桃と鬼 | ナノ
 06

とりあえず、目についた左足の健を狙った一撃だったが───鬼の討伐とは、そう上手くはいかないのが常だ。

百瀬が投げた小柄は、思ったよりかやや上向きに逸れて飛んでいき、鬼の左腕の甲に突き刺さる。


小柄自体は真っ直ぐ飛ぶように作られていない代物であるし、そもそも用途が違うという事は百も承知だったから、然程期待していなかった。

…していなかったが、まさか命中するとも思っていなかったので。


「(何て珍しい…。)」


心の中で感嘆しつつ短刀を抜き、構えながら鬼の動向を見守る。


そのうち、じっとりと。
鬼灯のように赤い瞳が虚ろにこちらを眺め、自身の手の甲に刺さった小柄を抜き取ってすぐ、まだ血の滴るそれを乱雑に床へ放り投げた。

かと思えば、幾つも鼓の生えた奇妙な体躯を捩り、低く陰鬱な響きを伴う声に乗せて言葉を垂れ流し始める。


「…ああ、腹立たしい。何と腹立たしい……どいつもこいつも、土足で勝手に人様の家へ上がり込み…おまけに何だ、この匂いは………甘い、甘い甘い…あぁ、吐き気を催す程甘ったるいこの匂いは……そう…桃。桃だ…!」


口を噤んだ鬼が酷く緩慢に首を振り、右へ左へと不規則に瞳を動かす。

ややあって、赤い瞳が再びこちらを見据え、完璧に鬼と目が合ったのを体感した途端───全身の血が一息に温かみを増したのを感じ、彼女は自身を落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸をした。


鬼の討伐を行う際は、特別意識して呼吸を使っていなくとも、何故か否応なしに血の巡りが良くなり、鬼と対峙して暫くすると、ひとりでに体が熱くなる。

急激な体温の上昇が生じるのはいつもの事であり、それを今更気にする訳でもない。


…体感的に、この時の体温は正しく『高熱を出した時のそれ』と違わぬ程の値なのだが、苦しさや動きづらという物を感じた事はなく、故にこの事実を医師に打ち明け、詳しく調べてもらった、というような事も無い。

むしろ普通にしている時より何倍も体調が良くなる上、後々やたら体が怠くなるだとか、本当に熱が出るだとか…そういった不都合も生じていない為『呼吸を使っている者の体へ起こる反射のような物だろう。』くらいに思って、今回もこの現象を捨て置く事に決めた。


さて…鬼特有の、猫のように細い瞳孔を臆せず睨み返し続ける事暫し。


「お前、お前だな?この桃の匂いの元は。」


「…………………。」


「……お前…お前からだ。お前から、胸焼けがするような桃の花の匂いがする……ああ、不快だ。何と不快で忌々しい……むせ返る程甘い匂いの染みこんだお前の肉なぞ、一片たりとてまともに喰える鬼はいるまいよ…、」


「………………。」


なかなかに酷い言われようだが、挑発に乗る気も、答えを返してやる気もない。

ただ『いつでも応戦出来るように、』という事だけを考え、深く息を吸い込み。
今か今かと鬼が攻撃を仕掛けてくる瞬間を待っていると。


「───東さん!」


『助太刀します!!』と。

てる子と共に彼女の背後へ居たはずの炭治郎の声が左隣から聞こえてすぐ。


百瀬がそちらを見るより先に、刀を抜く音が耳に届き───こちらが固まっているうち、炭治郎は鬼に向かって刀の切っ先を向けながら声高らかに叫ぶ。


「おい、お前…!!俺は鬼殺隊、階級癸。竃門炭治郎だ…今からお前を斬る!!」


一瞬の沈黙が降り、鬼すら驚いたように炭治郎を凝視する中、彼女は未だ左隣を見る事すら出来ず、凄い速さで考え事を始めた。


「(えっ…待って…斬る?ちょっと待って、本当に待って…本当に斬るつもりなら、刀を向ける相手に予告なんかするものなの……!?)」


突然の事に動揺してしまい、ついつい余計な事まで考えてしまったが…恐々左を眺めると、炭治郎は予告通りに鬼の方へ斬り込まんとして飛び出そうとしているところで、彼女は思わず生唾を飲み込み。

