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相も変わらず、周囲は水を打ったような静けさに包まれていた。
…先程は、出来るだけ角の立たない言い方で。しかし、伝えるべき所は確りと伝えたつもりだが、これがどう転がるか。
最早完全に運任せのような有様であったが『さっきはこれより他に事態を動かす方法が思い浮かばなかったのだから仕方が無い、』と。
重い沈黙に体を押されるような心地に苛まれながら、百瀬は自身に言い聞かせる。
───そうして、片時も目を逸らさず、無言で不死川と見合う事暫し。
彼は瞬きを一つして、何の前触れも無しに目を伏せ…かと思えば両腕を組み。
とびきり渋い顔をして、溜息を一つ吐き出す。
「───なるほどなァ、」
こりゃあお前が適任なわけだ。
何事か独りごちる彼の意図を図りかね、やや眉間に皺を寄せながら顔を覗き込もうとすると『そんな顔で見んじゃねぇ、』と言ったきり、また溜息を吐いてみせた。
続いて、彼は困ったように軽く頭を掻き…珍しく歯切れの悪い出だしで言葉を連ねる。
「まあ、その…なんだァ……、お前の言ってる事は間違っちゃいねぇし、そういう事情があんなら仕方ねぇ───こっちこそ、急に悪かったな。」
「…………っ、」
一瞬、小さく漏れそうになった声をどうにか喉の奥へ飲み込み。
こちらへ向かって緩やかに下げられた不死川の頭を見てすぐ『何がどうなったのかはよく理解できないが、ひとまずどうにかなったのだろう、』と思い至って、彼女はようやっと脱力する。
実を言えば、今回は状況が状況なだけに『柱のうち、誰かには力一杯殴られるかもしれない、』と。
あらかじめそんな心づもりはしてきていたのだが…鬼絡みの件であるというのに、まさかこんな収まり方をするとは───。
まあ、何はともあれ。
危うい所は多々あったけれど、結果としては禰豆子を守り通せたという事実に安堵し、額へ浮いていた汗を拭ったその時。
彼は緩やかに頭を上げたかと思うと、再び口を開いた。
「…ところでよォ、」
急に話し掛けられたので…と言えばそれまでなのだろうが、さっきの今という事もあり、気が緩んでいたのも確かで。
今度はどうしたのか…と若干不安気に不死川の顔を見上げるが、当の本人はさして気にした風でもなく、こんな事を言い出す。
「さっきの話からすると、お館様からの御指示が無い限り、お前は『箱の傍を離れられない』『箱を他の奴に渡せない』って事なんだな?」
ゆっくりとした問いかけに何か不穏な物を感じたものの、彼の言った事に間違いはない。
そうだ、という意思表示のために頷くと、彼はやや間を置き。
こちらを確りと見据えたまま、尚も話を続ける。
「…なら、その理屈で行きゃあ、お館様からの御指示が無くとも、お前が『箱の傍から離れず』『箱を誰にも渡さず』って状態なら、何も問題は無い訳だな?」
確かに、言われてみればそうか…よく考えもせず反射的に頷こうとしたところで。
先程感じ取った不穏な何かが形を取ったのを感じ取り、すかさず頷く動作を取り止める。
───見た目なども相まって勘違いされがちではあるが、元より不死川は人の話を割とよく聞いてくれる部類であるし、彼女からしてみると、鬼が絡まなければ基本的に穏やかで良識のある青年だと思う。
何より、冨岡と同じように若くして柱となり得た彼であるから、当然頭の回転だって早いはずだ。
…そんな彼が、何故。
百瀬が先程言った事を繰り返し、わざわざ謎かけのように言葉を置き換えて話をしてきたものか。
思うところは色々あるが、今の雰囲気からしてその先を考える暇はもらえなさそうなので。
彼女は自身の右手で背後に置いていた箱の紐を確りと握り、僅かな重さのそれ持ち上げるが早いか、音もなく後退った。
「…そろそろ日陰の位置が変わる時間帯ですので、これにて失礼させて頂きます。」
『では、またご一緒する事がありましたら。』という別れの文句に、軽い会釈と笑顔を添えて。
箱共々、早々にこの場から離れようと一歩踏み出したのだが───少々遅かったようだ。
百瀬が足を動かすのと同時に、傷だらけで厚い皮の張った手が伸ばされ。
『逃すつもりは毛頭ない、』とでも言うかのようにがっしりと左手首を握って、彼女をこの場に押し止める。
痛みこそ感じないものの、ぎりぎり…と継続的に強い力がかけられているために、皮膚の下から骨の軋む音が聞こえるような気さえして。
このままだと、手首が折れるのでは…なぞという考えが頭を過り、眉根を寄せていると、大分高い位置から舌打ちが降ってくる。
「………ったく。何かと思えば、明るい顔して陰気な事言いやがって。」
「…申し訳ありません、」
咄嗟に謝罪を返すと、不死川は難しい顔をしてこちらを一瞥し。
かと思えば、掴まれた手首へあらん限りに込められていた力が急速に弱まり、瞬きをするうちに、彼の広い背中がこちらへ向けられた。
「え……あの、」
行動の意図が読めずに戸惑いの声を上げると、不死川は、緩くではあるが…未だ握ったままの彼女の手首を引いて唐突に歩き出す。
「…あの、不死川殿……?」
とりあえず箱の紐は右手で確りと持ち。
彼に連れられるようにして後ろを歩きながら声をかけたが、反応は無い。
「……不死川殿、」
「…………。」
「不死川殿。」
「…………。」
「その…困ります、私…。」
言いかけた時。
歩きながらではあったけれど、ようやく彼から言葉が寄越される。
「───何が『困ります、』だァ?俺は別に、お前から箱を毟り取ったわけじゃねぇし、お前だって箱からは一歩たりとも離れちゃいねぇだろうが。」
「それは…確かにそうですが………思っていた物と違う、というか…。」
こんな具合に食い下がってはみたが、それ以降、不死川は行き先も告げぬまま、貝のように口を閉ざして歩くばかりであった。
それにめげる事なく、しばらくは必死に『おやめ下さい、』『困ります。』なぞと大きな背中へ向かって言い続けていたものの。
───丁度屋敷の砂利道を半分も往った頃になっても、已然彼からの返答は無く。
これはもうどうしようもないだろうな、と諦めがついてしまい、百瀬は不死川に伴われるままに黙って足を動かす他なかった。
***
もう随分歩いただろうか。
あまり変わり映えのしない景色の中、所々に植えられた松や梅といった木々を眺めながら足をすすめていると、同じ場所を行きつ戻りつしているような錯覚に陥るが…その感覚は正しくない。
何より、彼女は自身の経験を持ってしてそれをよく知り得ていた。
この独特な道順と植物の配置からして、最終的に辿り着く場所といえば、お館様の邸宅に面したお庭───つまり、柱合会議が開かれる場所である。
薄々、そうだろうなという気はしていたけれども。
実際の所は『この予感が外れればどんなに嬉しい事か、』なぞと願っていたために、彼女は少しばかり落胆していた。
相変わらず無言で先を行く彼の足取りには、迷いが無く───彼は元より、禰豆子を連れてお館様の元へ参上するつもりだったのだろうなと見当が付く。
結果として、百瀬まで引き連れて柱合会議へ向かっているわけだが…不死川の事だ。
彼自身がそちらの方が早いと踏んだからには、途中で放り出される事もないだろう。
『ここは変に逆らうよりか、流れに乗っていく方が良いのだろうな、』と思いながら歩みを進めているうち。
丁度三本目の松の下を通り過ぎた辺りから、お館様の屋敷の一部が見え。
そこへ既に集まっていた柱が、庭の砂利の上へ座った…炭治郎と思しき隊士を取り囲むようにして、何やら話をしているのが聞こえてきた。
「………俺の妹は、鬼になりました。だけど、人を喰った事はないんです。今までもこれからも、人を傷つける事は絶対にしません…!!」
彼が必死に訴えかけてすぐ、伊黒と悲鳴嶼が否定的な意見を述べたが…それを聞いてか聞かずか。
これまで物言わずに前を往っていた不死川に変化があった。
まず、歩幅が急に広がり。
歩く速度が上がったために、彼女は小走りでそれに着いていく事を余儀なくされ。
続いて、百瀬が若干遅れ気味なのが悪いのか、炭治郎の先程の発言に当てられた為なのか…彼は明らかに不機嫌そうな雰囲気を纏ったまま舌打ちをする。
「聞いて下さい!!俺は、禰豆子を治す為に剣士になったんです…禰豆子が鬼になったのは二年以上前の事で、その間、禰豆子は人を喰ったりしてない!!」
臆せず、また炭治郎がこれまでの経緯を説明しようと試みたが、今度はそれに被せるように宇随が話を始め…この辺りから、不死川は完全に理性的でなくなった。
柱合会議の場は、もう目と鼻の先だというのに。
最早隠す気もないのか、彼は色濃く殺気を漂わせ、勢いもそのままに進んでいく。
「妹は、俺と一緒に戦えます!!鬼殺隊として、人を守るために戦えるんです…だから───!!!」
炭治郎の叫びが、余程近く感ぜられる所まで距離を詰めたその時。
「───オイオイ、何だか面白い事になってるなァ!!」
不死川は突然口を利き。
そうかと思えば、これまで掴んだままだった彼女の左手首へ一瞬力を込め───そのまま、ぐいと手前に引っ張った。
「───え、」
予想だにしない彼の行動に妙な声が漏れてしまうが、やられた方としてはたまったものではない。
百瀬はその勢いを殺す事も出来ずに不死川の前へ放り出され、転びかけたものの。
どうにか片膝をついたので、勢揃いした柱の目の前で砂利に突っ伏すという事態は回避できた。
禰豆子が入った箱も、大して揺らす事もなく隣へ置く事が出来たので、ひとまず安心したが───その場に居た全員の視線を集めてしまうのは、どうにも回避出来かねたようで。
多種多様な思いの籠もった視線を一身に浴びつつ、彼女は僅かに耳を赤くする。
「……………。」
一体、何故彼はいきなりこんな事を。
無言のまま。
ひしひしとせり上がってくる羞恥心を押し殺しながら、この状況を生み出した張本人の方を振り返ろうとすると、その必要は無いと言わんばかりに不死川の気配が近付いてくる。
庭に敷かれた白い砂利を踏みしめる足音は、先程とは打って変わり、非常にゆっくりとしたものであったが。
それとは相反し、決して穏やかではない口調で、彼は誰にともなくこんな言葉を放る。
「鬼を連れてた馬鹿隊員ってのはそいつかィ…一体全体、どういうつもりだァ?」
怒気を孕み、一歩。また一歩と歩み寄ってきた彼は、百瀬の右隣へ来た所で意味深に足を止める。
「───不死川さん、勝手な事をしないで下さい。」
他の柱が黙り込んでいる中、胡蝶か無表情で彼の行動を咎めたが、不死川は不敵な笑みを浮かべたまま、片手を自身の刀の柄にかけ。
一瞬だけこちらを見たかと思えば、今度は炭治郎の方を確りと見据えて言葉を発する。
「鬼が何だって?坊主ゥ…『鬼殺隊として、人を守るために戦える、』だァ?───いいか、そんな事は、ありえねぇんだよ馬鹿がァ!!!」
刹那。
彼は止める間もなく抜刀し、その時になって、彼女はようやく不死川の一連の行動の意図を理解する。
不死川殿が私を前に出したのは、言わずもがなこちらへ注意を集めるため。
そして、わざわざ私の右隣に来たのは───私に刀を抜かせず、禰豆子殿に刃を向けるため。
…我ながらぞっとするような考えだったが、自身の勘が、それが嘘ではないと断言していたので、いよいよ焦った。
そうしているうちにも、彼は何でも無いように百瀬の右側へ置かれた箱目掛けて刀を斜めに突き立てようと柄を握り直している。
今からではどう頑張っても刀は抜けないし、短刀を抜いたとしても、不死川の一撃を受けきれるかは分からない。
「(…それなら、)」
彼女は不死川の方を確り見据え、シィ…と強く息を吐き出し、呼吸を使う準備を整える。
そして、彼の薄緑色の刀身が踊ったのを視界の端へ捉えながら、紐を手繰り寄せて箱を抱き抱え。
そのまま、不死川に背を向けるような形で身を翻した。
時間にしてみれば、まさに瞬き一つ程の間。
しかし、その僅かな合間。
彼女は、自身の首元が俄に涼しくなったのを確かに感じたし、自分の左肩に不死川の刀の先が刺さってしまっているのも、そこから何か熱い物が溢れ出しているのも分かった。
「………は、」
不意に漏らされた不死川の声に弾かれるようにして振り返ると、あらん限り目を見開き『本当に驚いた、』というような表情の彼がこちらを見下ろしている。
庭の白い砂利の上には、先程まで確かに彼女の一部であった黒髪の束が力無く横たわり…着ていた羽織の薄浅葱色が霞む程に、赤黒い染みがじわじわと広がっていた。
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