▼ 08
あれは、もう二年前の事。
年の瀬も迫り、冷え込みの厳しかった、ある冬の日。
炭治郎は家族を失い、その中で唯一生き残った妹は、鬼になってしまっていた。
その日は、あまりに色々な事が起こりすぎていたけれど、炭治郎は全ての事柄を克明に覚えている。
貧しくはあったけれど、小さな幸せが沢山詰まっていた家に充満した血の匂い。
絶望的な表情のまま事切れている弟や妹。
青ざめた顔で絶命した母の姿。
鬼殺の隊士との遭遇。
鬼になってしまった禰豆子の、ぼんやりとした表情。
───これらは、忘れようとしても到底忘れられない出来事であるし、当然ながら忘れる気もない。
今でも時偶。
夢に見る程に悲しく、あまりに残酷な出来事であったが、今日も明日も。
きっと自分が生きている限りは、どれだけ辛い事も、どれだけ嬉しい事も…皆等しく背中へ背負って歩いていくしかないのだろう。
けれど、いつか。
自身の抱える心配事が皆消えて、やるべき事をやり遂げたその後は、背負い込んだ荷物を下ろして少し休憩をしたいな、とぼんやり思う事もある。
…例え、それがずっとずっと後の事になろうとも。
歩いてきた道を眺めながら、穏やかな気持ちで『あんな事があった、』『こんな事もあった。』と振り返る日が来る事を、少なからず望んでいた。
***
ふわり、と。
何の前触れもなく良い香りがした。
その香りにつられるようにしてゆっくりと目蓋を上げ、炭治郎はまだ微睡みながら考える。
…これは、何の匂いだろう?
桜か梅にしては少々甘すぎる感じがするし、藤や山梔子の香りともまた違う。
けれど、決して不快ではなく。
むしろ心地が良いとすら感ぜられる香り。
あれは違う、これも違う…と次々植物の名前を挙げ続け、やっとこさ答えに辿り着いたので、彼は再度ゆっくりと目を開いた。
「(───桃、)」
これは桃。
そう、間違いなく桃の花の香りだ。
どこか心が擽ったくなるような甘く瑞々しい香りを胸一杯に吸い込み。
「(…東さんの匂いだ、)」
そう思った途端。
咄嗟だったとはいえ、幾分か無遠慮に彼女を抱き寄せてしまった時の事が脳裏を過る。
会ったその時から『小さいな』と思っていた彼女の背中は、いざ触れてみるとびっくりする程暖かく。
襟元から僅かに覗いていた白い項からは、白粉や藤の匂いに混じってほんのりと桃の香りがした。
とん、と。
抱き寄せられた勢いのまま、彼女が自身の胸元へ面の額の辺りをぶつけた時『こんなに近くに東さんが居る、』という事を意識してしまい…動揺の余り、少々体をびくつかせてしまったのだったか。
そこから先は何だか緊張してしまって、彼女に触れた方の手が上手く動かせなかったように思う。
とにもかくにも、身内の女性。
それも、自分の母親や妹達以外に、あんなに近くへ女性が居るというのは、あれが初めてで───今思い出すだけでも、何だか心臓がいつもより早く動くような。
そんな事を悶々と考えているうち、完全に意識が覚醒し。
頬が火照っているような感じがするのを無視して体を僅かに動かすと、肩にかけられていたらしい羽織がするりと畳へ落ちる。
炭治郎は、今現在世話になっている藤の家紋の家の一室に置かれた卓の上へ突っ伏していた。
辺りはまだ明るく、小鳥が庭先へ来て遊んでいるのが見える。
…どうやら、うたた寝をしていたらしい。
今日も普通に起きて、体を鈍らせない為に長めの散歩をし。
昼餉を食べた後に善逸と双六をして───と。
こんな具合に一日の流れをなぞっていくと、双六の辺りから記憶が曖昧な事に気が付き、愕然とする。
我ながら子どもみたいだな、と思いはしたが。
要は、昼餉の後に来る眠気に勝てず、双六の最中に寝入ってしまったという事か。
最早起こってしまった事であるから、無かった事には出来ないが…折角相手をしてくれていたのに、途中で眠り込んでしまうなんて。
善逸には本当に悪い事をした───とにかく、この事については後でちゃんと謝ろう。
酷く緩慢に体を起こし、辺りを見回すせば、善逸と猪之助の姿が無いかわりに。
いつも通りに部屋の隅へ置かれたまま、かたん、かたん…と微かに音を立てる箱と、いつの間に飾られたものか。
一輪挿し用と思しき大きさの青磁の壺が床の間へ据えられ、そこへ『これでもか、』という程沢山の花を付けた桃の枝が差してあった。
「(こんな物、朝はなかったのに…。)」
とりあえず床の間の方へ寄っていき、間近で鮮やかな桃色の花弁に見入る。
…同時に、自分を起こした香りの源はこれだったのか、と少しばかりがっかりしたが、そこは致し方ない。
『東さんは、今どこでどうしているんだろう…?』と。
桃の香りに当てられてか、以前の任務で出会い、自らを『東』とだけ名乗った謎の多い女性隊士の事が、再度頭の中に浮かんでくる。
───彼女は、先の任務にて、鼓の鬼の討伐に多大なる貢献をしてくれた、彼等より階級が上の先輩隊士である。
しかし、どれくらい階級が上なのかはおろか、年齢も顔も…声すらも全く分からず。
もっと言うなら、彼女が教えてくれた『東』という一文字の漢字が、姓であるのか、名であるのか…はたまた、偽名なのかすら、全く分からない。
それも何だか奇妙な話であるけれど。
その辺りの事を詳しく聞く前…というか。
任務終了と同時に、彼女が有益な手掛かりとなり得る物を何も残さず、手負いでありながら忽然と姿を消してしまったため。
───彼女について調べたくとも手の打ちようのないもどかしさを抱えたまま、近場の藤の家紋の家へ厄介になり。
同期の仲間と共に傷を癒やしつつ、今日に至るまで『東』という女性隊士の怪我を案じながら日々を過ごしているという訳だ。
一時期は『東』という名だけを頼りにして、姓名問わず、同じ漢字の女性隊士へ向けて手紙を出してみようか…なぞと考えた事もあったが、やめた。
それというのも、彼女が徹底して顔を隠し、声を発さず。
任務後は、まるで最初からそこに居なかったかのように姿を消した、という事から察するに、何か人に知られてはならないような特殊な事情を抱えて任務に当たっているのではないか、と思い至ったからである。
それに、彼女との縁が切れていなければ、今後また何処かで彼女に会えるかもしれないし、また一緒に任務をする事だってあるかもしれない。
もし、彼女に会えたその時は、以前助けて貰ったお礼を言って、怪我をさせてしまった事も謝って。
『あなたのように、躊躇なく仲間を守れるような隊士になりたい、』と伝えられたなら。
───そんな事を考えつつ、今を盛りと咲き誇る桃の花に彼女の姿を重ね合わせ。
いつ来るやも知れぬ再会の時に思いを馳せながら、彼は静かに微笑した。
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