桃と鬼 | ナノ
 09

抜けるような空の下。

きっと何処までも続いているのであろう青を、つけたままの厄除の面越しにぼんやりと眺め上げ、百瀬は松の木の木陰へ座り、その幹に背を預けて暫しの休憩を取っていた。


時折ふいてくる初夏の風が頬に心地良く、それに乗ってどこからか藤の花の香りも漂ってくる。


…ただこうして。

刀を握らずに過ごしていると、昨日の那多蜘蛛山での過酷な出来事は、全て悪い夢であったのではないかとも思えてくるが、僅かに目を瞑ると鮮やかに思い起こされる昨夜の記憶が『決して夢等ではない、』と。

語気も荒く必死に訴えかけてくるような感じがして、彼女はたまらず目蓋を上げる。


『流石に、現実逃避のしすぎか。』

そんな風に思いながら徐に目を伏せると、こちらへ来る折に、背中へおぶった炭治郎と同様に大事に抱えて。

…そのままの流れで、隣に置いて監視するよう言い付かった箱。
もとい、禰豆子が入れられたままの箱が視界に映ったので、何とはなしに箱の側面をそっと撫ぜる。


すると、中からは彼女の行動に応えるかのように、コンコン…と。

爪の先で箱を僅かに叩くような音が微かに聞こえてきたので、少しだけほっとした。


「…さて。」


柱合裁判が始まるまで、時間がある。

お呼びがかかるまで、昨日の夜半から今までに起こった出来事を整理して一通り頭に入れ直しておこうと、百瀬は自身の記憶を辿る作業を始めた。


────冨岡と別れた後。
彼に言われた通り、炭治郎と禰豆子を連れて山を降りようとしたが、どこから情報が回っていたのか。

生き残った隊士や、胡蝶が率いていたのであろう隠部隊からの追撃に合い、下山は困難を極めた。


次々沸いてくる追っ手をどうにかいなし、やや強引に山を下る最中。

ある隊士からの一撃を直に食らった炭治郎が顎を強打して気絶してしまい、そこからは炭治郎を背中へ。
禰豆子の入った箱を前へ背負って山を降りた。


空も白み始め、もう少しで麓へ辿り着こうか、という頃。

百瀬の鎹鴉が慌てた様子で飛んできて『炭治郎・禰豆子両名を拘束し、本部へ連れ帰るように。』『尚、万が一の場合を考慮し、必ず隊士が本部まで両名を運ぶ事。』という伝令を大声で叫んだため…そのままの流れで、彼女が二人を本部まで連れ帰る事となった。


その後、本部…もとい、お館様の屋敷まで辿り着くと、待機していた他の隠によって炭治郎を毟り取られるように連れて行かれてしまい。

彼女自身は禰豆子を連れて、裏庭の松の木の下で待機兼見張りをするよう言い付かり、今に至るわけなのだが。


それにしたって、思い起こせば思い起こす程『普通に隊士をやっていたのでは遭遇しえない出来事の目白押しだったな、』という考えが頭をもたげてきて、溜息が出る。

…隣の箱からは、禰豆子が身動ぎをする度に生じる微かな衣擦れが聞こえ。
ぼんやりとその音に耳を傾けているうち、不意に炭治郎と共同任務をした際の出来事が頭を過った。


確か、あの時は。

万が一の場合に備えて…という事で、この箱と共に正一とてる子を屋外に残し、屋敷の内部へ踏み入ったのだが。


『───あの箱の中から変な音がして怖い、』と。

結果的に、禰豆子が箱の中で立てる小さな音に驚き、正一もてる子も屋敷の中へ来てしまったのだった。


まあ、今になって考えてみれば、中に何が入っているのか知らせず、ただ待っているようにと言い聞かせたこちらに落ち度がある。

そこを否定するつもりは無いが、詰まるところ。

普通の生活を送っている彼等からしてみると、薬か小間物が入っているような見た目の箱の中から一定の間隔で音が聞こえてくるともなれば、当然中に何が入っているのか気になるだろうし『怖い』と思うのは、ある意味当たり前の事なのだろう。


当然ながら、百瀬自身は箱の中身を知っているわけだし、中に入っている禰豆子は生きているのだから、音がするのは当然だとも思っている。

けれど、もし仮にこの事実を知り得ていなかったとして。中身の知れぬ箱の中から、奇妙な音がしてきたなら…果たして自分は、それを怖ろしい物として捉えたり、驚いたりする事が出来るのだろうか?


