▼ 02:雪路を往く
あれからしばし。
竹で口枷を作ったり、鴉に口止めしたり。
お次は、熱が出るのではないかと思うくらいに頭を使い、今回の一件をしたためた書状と、昔世話になった師範へ宛てた手紙を書き…と、本当に色々な事をこなし。
それが終われば、冨岡と顔を付き合わせ。
今後の話や、この一件について誰から何を問われても、必ず口裏を合わせる事を約束して別れたのだ。
彼はこれから別件の任務があるようで、もう少ししたら発つつもりらしい。
それに対して、百瀬は元居た山小屋へと戻るために、再び山道を引き返していた───もちろん、ご遺体の埋葬と弔い。
それから、荒れた家の中の片付けをするためだ。
一歩。
また一歩。
道を行く度に、寒さが身にしみる。
白い息を吐きながら、彼女は一人、考えを巡らせた。
先程冨岡と共に、様々な策を講じはしたが───自分達の処遇を決めるのは、鬼殺隊の長たる『お館様』なのだ。
今回は状況が状況だけに、何がどう転がるのかは未知数で予想がつかない分、若干危ないような気もするが、なるようにしかならない。
結局のところ、お館様から御声が掛かるまでは、今後も普段通りに割り当てられた仕事をこなすしかないのだろう。
ただ一つ言えるのは、この事実が全ての鬼殺隊士に知れ渡る時、冨岡と百瀬の隊士生命が終わるのは間違いが無い。
実質、それが遅いか早いか、というだけの話だ。
少し前までは、あんなに食い下がって反対してみせたくせ、一度腹を括ってしまえば、不思議と落ち着いていられるもので。
これを、ただ自棄になっているだけと称するのが正しいのか、肝が据わったと称した方が良いのか…。
まあ、その辺りの認識は曖昧でも、特に支障は無い。
急な斜面をどうにか登り切り、ようやっと山小屋が見えてきた所で、百瀬は一度足を止め、懐から狐の面を取り出す。
それは、彼女の師範が、最終選別の前に作って持たせてくれた『厄除の面』であった。
もう何年も使い続けて、傷も、欠けも、色の剥げも目立つ───けれど、大事な大事な御守り。
他の誰とも違う、自分だけのために作られた面。
今やすっかり見慣れたその面と顔を付き合わせて、ふ、と笑みがこぼれた。
『きっと自分は、今も昔も。他者からしてみれば、こう見えるに違いない。』
そんな風に思って、彼女は面を顔に括りつける。
目はあらん限り吊り上がり、がばりと開いたその口からは、鋭い牙も長い舌も剥き出しになった───怒りの形相を模した狐の面。
誰が見ても驚くであろう狐面を着けたまま、彼女は静かに山小屋へ向かった。
***
ご遺体は相変わらずそのままにされており、何者かが弄ったり、野生動物が入ってきて家を荒らしたような形跡もなかったため、ひとまず安心した。
…しかし、遺体はどれも血塗れであり、このまま埋葬するのが忍びなかったので、台所と手拭い、盥を拝借し、一人一人の汚れをお湯で拭き清めていく。
それが済んだら、箪笥の中にあった汚れていない着物を着せて。
仕上げに、と。
彼女は自らの懐から小さな貝殻を取り出した。
厳重に巻かれた紐を解き、ぱかりと貝殻を開けると、中には見るも鮮やかな紅が入れられている。
紅を筆に取り、ご遺体の唇に差したり、頬に少しだけ乗せてぼかしたりすれば、ごく簡素な処置ながらも、顔色が良く見えた。
齢によって、少し紅を拭き取ったり、多めにつけたりを繰り返し、上手い具合に調節しながら、ふと考える。
『この人達は、生前どんな暮らしをしていて、何を食べて、何を考えて生活していたのだろうか。』
『家族仲は、良かったのだろうか。』
『生前、幸せな事は沢山あったのだろうか。』
その時、家の出入り口から、かたん、と音がした。
あの兄妹が戻ってきた事が容易に予想できたので、別段驚きもしなかったが。
ここまでは、冨岡と打ち合わせした通りだ。
しかし、この二人が、冨岡に何と言われて戻ってきたのかは分からない。
そして、今後の事をどこまで聞かされてきたのかも未知だ。
───そして、ここから百瀬の任務は困難を極める。
…というのも、冨岡からは『あの兄妹の手助けをしてやれ、』と言われたと同時に『お前は、兄妹のどちらにも顔を見られてはいけないし、声を聞かれてもいけない。』とも言われたからだ。
そのため、この家に立ち入る前に、持ち合わせていた厄除の面を着け、とりあえず顔が分からないようにしておいたのだ。
恐らく、彼は彼なりに今後を考えた末『自分はともかく、お前は声も顔も知られない方が後々楽だろう。』という結論に至り、百瀬にこんな指示を出したのだろう。
何分、彼は言葉数が少ないもので、これは百瀬の予想であるが、大まかな所は合っているだろう、多分。
戸口の方を振り返り、面に空いた両目の穴からそちらを見やると。
思った通り、あの雪の上に倒れていた兄妹が、しっかり手を繋いだ状態で戸口に立っていた。
妹の方は大人しく竹の口枷を咥え、どこかぼんやりした表情のまま兄に手を控えられている。
端から見れば、ただ口枷を咥えている少女のように見えるが、ぼんやりとどこかを見つめる瞳は、正しく鬼のそれだった。
対して、兄の方は、妹の手をしっかりと握ったまま、驚いたような表情でこちらを見ている。
「(あ、やっぱり………。)」
彼が驚くのは、無理もない事だろう。
第一、冨岡から何か説明は受けているだろうが…狐面を着けた正体不明の赤の他人が、自身の家を勝手に綺麗に片付け。
家族の亡骸を勝手に綺麗にし、勝手に死に化粧を施しているのだから。
…下手をしたら、殴りかかられるかも知れない。
だが、彼の気がそれくらいの事で気が済むのなら、理不尽な暴力も甘んじて受け止めよう。
一応、いつでも受け身が取れるように身構えてはみたが、いつまでたっても彼が殴りかかって来る事はなかった。
「………あの。あなたも、鬼殺隊の方、なんですよね?」
まだ、低くなりきっていない。
あどけなさの残る少年の声。
寄越された問いかけに、百瀬はただ、こくんと頷く。
「…そっちに行っても構いませんか?」
再度問うてきたので、彼女はまた頷き。
座敷に座ったまま、おいでおいで、と手招きをする。
すると、兄妹はゆっくりとこちらへやって来て、畳の上で静かに横たわった家族を悲痛な面持ちで眺める。
「…ほら、禰豆子。見てご覧。」
『禰豆子』というのが、彼の妹の名前なのだろう。
勿論、彼女からの応答はない。
彼女は言われたとおりに家族を眺め下ろし、ただただぼんやりと佇むばかりだ。
「皆、こんなに綺麗にしてもらって───まるで、ただ寝てるみたいだ。」
本当に、寝てるだけなら良かったのにな…。
消え入るようにそう言った途端、彼の大きな赤い瞳の片方から、ほろりと涙が零れた。
たった一粒の涙が、雪焼けて少々赤くなった彼の頬に伝い、音もなく土間に落ちて染みこんでいく。
「……………。」
しばらく物も言わず。
彼は歯を食いしばり、顔を歪めて必死に涙を堪えていた。
震える肩。
溜まりはするが、瞳から流れ落ちる事のない涙。
爪が食い込み、血が出始めた彼の拳。
何の前触れもなく。
日々の幸せが理不尽に壊され、踏みにじられたこの場で。
憤怒、悲壮、憎悪、哀悼…彼は、複雑に絡み合い、形を成さずにただ流れていくだけのそれを押し止め、ただただ、爪先から頭まで深い悲しみに浸かって。
鬼になってしまった妹を横に置き、一人切なげに家族の亡骸を眺めているのだった。
───この少年の年齢は定かではない。
住んでいる場所から察するに、普段から野良仕事もこなしていたためか、町に住む少年達より体格も良いし、大分大人びて見える。
しかし、彼女からしてみれば、彼は『子ども』と言って差し支えのない年の頃のように思えた。
加えて、この家に父親らしき者の姿は無い代わりに、形見の品と思われる男物の着物やら、生活用品やらが奥の間にしまってあったのを見つけたので、彼の父は既に亡くなっていたのだろう。
これはあくまで百瀬の推測の域を出ないが。
恐らく、この少年は父親が亡くなった後、兄弟の中で一番の年長者として、父親の代わりに家族を支え、家計を支え。
また、沢山の兄弟の父親代わりとして振る舞っていたのではないだろうか。
それが、今はどうだ。
彼が必死に守ってきた家族は冷たくなって眼前に横たわり、ただ一人生き残った妹は鬼となり───こんなの、あんまりだ。
未だ涙を堪えて震える少年に手を伸ばしかけ。
彼女は、面に覆い隠されたその顔を歪ませる。
『この兄妹とは、あまり深く関わってくれるなよ。』
咄嗟に冨岡から釘を刺されたのを思い出し、手を止めたが、この状態の他者を放っておける程非情にはなれない。
そのため『ほんの少しだけ。』『本当に、少しだけ。』と。
自分に幾度も言い聞かせ、彼女は意を決して土間に降り、少年の目の前へ立った。
───さて。
こういう時は、どうしてやれば良いものか。
自分と大体同じ程の背丈の少年を真正面から眺め、しばし考える。
言葉が使えない以上、やはり行動で示すしかないのだが。
少しだけ関わる、と決意したのに、どうすればよいか考えあぐね、焦ってしまう。
『肩を叩く』にしても、いきなりは驚かせてしまうかも。
なら『頭を撫でる』というのは…いや、幼子ではあるまいし。
それなら『手を握る』のが好ましいのか………?
そうして、焦り、困った末。
百瀬は、赤みを帯びた少年の髪にそっと触れ。
そのまま手を動かし、ぎごちなく耳と顔、肩、と輪郭をなぞった後に辿り着いた彼の手を取り、ぎゅっと握る。
もしかしたら拒否されるかもしれない…と思ったが、彼は、百瀬が施したぎこちない励ましを嫌がるような素振りは見せなかった。
酷く驚いた表情はしたものの、少年は彼女の掌を痛い程力強く握り返し、赤い瞳を揺らして。
「─────ありがとう、ございます。」
消え入りそうな声で礼を述べたかと思うと、今にも泣きそうな顔で笑ってみせる。
ぐず、と。
時々鼻を啜りはするけれど、涙は流さず。
やっぱり、少年は百瀬の目の前で健気に笑っていた。
***
遺体の埋葬が終わり、そこへ手を合わせ。
さて、これから山を下りようかと考えていた時、少年は妹としっかり手を繋いだまま、唐突に口を開いた。
「あの───本当に、ありがとうございました。出来ればお礼をしたいんですが、今は何もないし、すぐに用意できそうな物もありません…。」
申し訳なさそうな顔をして、こちらへ深々と頭を下げた彼の肩を軽く叩き、百瀬は緩く首を横に振る。
『礼なぞ、気にしなくとも良いし、無くて構わない。』
…口でそう言えれば、どんなに楽だったろう。
言葉を使わずに表現するというのは、どうも難しい。
それが伝わったのか、そうでないのか。
少年は『すみません、』と言ったきり、目線を下げてしまった。
正直な話、鬼殺の仕事をしていると、助けた相手から『ぜひ礼をさせてくれ、』と言われる事はままあるし、場合によっては礼を受け取る事もある。
ただし、彼女が礼を受け取る時は、決まって鬼から人を守り切れた時に限っている。
しかし、この度は、冨岡も百瀬も───この家族全員を救う事は出来なかった。
それを申し訳なく思い、せめて出来る限り手厚く葬ろうと『ほんの気持』で手を尽くし、今に至るのだ。
だから、謝礼は貰わないし、どんなに懇願されても貰えない。
仮面の下から少年とその妹を静かに見据える。
雪は相変わらず降り続き、出来たばかりの墓へ、音もなく降りつもっていく。
すると、彼は思いついたようにまた話を始めた。
「そうだ…!今すぐ御礼は出来なくても、後で。俺、後で必ずあなたにお礼をします。どうか、あなたの名前を教えて貰えませんか?」
赤い瞳が、こちらを真っ直ぐに見つめ。
かつて無いほど勢い良く放られた言葉に気圧されながらも、彼女はしっかりと首を横に振る。
すると、少年は一瞬また困ったような表情をしたが。
再び持ち直し、今度は、ぎゅっと百瀬の手を握り、言葉を発した。
「───じゃあ、俺の名前を覚えていて下さい。俺、『竃門炭治郎』といいます。いつかきっと、禰豆子と一緒に、あなたともう一人の隊士の人を探して、お礼をしに行きます。」
…勢い良く。
それはもう、さっきよりも、もっと勢い良く来られ。
『その、いつかが来る確証はないのに。』
『大体、探してお礼をしに行く…って、どうするつもりなのだろう。』
思うところも色々あったが、今し方『竃門炭治郎』と名乗ったこの少年は、本気でこれを実現しようとしているのだな、というのを感じ取り。
それに流され、押し負けるようにして、彼女は遂に首を縦に振ってしまう。
ほんの僅かな動きではあったが、首の動きを確かに見届け。
竃門少年は、ひとまず安心したような表情を浮かべて、するりと彼女の手を離す。
「いきなり、すみませんでした…それから、本当にありがとうございました。」
これで、失礼します。
そう述べるが早いか、彼は妹の手を引いてこちらに背を向け、歩き出した。
雪に隠されるようにして、あっという間に遠ざかっていく二つの背中を見送りながら、百瀬は一人、その場に立ち尽くす。
一度だけ。
彼等がこちらを振り向いたので、ぎこちなく手を振ると、ぺこりと頭を下げられた。
しかし、それきり彼等がこちらを振り返る事は無く、そのうち、完全に姿が見えなくなる。
やはり雪は降ったまま。
けれど、彼女はそこに立って、過酷な道を往かんとする兄妹を、ただただ見送っていた。
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