頂けたのは嬉しいのですが。件の理由というのは、少々特殊な任務の際に得た物でして…お館様から御許可がある時以外は、決して口外する事が出来ないのです。本当に私の話を聞いて頂けるのなら、どうか、お館様がいらっしゃるまで今暫くお待ち下さい。もし、そうでないなら────。」


そこから先を言うのは、あえて控えた。

皆まで云わずとも、彼の顔を見る限りは、こちらが何と言おうとしていたのかを察したのが見て取れたからだ。


そのまま、抵抗をする事も無ければ動く事もなく。
百瀬は静かに不死川を見据える。


暫し無言で互いを見合うというだけのささやかな応酬が続き。

唐突に降ってきた盛大な舌打ちと共に、彼女の喉元へぴったりと張り付くように当てられていた刀は、一度引っこめられた。


…しかしながら、これで終わるはずもない。

不死川は完全に据わった目でこちらをじっとりと眺め下ろし、物も言わずに刀を構え直す。


薄緑の刀身が怪しく陽光を跳ね返し『今まさに刀が喉笛へ振り下ろされる、』と、誰に教えられるでもなく直感したその時。


「────やめろ!!!!」


離れていても、顔にびりびりと衝撃を感じる程の大声が空気を裂き。

あまりの音量に若干耳が遠くなったのを感じながら、何事かとそちらを見る。


すると、物凄い形相のままこちらへ駆けてくる炭治郎の姿が見えて。

為す術もなく目を見開いているうち、不死川が動いた。


彼は瞬時に立ち上がり、一歩前に踏み出すと、突っ込んでくる炭治郎を見据えて的確に刀を振る。

対して、炭治郎はその動きを見切り、勢いを殺さぬまま空中へ跳ね上がったかと思えば───そのまま自身の頭を振りかぶり、不死川の顔面目掛けて思い切り頭突きを食らわした。


ゴツ…と。

やけに鈍い音が周囲に響き渡ってまもなく。
不死川は、派手に鼻血を吹き出しながら砂利の上へ倒れ伏す。


「し、不死川殿っ………!?!?」


突然の出来事に、思わず『大丈夫ですか!?』と叫んでしまったが、彼がそれに答える事はない。

目の前で起こった衝撃的な出来事に度肝を抜かれ、動けずにいるうち…どうにか転ばずに着地した炭治郎が、彼に向かって再び口をきく。


「さっきから、急に刀を向けたり、馬乗りになったり───女性に向かって何て事するんだ!!それに、俺の妹を何度も傷つけようとして…そんな粗暴な事ばかりしているなら、柱なんか辞めてしまえ!!!!」


吼えるようにきっぱりと言い切ったかと思えば、不死川は頭を上げ。

炭治郎に勝るとも劣らないような勢いで言葉を吐き捨てる。


「………あァ!?ンだと、この……!!」


それきり、互いに睨み合い、激しく言い争いを始めた両者を眺める傍ら、そろりと身体を起こして。


これまで沈黙を貫いてきた他の柱の方を見やると、何故か必死に笑いを堪える者や、心配そうに眉根を寄せてこちらを眺めている者。

どこか遠くを見て、こちらの事なぞ歯牙にもかけない者や、集まって何やら話し出す者等、反応は様々だ。


しかし、その中に冨岡の姿が無い事に気が付き『一体どこに行ってしまったものか、』なぞと頭の片隅で思った時。


「…百瀬、」


聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、まさかと思いながらそちらを向くと。

よく見知った男───冨岡義勇が隣にしゃがみ、こちらを見ていたのと目があった。


先程までは、他の柱達が居る場所の外れに陣取っていたはずだが…一体いつの間にこちらへ来たのだろうか?

少々戸惑いながらも挨拶代わりに頭を下げると、彼は背後の箱を眺め、次にこちらの有様を見て小さく溜息をつく。


…そういえば、これまであまりに必死すぎて意識を割く余裕すらなかったが。

そこそこ長く伸ばし、先程までは確かに後ろで一つに束ねていたはずの自身の髪は、今や童女か尼のような長さ…所謂、肩口の辺りまでになってしまっていたし、肩や喉、頬と、大小様々ではあるが、確実に目につく箇所へ血が滲んで。

率直なところ、誰であろうと『これはちょっと、』と思うであろう程には酷い見た目になっていた事を自覚する。


ただ、自分でも『酷いな、』と思いはするが、今の混沌とした状況では何も出来る事がないために、黙って目を伏せていると。

不意に冨岡の手が伸びてきて、その固い皮の張った親指がそっと髪の先へ触れた。


髪の先へは神経なぞ通っていないはずであるが、確かに彼の指がふれたのを感じ、意図せず体が震える。

そんな様子を目の当たりにしたからだろう。
冨岡は即座に髪に触れていた指を引っ込め…けれども、凪いだ瞳は静かに百瀬の髪の先を眺め続けたままであった。


恐らく、急に髪が短くなってしまったのを気にしてくれているには違いないのだろうが。

雰囲気というか、表情というか…決定的な物は無いにしろ、何とはなしに冨岡が落ち込んでいるらしい事が分かって、彼女はそっと目を伏せる。


髪が切れた直接的な原因は、自分の読みが甘かった上、不死川の剣の軌道を見極められなかった事にこそあるのだが。

よく周囲を見てみれば、冨岡だけでなく、不死川もこちらの髪を眺めてばつの悪そうな顔をしており『見た目がこうも悲惨なのだから、気にしないで欲しいと伝えた所で、余計に気になってしまうのだろうな…。』なぞと思い始めた時。

目の前に鎮座し、沈黙を貫くばかりであった屋敷の方から、凛とした子どもの声が聞こえてくる。


「皆々様、どうかご静粛に───お館様のお成りです!!」


その声に反応して座敷の方を見やると、いつの間にやら襖の前には、お館様の御息女が二人座っており。

御息女により音もなく開けられた襖から、お館様がゆったりとした足取りで畳を踏みしめ、こちらへ向かってくる御姿が見える。


「───よく来たね。私の可愛い剣士達。」


そう言って笑みを浮かべるお館様は、以前会ったときよりも痩せたように見えた気がして。

けれど、そんな事は決して口に出さず、彼女は誰より早く砂利の上へ膝を着き、お館様へ向かって深々と頭を下げた。

prev / next

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -