▼ 02:帰りは怖い
一両、二両と。
扉へ手を掛け、車両を移る事暫し。
未だ彼女が予想したような事は起きず、鬼も出て来ず。
挙げ句、生存者らしき人影も見当たらず、煉獄を含めた鬼殺の隊士達とも合流できぬまま。
百瀬は一人、全くの無人と言って差し支えないくらいに静まり返った車両内を、遙か後方…列車の最後尾を目指して歩き続けていた。
一般的な感覚からすると『訳の分からない状況に陥った。』というだけでも、多少なりと不安になるものなのだろうが。
長らく鬼殺を続けてきた彼女にとっては、この状況も正直どうという事はなかった。
それというのも、鬼殺の任務は、どの階級の隊士であったとしても、基本的に一人で行う事が多いからだ。
大規模な討伐が行われる時や、小規模な範囲で複数の鬼を狩る際の共同任務以外では、負傷した際に任務地から最寄りの藤の家紋の家や蝶屋敷で養生する時等々…思い当たる所では、隊士同士で接触する機会はあまりないと言える。
そのためなのか、自分や柱を含めた鬼殺の隊士全般は、一人で居る事を然程苦痛と思わない者が多いような気がした。
.......考えながら足を進めているうち。
いつの間にか最後尾の車両へと辿り着いてしまった事に気が付き、彼女は小さく溜息をつく。
一応、いつでも刀は抜けるよう右の手を柄に添え、左手を扉の窪みに掛けつつ。
彼女の目線が丁度来る位置へ填められた硝子を覗き込むも、やはり人影はなく、鬼が居るような気配もない。
それを認めるが早いか、彼女は扉を静かに開け、揺れる車両内へ踏み入って辺りを見回す。
すると、先程通過してきた車両と同じく。
彼女から見て左側。
丁度車両の中央へ位置する座席の窓が中途半端に開けられたままであったため、百瀬はそちらへ近寄り、これまでしてきたように桟へ手を掛けて下へ引き、窓をきっちりと閉める。
その足で、何か目新しい物は無いかと更に車両後方へと足を進めたが、彼女が期待したような───この状況を理解するための手掛かりや、誰かが居たような痕跡といった物は微塵も見当たらず、落胆してしまう。
…まあ、まだ前方の四両の探索は済んでいないし、こっちに何も無くても、そちらに何かあるかもしれない。
万が一、前方にも『何もない、』なんて事になれば別の方法を考えなければならないので、流石にそれは無いと思いたいが。
悶々と考えつつ、彼女は前の車両を探索するため、くるりと踵を返す。
その刹那。
「…もし、そこの方。」
背後から突然声をかけられ、百瀬は弾かれたように振り返る。
一番後ろへ備え付けられた四人がけの座席───先程まで誰も居なかったはずのそこへ、いつの間にやら、背筋をしゃんと伸ばした老婦人が座っていた。
詳しい歳の頃は知りようも無かったが、夜闇に溶け込むような紺色の着物を見事に着こなし、白髪の交じり始めた髪を一房も逃す事なくきっちりと結い上げて鼈甲の櫛で留め。
…そんな見た目から分かる通り、とても品の良い感じのする人で、肌へ薄らと叩いているのであろう白粉の良い香りが、こちらまでふわりと漂ってくる。
しかしながら、姿形から確かに『この人は老婦人である、』と分かるのに、その顔には薄ぼんやりと黒い靄が掛かっていて、どんな表情をしているのかは定かでは無い。
もしかすると、自分の目がおかしくなってしまったのかとも思い、目を擦ってみて再度そちらを見てみたが、老婦人の顔に掛かった黒い靄が晴れる事は無かった。
「(…それにしたって。)」
自分の目で見て、確かに誰も居ない事を認識したはずなのに。
前の車両から移ってきたのなら自分と必ず擦れ違うはずであるし、元々この車両に乗っていて、さっきはたまたま姿が見えなかっただけ…と言っても、この老婦人が隠れられそうな場所などどこにも無い。
正直なところ、何が起こってもおかしくはない状況下、という事もあるが、この老婦人は今突然現れたとしか思えなかった。
一瞬だけ、鬼が化けているのではないかとも思いはしたが、気配は明らかに人間の物であり、どうしたものか…と、百瀬はいよいよ困ってしまう。
すると、老婦人は不思議そうに小首を傾げてこちらを眺め、こんな事を口にする。
「さっきからずっとそちらへ立っていらっしゃるようですけれど…一体どうなさったの?揺れる汽車の中でずっとそうしていては危ないでしょうに。」
「え…ええ、確かに…そう、ですね…。」
歯切れの悪い答えを返すと、老婦人は、黒い靄の下…口があると思しき場所へ手をやり、声を殺して少し笑ったのが分かる。