咄嗟にその背へ手を伸ばして動きを止めようとするも、遅かった。


緑と黒の鮮やかな市松模様の羽織は、百瀬の指の間をするりと撫ぜるように抜けていき、畳を踏みしめながら風のように駆ける彼の背に乗って、瞬く間に鬼の元へと近付いていく。


「(あぁ…!)」


しまった。

そうは思っても、もう手の施しようが無い。

ここまで距離が開いてしまっては、無理に引き返させる方がかえって危ないから…彼女に出来るのは、遠くなっていく背中を見送る事くらいだった。


これまで彼の戦い方を見てきて、なかなか肝が据わっているとか、度胸があるとか…そういう印象は持っていたが。

まさか、鬼に『これから斬る、』と宣言するだけでなく、やむを得ないというような理由も無しに、真正面から掛かっていくとは。


鬼殺隊の中では古参と呼ばれる部類の彼女も、こちらに五分以上の勝率がある時にしか用いない…いわゆる滅多に取らない手段を躊躇なく取られ、肝が冷えるどころでは無かった。

…幸いな事に、先程炭治郎が上げた声や気迫に押され、鬼が呆気に取られているようなので、近くに寄っていっても大怪我をする事はなさそうだが。

正直、鬼の首を取れるかどうかという所は非常に怪しい。


「(…いつもより少し動きは鈍いけれど、勢いはなかなかのものだし、)」


運が良ければ、鬼の巨体を袈裟斬りにして足止めをする事は出来るかもしれない。

彼女が考えているうちにも、炭治郎は着々と相手との間合いを詰め、その首目がけて刀を振るおうと、畳を蹴り、弾みを付けて空中へ飛び上がる。


そうして、あと少しで彼の刃が鬼の喉笛へ届く、という所で。

今まで動きを止めていた鬼が、思い出したように自らの腕を動かしポン…と一つ、鼓を鳴らした。


音がした途端、また部屋の移動が起こるのではないかと身構えたが。

一瞬のうちに自身の体が空中に投げ出され、鬼の姿が先程よりずれた位置に見えた事によって『今度は部屋自体が回転したのだ、』と思い至る。


「(…そうとなれば、)」


心配なのはてる子だ。

彼女は難なく受け身を取り、元々壁であった部分に着地するが早いか、急いで部屋の奥へと駆ける。


走っている最中、急に部屋が回転したことにより、受け身も取れずにぶつけた箇所を痛がるてる子の姿が見え、苦い物が込み上げてくる。

遠目から見たところ、目立った傷はなく。
どこかから出血があるわけでもないという事実を確認してほっとするが、油断は禁物だ。


外傷はなくとも、頭をぶつけていないかは必ず確認しなくてはならない。

そんな事を考えながら『あと少しでてる子の元へ着く、』という時。


降って沸いたように生じた嫌な予感に従い、咄嗟に床へ這いつくばってすぐ。

バン…という派手な音と共に、彼女の真横に位置していた障子が木片と共に飛び散り。
隣の部屋から、猪の被り物を被った───上半身半裸の男性が、刀身の欠けた日輪刀を両手に持って飛び出してきた。


…今度は一体、何だというのか。

何とも珍妙な身なりの男性…というよりか、よく見れば少年のような体つきをしている猪頭の彼は、這いつくばった百瀬の体の上をすれすれで飛び越し。


勢いもそのままに部屋の中央へ着地するが早いか、突然の登場に固まっている炭治郎の方は見向きもせずに、鬼に向かって何事か叫んだかと思えば、凄まじい速度で斬りかかっていく。

件の彼の嵐のような行動を呆然と眺め、やや遅れて降ってきた障子の破片にまみれながら、彼女がどうにか体を起こしたその時。


「腹立たしい…、」


呟くような鬼の一言と共に、再度ポン…と鼓が鳴らされ、部屋が回転するのに合わせてまたもや体が空中へ投げ出される。


「………東さん!!てる子と一緒に、そこの家具へ捕まっていて下さい!」


早々に受け身を取って体勢を立て直した炭治郎から投げられた一言を拾ってすぐ、彼女は自身の近くを心許なく漂っていたてる子を抱き留めて着地し、一番近くにあった箪笥へと手を伸ばして捕まった。