鬼殺の仕事に就いてからというもの、どんどん『一般的な感覚』という物から外れていっている感じが否めないのは、きっと気のせいではない。


「(もしかしなくとも、このまま行けば、いつか怖い物等何もなくなってしまうのでは………。)」


───そんな事を思い始めた所で、前方から誰かの足音が聞こえ、深みに嵌まってしまいそうだった彼女を現実へと引き戻す。

伏せていた顔を上げ、足音のする方向を見ると。

ここからそう遠くない所から、見覚えのある隊士がこちらへ近付いてくるのが見える。


「…あれは、」


あれは、風柱の不死川殿だ。

彼の姿を認識して早々、失礼にも『何か妙だな、』という思いが頭をもたげ、百瀬は厄除の面の下へ隠れた顔を顰めた。


不死川と言えば、いかなる理由があろうとも、柱合会議には一度も遅れて来た試しが無く。
それ以外の集まりでも、一番乗りが基本の彼が、よりにもよって何故こんな所へ足を運んだのか…。

不穏な予感に胸がざわつくのを押さえながら立ち上がり、失礼にならないようにと急いで取り払った厄除の面をそそくさと羽織の袖へ入れ、不死川がこちらへ来るのを待った。


***


「…よォ、百瀬。一月前に長期任務へ出てた割には元気そうじゃねぇか、」


「ええ、御陰様でどうにか…風柱殿も、益々戦功を上げていらっしゃるそうで───。」


程良い距離を保ったまま、こんな具合で互いに当たり障りのない会話を交わし。

その最中、百瀬はぱっと彼の全身を眺め…すぐに不死川の顔を見上げる。


以前会った時よりも体の傷が増えたような感じがするのは、きっと気のせいではない。

それも、特に腕の傷が多くなって…なぞと頭の隅の方で考えているうちにも不死川との世間話は続いていて、彼女は幾度も相槌を打つ。


肝心の話の内容は然程重い物でもなく。

『この前の合同討伐の折に新米の隊士が鬼を目前にして逃げようとしたので、捕まえて一喝したところ、大声で泣かれた挙げ句漏らされた。』

『先日の任務先に見慣れない茶屋があったので入ってはみたが、判で押したように月並みな味の物ばかりで、また行こうとは到底思えなかった。』


…このように、久々に会った知り合い同士で暇つぶしがてらする雑談という点で見れば、過不足なく。

肩の力を抜いて聞いていられるような話題にほっとしたのも事実であるが、先程感じた胸のざわめきは収まるどころか、より強まっていくばかりだ。


そうは思ったものの、彼の表情に何処かおかしい所がある訳でも無ければ、言動の中に妙な物を見取ったわけでもない。

未だ雑談を続ける声音も、揺らいだり震えたりはしておらず、別段何か変わった所があるわけでもなかったが。

…今、彼女自身が不死川から僅かに滲み出ている妙な違和感を言葉に表すとするなら。


「(───殺気、)」


そう。『殺気』という言い方が一番しっくり来る。

この、至極健全で平穏なように思える彼との会話で、何故『殺気』なぞという物騒な言葉を引っ張り出してきて当て嵌めるに至ったのか。


それ論理的に説明するとなると、大分難しい。

しかし、他でもない自分自身が『これだ!』と確信してしまっている以上、理由はどうあれ、彼と会った時から何とはなしに感じていた違和感の正体はこれで間違いないのだろう。


相変わらず続いている不死川との会話を途切れさせないように気を遣いつつ、その声音にじっと耳を傾け、再度言動を確認してみても、やはりぱっと見はどこもおかしな所はない───けれど、やはり薄らと感じ取れる殺気は、已然として彼と共にある。

『…ああ。不死川殿は、自分が殺気立っている事を理解した上で、それを上手く誤魔化しているのか。』と思い至ってしまったところで、百瀬の背中には、ひたひたと冷たい汗が伝い出す。


ここで唯一幸いと言えそうなのは、不死川の殺気が彼女自身へ向けられている物ではないというところか。


「(…だとすれば、やはり。)」


この場で他に彼の殺気が向く所といえば、一つしかない。

不死川の殺気の矛先となっているのは、百瀬の背後で僅かに音を立てている箱───もとい、中の禰豆子だろう。


不死川は柱なのだから、冨岡と百瀬、炭治郎達の犯した重篤な隊律違反についての詳細は、既に伝令で知り得ているはずである。

本来ならば、彼女自身も拘束や謹慎を言いつけられてもおかしくない程の罪状なのだが。


今回は、数年前より秘匿されてきた異例中の異例───鬼でありながら、鬼殺隊士の兄と行動を共にする禰豆子の存在が明るみに出た事により、単にそちらを優先して物事を考える必要があるとの判断が下されたためか。

彼女も冨岡も拘束は一切かけられず、別段お咎めを受けるわけでもなしに、こうして柱合会議の開かれる場所で待機している次第なのだ。


『最近、やたらしつこく見合いを勧められているが、その気もないので全て断っている。』という話を聞き終わり。

百瀬が『それは大変ですね、』と共感の言葉を発するより前に、不死川はまた口を開く。


「…ところで。一応確認なんだがなぁ、」


「はい…?」


「───お前の後ろに置いてある、その箱ん中。そん中に…なんつったか…馬鹿隊員が連れ歩いてたっていう鬼が居る、なんて事を隠の連中やら鴉から聞いたんだが………間違いねぇか?」


静かな声音で、淡々と。

急にそんな事を問われ、一気に周囲の温度がぐっと下がったような感覚に陥る。


同時に、突如色濃く漂い始めた彼の殺気を全身に浴びながら一歩後ろに下がり、箱を背に守るような姿勢を取ると、彼はすぅと目を細めてこちらを眺め下ろし。

かと思えば、箱の方へ向かって容赦のない一瞥を送る。


「…どうやら、間違いねぇみたいだなァ。さしずめ、お前がここに置かれてんのは、昼とは言え、万が一の事がありゃあ隠の連中じゃ太刀打ちできねぇから、ってとこか。」


先程と同様に、いっそ恐ろしい程静かな声音でそう言い切り、彼は不敵に笑った。


『───これは少し、まずいことになるかも知れない。』

降って沸いた嫌な予感に従い、彼女は利き手を箱へ伸ばし、側面へ取り付けられた紐をするりと掴む。

…そうしているうち、不死川は恐ろしい笑みを崩さぬまま、不穏な事を言い出した。


「ここまでご苦労だったなァ、百瀬。こっから先は俺がその箱を中の鬼共々引き受ける…そいつをこっちに寄越せ。」


催促するように差し出された、傷だらけの分厚い手。

先程まで雑談をしていたとは微塵も感じさせぬような圧と殺気を滲ませて、彼は『早く、』とでも言いたげにこちらへ一歩踏み出してくる。

…だが、ここで『はいそうですか。』と彼に箱を渡してしまえば、中の禰豆子はまず無事では済まないだろう。


当然と言えば当然なのだが、他の鬼殺隊士同様、不死川も鬼に対して恨みや怒りを持ち、夜毎任務をこなしている部類の一人である。

そんな彼が、今回の一件を知り、何を思ったのか定かでは無いし、例え話して貰えたとて完全に理解する事は出来ないだろう。


───だからこそ、箱を渡した後。
鬼の禰豆子をどのように扱うのかが何とはなしに分かるような感じがして。

尚の事、彼へ禰豆子を預けるわけにはいかない、という意識が強くなる。


後ろ手に持ったままの紐をぎゅっと握ると、何かを察してか、箱の中の音が俄に大きくなった。

物言わずすっと体をずらし、完全に箱が背後に隠れるようにしてしまえば、彼は『何のつもりだ、』とでも言いたげに顔を顰めた。


その凄むような視線を受けながらも、百瀬は彼の三白眼と確り見返し、気丈に言葉を発する。


「一つお聞きしたいのですが……それはお館様からの御指示の元、仰っているでしょうか?」


いつも通りの声音で問えば、僅かに彼の顔が強張った。


「───私は、お館様より『柱合会議の場まで、禰豆子の護衛と見張りを勤めるように。』と鎹鴉伝に言い付かっております。その間、お館様からのご指示が無くては、私はこの箱の傍を離れる事は勿論、箱を他の方へお渡しする事も絶対に出来ません…。」


そう言葉を重ね『大変申し訳ないのですが、』と前置きをして。

彼女は不死川へ向かって深々と頭を下げる。


「例え風柱殿のご指示であっても、今はお応えできかねます…どうかご勘弁下さいまし、」


…その直後から重苦しい沈黙が降り。
長らく、辺りには鳥の鳴く声と、風の音だけが響いていた。


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