一頻り笑って、しばし。
余程笑ったのか、彼女は涙を拭うような仕草をして、また言葉を発した。
「───よろしければ、こちらへいらして座って下さいな。丁度、私も一人で退屈していましたし…少しの間だけお話し相手になって下さると嬉しいわ。」
『......勿論、お嫌でなければ、ですけれど。』
黒い靄の下、朗らかな表情でそう言ってくれたであろう老婦人からの提案を受け、少々考えはしたが。
「(…何かある、という確証の無いまま列車の中を歩き回るより、少し立ち止まってみた方が状況を整理出来るかもしれない。)」
そう思う事にして、彼女は『それでは、しばしご一緒させて頂きます。』と一言断りを入れ、老婦人の目の前の空いた座席へ腰を降ろした。
***
「一番最初のお師匠様が亡くなられてからは、色々な流派を転々となさったのね.......お若いのに、随分と苦労なさって…。」
百瀬の話によく耳を傾け、老婦人は幾度も頷きながらそんな事を呟く。
いつの間にやら、彼女の手には舶来品と思しき白いハンカチーフが握られており、それで忙しなく両の目を押さえているのが黒い靄の隙間から見えて、少々心苦しくなった。
実は、先程からの話の流れで、老婦人に自身の身の上話をする運びとなり。
一応彼女が一般人であるという想定の元、鬼殺の事や鬼の存在を伏せながら、かなり簡略的に今まで自分自身が体験してきた出来事を話したのだが。
───この老婦人が驚く程聞き上手で、適度に共感を示したり、完璧に相槌を打ってくれるもので、ついつい話し込んでしまったというわけである。
しかし、いざこうして自身の身の上を話してみるとなると。
時間の流れの速さをよりはっきり感じさせられるもので、百瀬は何とも言えない心地になる。
子どもの頃は、時間という物は無限にあるように感ぜられて、大人になるまでの期間が途方もなく長いような気がしていたが、それは正しくない認識であった。
幼少の砌は、一日ですら妙に長く感じられたのに、近頃となってはそうではなく。
一日も一月も。
はたまた、一年でさえも。
今では『あっという間に過ぎ行く物』であり、同時に『目に見えない概念の物を認識するためにあるだけの括り』となり果ててしまっているのが現状だ。
そう感じてしまうのは、日頃から鬼を狩る事を生業とし、一般社会とあまり関わらずに生活している為であるのか。
それとも、一般的な大人の感覚として皆そうなのか。
刀を握らぬ普通の生活とすっかり縁遠くなってしまった百瀬にとっては、判断のしようがなかった。
俯き加減にそんな事を思っていると、ふと老婦人の手に目線が行く。
皺はあるが、丸みを帯びた優しい手。
…その時、不意に胸騒ぎがして。
百瀬は全身を強張らせ、今度はじっくりと老婦人の手を眺めてみる。
別に、何か大きな傷があるだとか、どこか欠けた部分があるだとか…そういうわけではない。
ただ、老婦人の左手に光っている物───薬指に二つ填められた指輪が、妙に引っかかったのだ。
「(恐らく、片方が『婚約指輪』で、もう片方が『結婚指輪』という名前の物だった気が………。)」
結婚指輪をしている人はそこそこいるけれど、婚約指輪はまだ主流ではなく、二つを重ね付けしている人は早々居ないはずだが。
「(そういえば。私は、もう随分前に、誰かとこんな話をした事があるような…?)」
途中までは確かに思い出せるはずであるのに、薄皮一枚隔てたその先。
…肝心な所をどうしても思い出す事の出来ない不快感に苛まれながら、必死に記憶を漁る事暫し。
冷や汗をかきながら一言も話さなくなった彼女を心配したのか、老婦人がこんな問いかけを投げ掛けてくる。
「何だか、顔色が良くないわね…汽車酔いでもしてしまったかしら……?」
優しい声音で、心配そうにそう言いながら。
老婦人の温かな左手が、彼女の頬にそっと触れた瞬間。
「…………東、先生?」
ぽろり、と。
自分の口から転がり出てきた懐かしい名前に、百瀬は自身の皮膚がぞわりと粟立つのを感じた。
先生が生きていらっしゃるなんて…そんなはずは無い。
先生は、私に最終選別へ向けての最期の稽古を付けて下さっている最中、胸の病でお亡くなりになって。
葬儀が終わってからは、遺言の通り。
ずっと昔に亡くなったご主人やお子さん達と一緒のお墓へ入られたはず。
「(私は、この目で……。)」
確かに、先生の最期を見届けたのに───。