…しかし、回転を凌いだのは彼女達だけではない。


猪頭の少年も、部屋が回ったのを読み取るが速いか、機敏に反応し、一旦引いて。

丁度背後に居た炭治郎の腕を踏み付けにし、弾みを付けて前に出る。


その太刀筋は無骨で荒々しいが、もし当たれば浅からぬ傷を与えるであろう一撃。

藍鼠色の日輪刀から繰り出され続ける苛烈な斬撃を眺めながら、炭治郎は声を張り上げる。


「……そいつは異能の鬼だ、無闇矢鱈に斬りかかるのは止せ!!」


かなり大きな声であったから、まさか聞こえないというはずはないだろうが。

何故か炭治郎が投げた言葉への反応はなく、鬼に対する苛烈な斬撃も止まない。


身に付けたズボンや日輪刀から、彼が鬼殺の隊士である事は容易に見当がついたのだが…先程から際立っている幾分か身勝手な振る舞いを見る限り、こちらと手を組んで鬼を討伐する気はないのかもしれないな、と思った。


───さながら、彼の振る舞いは野生動物のようで。

何とも失礼な表現が頭に浮かぶが、それ以外に適切な表現が思いつかない。


一方、鬼はというと。
ぶつぶつと独りごちたかと思えば、ポン…とまた一つ鼓を打ち。

気が付いた時には、また畳が下に来ていた。


…こうも上下が頻回に変わるのでは、一つの物に捕まっているのはかえって危ない。

そう判断し、彼女はてる子と共に畳へ着地する。


それと同時に、狭い視界の端で、猪頭の少年が再び体勢を変え、こちらへ向かって落ちてくるのが見えた。


…このまま少年の体を受けきるのは無理だろう。

何より『てる子にこれ以上怖い思いはさせられない、』という考えから、百瀬はそのまま、大股で左へ避ける。


すると、少年はそれに不快感を示したり、怒ったりするでも無く…先程彼女達が掴まっていた箪笥の側面を踏み台代わりとして蹴飛ばし、やはり鬼を真っ直ぐ見据えたまま、前へ前へと走り出ていった。

