▼ 07
冨岡に伴われて往く事暫し。
辿り着いたのは、先程見つけた白い鬼の姿が真正面から見える位置。
そこへ丁度良く生えていた木の後ろに陣取り、百瀬と冨岡は息を殺してその動向を見守りつつ、出て行く頃合いを推し量っていた。
彼女と冨岡の視線の先には、夜闇に溶けるようにして地面に這いつくばっている、若い鬼殺の隊士の姿がある。
───幸いな事に、その隊士はまだ生きているようで、折れた刀を握り、大きく息をしながら静かに鬼を見上げ。
対して、鬼は自身の頭に手を添え。
僅かに血が滴るそれを微妙に動かし、収まりの良いところを探しながら、隊士に向かって何事か話をしているようだった。
───その鬼の、紅い瞳。
明らかに人外の生物と成り下がった証である瞳には、確かに、下伍。
即ち『下弦ノ伍』の鬼であるという証が刻まれているのが見え、百瀬は、身に付けていた厄除の面越しに目を細めた。
普通の鬼であるならば、首を落とせば大抵絶命するが、下弦や上弦といった…所謂数字持ちの鬼であるならば、その生命力やしぶとさは並の鬼の比ではない。
数字持ちの鬼自体、鬼の中では潜ってきた死線の数も、食ってきた人間の数も群を抜いているのだから、しぶとくて然るべきなのかもしれないが、その実『斬られても斬られても簡単には死ねない、』という方が逆に惨く思える事がある。
人外の生物になってまで成し遂げたい目的があり、自ら望んで鬼となったのか。
はたまた、不慮の事故に遭い…気が付いたら鬼に成り果ててしまったのか。
目の前に対峙した鬼の過去を、偶然に知り得る事があったとして。
温情をかけ『せめて苦しまぬように…、』と一息に首を刎ねる者も居れば『それがどうした、』と惨たらしく絶命させる者も居るだろう。
しかし、鬼にどんな悲しい過去があろうとも───それが『生者を無差別に喰い殺して良い』という免罪符にはなりはしない。
鬼に成り果てた事を哀れと思うのならば、その首は最低限の慈悲を持ってして…その者の介錯をするような心持ちで刎ねてやらねばならないのだと、彼女は思う。
───それはそうと。
如何せん、ここからは距離があるために、白い鬼と隊士が何を話しているのかは分からなかったが、そうしているうち、徐々に鬼の表情が歪み、小さな体から強い殺気が漏れ出る。
離れていても確かに感じる気迫に『幼子の姿をしていても、流石は数字持ちの鬼、』なぞと思っているうち、チン…と。
隣から微かな金属音がしたので、何の気なしに音のした方へ目を向けると、冨岡が刀の鍔に親指を当てて押し上げ、鞘から僅かに刀を覗かせていた。
「これから隙を見て斬り込む。俺が出たら、お前も後ろから続き、あの隊士を連れて一度下がれ。」
静かに出された指示に確りと頷いてすぐ。
件の鬼があやとりでもするかのように蜘蛛糸を自身の指に絡ませ、隊士に向かって鬼血術を放ったその時───間髪を入れず、冨岡が飛び出す。
見慣れた半々羽織が夜闇にはためくのを目視で捉えた後、彼女も木の後ろから飛び出し、隊士の元へ走った。
その間も、彼は着々と距離を詰め、隊士の体の上を軽く飛び越す動きの最中、その周囲を囲むように生じた蜘蛛糸を全て切り捨てて、すぐに小さな鬼の目の前に立ちはだかる。
「…俺が来るまで、よく堪えた。」
後は任せろ。
ごく小さくはあったが、冨岡が若い隊士へ労いの言葉を掛けているのが聞こえてきて、百瀬は厄除の面の下に隠した顔を少しだけ緩ませる。
かねてより『何を考えているか分からなくておっかない。』『無愛想で取っつきにくいので苦手。』なぞと、柱や平の隊士から散々に言われている彼だが、一応若い隊士に対してこういう気遣いも出来るのだから、その部分はもっと評価されるべきなのではないかと思う。
そんな事を考えながら、冨岡の背後へ辿り着き。
「もし…隊士殿、大丈夫ですか?」
救援に駆け付けた際の月並みな言葉がけを行って隊士の目の前に屈み、その姿と顔を間近で見た途端。
彼女は固まった。
黒と緑の市松模様の羽織。
赤みがかった黒髪と、額の痣。
失血が多いためか、どこか虚ろに揺れる赤い瞳。
見れば見る程、先日共に任務をこなしたばかりの少年の姿が脳裏にちらつく。
「(───こんな事って、)」
彼はあの任務の後、近くの藤の家紋の家に厄介になり、そこで複数の隊士と共に療養をしているとに聞いている。
肋と脚が折れている他、新たに負った怪我だってあったのだから、まだ任務には出てこられないはず。
『───暗い中であるから、私はきっと見間違いをしているのだろう。』
自分の目に映った物が信用できず、百瀬は咄嗟にそんな事を思う。
ふと空を見やると、雲に隠れた月がようやっと顔を出し、俄に周囲が明るくなって。
「あなた、は………!」
絞り出すような少年の声が聞こえて、弾かれるように視線をそちらへ戻すと。
月明かりの元、顕わになったのは───酷い怪我を負いながら、虚ろにこちらを眺め上げ、驚いたように目を見開いている竃門炭治郎の姿だった。
『階級の低いはずの彼が、何故こんな所に。』
『肋と脚は、もう良くなったのだろうか…?』
思う所は色々あれど、彼女はうつ伏せのままだった炭治郎の体を起こし、ざっと傷の視診を始める。
その最中、彼は脂汗をかきながらも、どこか晴れやかな笑みを浮かべ、こちらへ話しかけてきた。
「そのお面に、薄浅葱色の羽織……あなたは…二年前の雪の日。俺と禰豆子に親切にしてくれた隊士の人、ですよね……?覚えてますか?俺です…竃門、炭治郎です…!」
その言葉へ相槌を打つように頷くと、炭治郎は弱々しく笑った。
「……俺、どうにか鬼殺の隊士になれたんです…隊士になってから、あなたの事を探してたんですけど…あなたの事を知っている人には会えなくて…でも、あなたにまた会えて、本当に良かった。」
そこまで一息に言った所で丁度視診が終わり、彼女は初めて自分から彼に話し掛ける。
「───見たところ、深い切り傷が多いようなので、傷の手当てをしましょう。少し移動したいのですが…立てますか?」
そう問えば、彼はふらつきながらもどうにか立ち上がった。
覚束ない足取りで一歩踏み出そうとした炭治郎へ、すかさず肩を貸し。
そのまま戦線を離脱するために一緒に移動しようとすると、炭治郎は思い出したようにとある方向を指さし、こんな頼みを口にする。
「あ…あの、すみません…あっちの方に俺の妹が居るんです…出来ればそこへ連れて行って貰えませんか?」
お願いします。
何とも切実な彼の願いを聞き入れ、百瀬は彼と共に、禰豆子の居る方へ足を向けた。
***
「禰豆子…、禰豆子………!!」
簡易的にではあるが、彼の手当てを済ませてすぐ。
ふらふら…と、眠る妹の元へ辿り着くや否や、炭治郎は今にも泣きそうな顔で禰豆子を抱き締める。
禰豆子も少なからず傷を負っているようではあったが、その殆どは既に確りと塞がり。
白く柔そうなその肌へ薄らと跡を残すだけとなっていた。
見たところ、周囲には他の隊士の姿も無ければ、亡骸も無い。
だとすると、炭治郎は禰豆子とたった二人で下弦の鬼を討伐せんと奮闘していた、という事になる。
鬼の妹の助力はあれど、下弦の鬼を前にし、刀を折られて尚一歩も引かぬ彼の戦いぶりが目に浮かぶようで『短期間で立派になったものだな…、』なぞとしみじみ思ったその時。
背後から何とも禍々しい気配が寄ってくるのを感じ、
彼女は刀に手を掛けてそちらを振り向いた。
その気配の主は、勿論冨岡ではなく。
彼女が予想した通り…冨岡に首を落とされ、体だけにながらも右へ左へと揺れ。
何かを必死に求めるように手を伸ばしながら、こちらへ歩いて来ようとしている鬼であった。
「(………きっと、この鬼が心から求めているような物は、もう近くには無い。)」
無い、という事は誰より自身が一番分かっているだろうに…死の間際、一体何を求めて彷徨っているのか。
ある意味執念深いと言えるであろうその行動を哀れに思いながらも、彼女はすうと一歩前に出る。
事切れる寸前の者に刀を振るう気にもなれず、柄に掛けたままだった手は緩やかに体の脇へ垂らし、百瀬は物も言わずに鬼を見守り続ける。
…対して、鬼は一歩。
また一歩、と最期の力を振り絞るように歩き続け、少し手を伸ばせばこちらへ触れられる、という距離に来たその時。
ばたり、と。
まるで糸が切れた人形のように彼女の足下へと倒れ伏し───指に足、ありとあらゆる場所が完全に動きを止めた瞬間から、体がぼろぼろと崩れ始める。
「……………。」
沢山の業を背負うには、何と小さな体だろう。
こんなに幼子らしい手で、一体何人の人を殺めて来たのだろう。
思う事は様々あれど、彼女は炭治郎が後ろに居るのも構わず、小さな鬼の体の前にしゃがみ。
舌を剥き出しにして怒った表情を崩さぬ狐面の下へ悲痛な面持ちを隠し、今や完全に亡骸と成り果てた者のため、静かに手を合わせた。
暫く、そうしていただろうか。
ふと隣を見ると、いつの間にかこちらへ来ていた炭治郎が悲痛な面持ちで鬼の背にそっと手を当て、消え行くその亡骸を眺めているのが目に映り、百瀬は面の下で寂しげな微笑を浮かべた。
「…竃門殿は、とてもお優しいのですね。」
そう声をかけると、彼は驚いたように目を丸くし。
かと思えば、再度悲しげな表情に戻り『いえ、その…、』と口ごもる。
丁度その時。
「───百瀬、一体何をしている。」
冷え冷えとした響きを伴った冨岡の声が頭上から降ってきてすぐ、彼女ははっと顔を上げた。
「俺は『隊士を連れて下がれ、』とは言ったが『人を喰った鬼に情けをかけて骸に手を合わせろ。』とは言ってない。」
吐き捨てるように言うが早いか、彼は鬼の骸の上に歩みを進めようとし。
「…どうかお止め下さい。」
彼女が低く声を発したのと共に足を止めはしたが、目を細めてこちらをきつく睨む。
「何故止める?子どもの姿をしていても関係ない…こいつらは、何十年何百年と生きている醜い化け物だ。」
淡々と言う彼を見て、抗議するかのように炭治郎が口を開くのと同時に。
彼女は僅かに開いた間へ、素早く言葉を捩じ込む。
「確かに、冨岡殿の仰る通り───此奴は道を踏み外し、人ならざる者へ成り果てた挙げ句、幾人もの生者を喰らい、殺めてきた業の深い生き物である事は間違いないでしょう。しかし、鬼といえども元は人…私達と同じ『人』だった者達。」
そこで一度言葉を句切り、彼女は尚も続ける。
「人を喰ったという所業は到底許される物ではないでしょうし、私も『それを許そう、』等とは決して思っておりません。しかし…朝日が昇れば身も骨も。一つ残らず消え失せるその骸を何の気なしに踏み付けにする、というのは、あまりに惨すぎます。」
気持ちを強く持ったままそう言い切り、冨岡を見上げると、彼は軽く溜息をついた後、何とも言えない表情でふいと視線を逸らし。
次に、物は言わず。
しかし、彼女と同様に抗議するかのような視線を送り続ける炭治郎の顔をまじまじと眺め。
「お前は………。」
そう独りごちて、冨岡が凪いだ瞳を見開いたその時。
不意に嫌な予感がして。
彼女は反射的に刀を構え、後ろを振り返らんとしたが、一歩及ばなかった。
彼女が向きを変えるより先に冨岡が素早くしゃがみ、利き手で刀を抜きさり。
もう片方の手で自身の翻る羽織の端を摘まむが早いか、百瀬の頭へバサリと被せてくる。
「わっ………!?!?」
突然暗くなった視界と、思いもよらぬ彼の行動に固まっていると。
ガキン…と。
彼女の至極近くで刀と刀がぶつかるような音が響き渡り、ますます訳が分からない。
何がどうなってこうなった。
とりあえず、冨岡の羽織へ頭を突っ込んで固まっている…というような絵面を解消し、どうにか状況を把握せんとしてごそごそ動いていると。
「…動くな、」
とびきり不機嫌そうな声と共に、伸びてきた彼の手によって背中を押さえつけられ、今度こそ本当に身動きが取れなくなった。
───それ以前に。
「(冨岡殿のこれは、暴れた動物を静める時にする動作では…?)」
暗い中一人でそんな事を考えていると、不意に鈴を転がすような女性の声が耳に届く。
「あら?どうして邪魔をするんです、冨岡さん。」
「(この声は………!)」
脳裏に浮かんだ可憐な姿と声を照らし合わせ、百瀬は確信した。
冨岡に押さえ付けられているため、姿こそ見えないが、すぐそこにいるのは、蟲柱の『胡蝶しのぶ』で間違いないだろう。
冨岡の話によれば、胡蝶は山の西側の鬼の殲滅を任されていたはずだったが。
…そちらはもう終わったのだろうか?
───まあ、何はともあれ。
柱に会ったというのに、挨拶をしないというのも失礼だろうと思い至り、彼女はそのままの姿勢で冨岡に話しかけた。
「冨岡殿…冨岡殿……!そろそろ離して下さい……そうでなければ、蟲柱殿にご挨拶が出来ませんので…、」
しかし、冨岡は背中を押さえる手を緩める事もせず、やはりぶっきらぼうに『黙っていろ、』と言うばかりである。
「でも…。」
「黙っていろ。」
今度は間髪を入れず、ぴしゃりと言われてしまったもので、彼女はもう黙っているより他にする事がなくなってしまう。
その短いやり取りが終わってすぐ。
「…あらあら?よく見たら、ここに居るのは冨岡さんだけではありませんね?」
「………。」
「私としたことが…冨岡さんがあんまりにも大事に隠していらっしゃったので、うっかり見落としてしまったようです。」
「…………。」
相変わらず、冨岡の顔も、胡蝶の顔も彼女には見えなかったが───二人の間に漂う空気があまり穏やかな物でないというのが何とはなしに感じ取れて。
百瀬は、やはり冨岡の羽織に頭を突っ込んだまま黙っているしか無かった。
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