自分自身でもはっきり分かる程頭が混乱し始めたのと同時に、彼女の脳裏で古い記憶がゆっくりと目を覚ます。
あれは、百瀬が一番最初の師範の所へ弟子入りして間もない頃。
秋も間近の、穏やかな夕暮れの事。
彼女の最初の師範であった───紺色の着物を着て、白髪の交じり始めた髪を鼈甲の櫛で結い上げた老婦人が、二つの指輪をした自身の左手を夕日に翳しながら、懐かしそうに語ってくれた。
『変でしょう?二つも指輪をしているなんて。私は一つで十分、と幾度も訴えたのだけれど。夫がね…どうしても受け取って欲しい、ときかなかったもので。』
『………私も、とうとう根負けして受け取ってしまったのよ。』
そう言いながら、少し照れくさそうに。
けれども、とても嬉しそうに目を細めて薬指の指輪を眺める老婦人の姿は、すぐ近くに居るというのに、とても遠くに感ぜられたものであった。
長いこと仕舞われていた出来事をなぞり、百瀬はやや緊張しながら。
しかし、確信を持って言葉を発する。
「…東先生、ですよね?」
二人の間に長い沈黙が落ち。
彼女が、未だ黒い靄に隠れた老婦人の顔を凝視し続けていると。
「───やっぱり、あなたには分かってしまうのね。」
「…………!」
諦めたような言葉の後。
彼女の顔に掛かった黒い靄は霧散し、今はもう拝むことは叶わない東師範の顔が顕わになった。
亡くなる前日のような、紙のように白い顔ではなく、血色の良い、綺麗に化粧が施された顔。
優しげに細められた目と、紅を薄く引いた唇。
生前とまるきり同じその姿は少なからず百瀬を喜ばせたし、普通なら『亡くなった人がこの場に居るなんておかしい、』と冷静になるところを『何をお話ししようかしら…。』なぞと考え、先程まで何を目的として列車内を彷徨っていたのか忘れてしまうくらいには舞い上がっていた。
まあ、何はともあれ。
これまでこなしてきた鬼殺の仕事についての報告から始めようかと口を開くと、先生は首を横に振り、百瀬を制す。
「駄目よ、百瀬…とても残念だけれど、もう私達二人でお話をする時間はない。」
「…そんな、」
「あなたには、私が死んでから、しなくても良い苦労をさせてしまったわね…辛かった事、苦しかった事、泣きたくても我慢した事、沢山あったはずだけれど、あなたは鬼殺の隊士になって今ここに居る。それはとても喜ばしい事よ。本当に、立派になったわね───!」
先生からの言葉に思わず目頭が熱くなるも、泣くのをぐっと堪えると、先生は彼女の手を握り、にこにこと朗らかな笑みを浮かべてまた言葉を紡ぐ。
「───あなたには、してあげたい事が本当に沢山あったの。あなたが私の所へ弟子入りしてくれたあの日から、ずっと考えていたのよ?私の手で最終選別へ送り出してあげたかったし、鬼殺の隊士となった後も、成長を見守って…頃合いを見て、素敵なお婿さんを見つけて上げたかったわ、それから…。」
川のせせらぎのように止めどなく流れていく言葉を聞き、百瀬は首を縦に振りながら一生懸命に東先生の言葉を聞く。
その内、先生の手を握る力が一段と強くなり。
「…百瀬。あなたのような子が、生前、義理と言えども私の娘になってくれた事を誇らしく思うわ。今の私は、あなたの見ている都合の良い夢…ただの幻であったとしても、もう一度あなたに会えて嬉しかった───これからも、誇りと自信を持って心の赴くまま刀を振るいなさい。さすれば、自ずと自分の進むべき道は拓かれるはず…。」
優しい声音でそう告げた途端。
握っていた手の温もりだけを残して、東先生はふっと姿を消した。
…何がどうなったのか。
皆目見当もつかず、百瀬は立ち上がり、元のように誰も居なくなった列車内を呆然と見回す。
しかし、先生がそこにいたという痕跡は全くもって無く。
彼女は溜息を一つつき、腰に差したままだった刀の柄を確りと握って鞘から抜き、徐に頭上へ振りかぶって、何も無いはずの空中へ向かって振るう。
何か明確な目的があったわけではない。
ただ何とはなしに『そうした方がよさそうだ。』という予感がしたからそうしただけで特に深い意味は無かった…はずだった。
振るった刀の先。
そこへコツンと引っかかる物があり、百瀬は小さく息を飲む。
その瞬間、自分の体へ唐突に強い揺れを感じたために思わず目蓋を閉じて、その場にしゃがみ込み。
次に目を開けた時。
視界の端へ、炎のように鮮やかな色の髪が翻るのが見えた。
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