その勇ましい姿を見送って暫し。


不意に、何やら薄ら寒い物を感じて息を飲んだ───次の瞬間。

彼女はてる子をきつく抱いて畳の上を転がった。

突然の事に驚いたのか、腕の中で小さな体が身動ぎするが、細やかなその動きはすぐに止まる事となる。


間髪を入れず、百瀬とてる子の居た場所。
それも、先程まで丁度百瀬の首があった高さから、ビュン…と何かが空を切る音が響いて。

てる子を抱いたままそちらを睨むと、鬼へ向かっていったはずの少年がそこに居た。


これを無意識の内に感じ取っていた為に、妙な寒気がしたのだろう。

…どの道、あそこで畳の上に転がっていなければ、彼女の首は刎ね飛ばされていたに違いなかった。


互いに睨み合い、猪の被り物越しにではあったが『確かに目が合った、』と確信した瞬間。

彼は無言でこちらへ迫り、斬り掛かろうと刀を振り上げる。


けれど、こちらもやられる訳にはいかない。
てる子が悲鳴を押し殺すより先に、百瀬は畳から起き上がり、腰に差していた短刀を抜いて思い切り前へ突き出し。

再び姿を現した紺色の短刀が迫り来る藍鼠の刀を受け止めた時に生じた、ガン…という硬い音に続いて、薄暗い部屋の中へ火花が飛び散った。


触れ合った刃がギリギリと音を立てて震え、ほぼ互角の押し合いが続く中、彼女はありったけの力を込めて藍鼠色の刃を押し返す。

…たまらず後ろへ飛び退った少年をまた睨めば、彼はそこで初めて口を利いた。


「ハハハ………面白いぜ!!部屋は回るし、俺を力で押し返してくるような奴も居やがる……こんなのは初めてだ…!」


その声には剥き出しの敵意が乗っていて、全身がぞわりと粟立つような感覚に苛まれる。

勿論、被り物のせいで、少年がどんな表情をしてそう言っているのかは定かで無い。


申し訳程度の部屋の明かりに反射し。

頭だけになりながらも尚、煌々とした鋭い光を灯す猪の瞳は間違いなく彼女の姿を捉え───それがまた何とも不気味であった。


しかし、次の瞬間。
視線が合わなくなったのを皮切りに、またこちらへ飛びかかってきた少年をどうにか避けて、彼女はてる子を連れたまま再び走り出した。


***


右へ、左へ。
座敷の中を機敏に走りながら、百瀬は猪頭の少年の追撃を躱していた。


「オイ、逃げんな!!…ちっせえの抱えてる兎のお前だよ!お前ぇ!!」


そう怒鳴りながら豪快に刀を振り、前へ回り込もうとする動きを見せた少年から距離を取るために、彼女は突然方向を変えて走り出す。


「───くそ、だから逃げんじゃねぇ!!兎女ぁ!!」


今度はすかさず空中へ飛び、また前へ回り込んできた少年が振った刀を避けて。
彼女は腕の中で震えながら必死にしがみついてくるてる子をきつく抱き締める。

小さな体の暖かさと相まって、自身の心音が跳ねるのが分かり、シィ…と深く息を吐いた。


「女性と子どもに刀を向けるなんて、何てことするんだ……!今すぐやめろ!」


炭治郎が前方から叫んだが、少年は聞く耳を持たず、止まる事もない。

足止めをしようと、近くの箪笥を蹴り倒したが、少年は難なくそれを避けて刀を突き出してきたので、どうにかその切っ先から逃れる。


それにしたって、鬼の目の前で鬼殺の隊士と私闘紛いの事をする羽目になる日が来るなんて…人生何があるか分からないものだ。


「……オイ、兎女ァ!」


ぴたりと後ろに張り付き、いくつもの斬撃を繰り出してくる合間。

何か思うところがあるのか少年は幾度もこちらへ話しかけてくる。


「上手く隠してるつもりだろうがなぁ…俺様にゃ丸分かりだぜ…!お前は、得体の知れないモンを体にくっつけてやがる『混ぜ物』だってな!」


「……………っ!」


少年からの思いもよらぬ言葉に、彼女は眉をひそめた。

…今までの行動を振り返ってみても、自分の立ち居振る舞いに不備はなく。
誰の目から見ても『明らかに異常だ、』『お前は本当に人の子か。』なぞと誹られるような要素は微塵もなかったはずである。


───ましてや、今日出会ったばかりの少年に。

未だごく少数の者にしか伝えていない、彼女自身の重大な秘密の一端を掴まれただけでなく。
それを『混ぜ物』だのという不名誉極まりない呼び名で呼ばれた時の驚きといったら…とてもじゃないが、言葉で表し尽くせる物ではなかった。


「───ちっせえくせに、妙な力が出んのはそのせいなんだろ!?」


「…………。」


「黙ってねぇでいい加減何か言え!ついでにお前も、俺がより強くなるため…より高く行く為の踏み台になりやがれ…!!!!」


尚も話しかけられ。
…ぶれた気持ちのまま後ろを見やったのがいけなかった。

背中を狙って素早く振り降ろされた刀が見え、素早く前へ転がったが───僅かに遅く。


刀に触れた箇所…丁度肩の辺りが裂けたのを認め、慌てて体勢を立て直そうとするも、少年はそれすら見切っていたのか。

間近に迫った獲物を逃がすまいとするかのように、隊服の背中の辺りを掴まれて、後ろへぐいと引っ張られてしまう。


「……っ!」


さながら、鷹が野兎の背をがっしりと掴んで狩りを成功させるかのように。

抱えたてる子ごと後ろへ…少年の方に引き寄せられてしまうかと思われたその時。


「いい加減、止めるんだ…そこに鬼が居るんだぞ!!」


炭治郎の怒気を孕んだ声と共に、目の前へ市松模様の羽織が踊ったかと思えば、隊服の後ろを掴んでいた少年の手が唐突に離れる。

そこに生じた僅かな隙を縫うようにし、彼の固い皮の張った手が背を支えてそのままぐいと引き寄せられたもので。
彼女は、間近に迫った炭治郎の胸板へ自身の額を思い切りぶつけてしまった。

直後、炭治郎の体がびくりと跳ねたので『痛かっただろうか、』と少々申し訳なく思ったが。
腕に抱えていたてる子が彼女と炭治郎との間で苦しそうに藻掻いている事に気が付き、慌てて隙間を作ってやる。


そうして、徐に視線を上にやると。

普段は丸く人懐こそうな印象を受ける赤い瞳をあらん限り細め、じっとりと猪頭の少年を見据える炭治郎の表情が見えて多少なりと驚いた。


「(任務前には、あんなに朗らかで年相応な表情を浮かべていたのに…。)」


こんな顔をする事もあるのだな。

彼の腕の中でそんな事を考えていると、今まで黙っていた猪頭の少年が苛立ちを隠そうともせぬまま口を開く。


「…俺は兎女に用があんだ、そいつを離せ!!」


「それは出来ない。」


「あぁ!?何でだよ!?そんなら、お前も一緒にたたっ斬………、」


少年が皆まで言わぬうち。


「虫め…消えろ、死ね……!!!」


細く、弱々しい声音。
けれど、明らかな敵意が感ぜられる言葉にはっとしてそちらを眺めると。

部屋に踏み入ってくるでも無く。
長らく廊下で放置…というような状態だった鬼が、苛立ったような表情のまま鼓を打つ。


その音を感じるよりも早く、彼女の体は不吉な予感に震え、面の下の顔を青くする。

『このままここに居るべきではない。』と直感してすぐ、百瀬は炭治郎の腕からするりと抜け出て。
どうしたのかと言いたげな顔をした彼の手をしっかり掴み、強引に引いて数畳先へと走った。


猪頭の少年も何かを察したのか、畳の上から飛び上がり───間髪を入れず、今まで彼女達の立っていた位置に敷かれていた三畳の畳へ、ザン…と。

熊が引っ掻いたかのように深く亀裂が走る。


鬼が鼓を叩くと、今度は少年の背後に位置する障子へ爪痕が走るのを目の当たりにしたためか、誰かが息を飲む音が聞こえた。

そんな中、次々に打たれる鼓の位置を確り見据えながら、彼女は右の畳へ左の畳へ…と移り、どうにか攻撃を回避する事に成功する。


「(右、左…それなら次は……!)」


前…と攻撃地点を予測して後ろへ飛び退ると、予想した場所へ違わず爪痕が走ったのを見て、百瀬は討伐成功への目処を立て始める。


…これなら逃げてばかりではなく、どうにか攻撃に転じる事が出来るかもしれない。

しかし、その刹那。
明らかに鬼の居る場所ではない、どこか遠い所から『ポン…、』と鼓を打つ音がして。


はっと身を固くした途端。
───瞬き一つの合間に、彼女は炭治郎と手を繋ぎ、てる子を片手に抱いたままの状態で別の部屋へ居た。

油断は禁物とばかりに気配を探ってみたものの、既にあの鬼の気配は近くに無く。
どうやらまた思い切り遠くへ飛ばされてしまったらしいと思い至って、彼女は静かに溜息をついた。


「(あの鬼は鼓を叩いていなかったのに、)」


今は何故移動したのだろう?

彼女はてる子をそっと畳の上へ下ろしてやりながら、頭を働かせ続ける。


「(───それとも、鼓を所持している鬼は複数居る、とか?)」


思いついた途端、我ながら何と突拍子もない、と思いはしたが、この状況下において、強ちあり得ない話でもなく。

実際そうであるなら、先程起こった不可解な移動についても説明がついてしまうわけだが。


「(そういえば、)」


この部屋にはあの猪頭の少年の姿が見当たらないけれど───まあ、あれだけ機敏に動けるのだから、心配しなくても大丈夫だろう。


とにかく、こういう時には余計な心配は増やさないに限る。

やや強引に思考を切り上げるが早いか、互いの怪我がない事を確認し。
彼女達は、飛ばされた部屋から再び屋敷の探索へと繰り出した。

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