桃と鬼 | ナノ
 06

炭治郎との共同任務を終えて、早一月。

彼を庇って出来た胸の傷は、冨岡の手当の甲斐あってすぐに癒え。
彼女はまた、元のように忙しなく鬼を狩り続ける生活を送っていた。


今日も今日とて、鬼狩りの最中であるのだが、那谷蜘蛛山を目指してひたすら夜道を往く道すがら。

特に『顔を隠すように』という指示は無かったものの、長らく懐へしまったままであった厄除の面を何となく身に付け、百瀬は冨岡が待っているであろう場所を目指して走っていた。


冨岡より『この度、那谷蜘蛛山に潜む鬼の討伐を任された。討伐は今夜の夜更けに行われるため、同行を頼む。』という文を貰ったのが、つい先程。

───つまり、彼女が別件の任務を東京の外れの方にある遠方の町で済ませ、そろそろ宿に帰ろうとしていた時分に文が届いたのであった。

その時は、呑気に夜道を歩きながら『はて、那谷蜘蛛山なんて山の名前は聞いた覚えがないが…一体東京のどの辺りにあるんだろう?』なんて考えながら、手紙の後ろに簡易的に描かれた地図を見ていたのだが。


手紙を運んできた鎹鴉から急かされ、そんなに遠いのかと問うたところ『那谷蜘蛛山ハ、ココカラ七里モ先二アルノダゾ…!』と教えられたものだから、慌てて。

それも、なり振り構わず。
いつもの二倍は気合いを入れて呼吸を使い、文字通り全速力で走ってきたわけだ───しかし。


「(つかない。)」


そう。

彼女の居た任務地は那谷蜘蛛山と反対方向にあり。
尚かつ、東京の隅の隅に位置していたために、思わず笑ってしまう程に距離があったのだ。


最初の方は『この前の一斉討伐の時、一夜の内に走りきったくらいの距離だから、どうにかなるのではないか。』なぞと軽く考えていたのだが、これが大間違いだった。


そもそも、七里というのは。

一般的な感覚からすると、丸一日ゆっくり歩いて辿り着くくらいの、そこそこ長い距離である。


一斉討伐の際にすら、前日の夕方頃から日が昇るまでの間を丸々使って往った距離を、あまり猶予の残されていない中。
夜更けに間に合うよう気にしながらひたすら駆けるなぞ、正気の沙汰とは思えないような行為である。


…しかし、悲しきかな。

長らく平の隊士としてやってきている彼女は、柱からの招集に『否』と言う勇気は無い。


それも、いつも何やかやと世話になっている冨岡から、わざわざ文を寄越され。

直々に呼び出されたともなると、もう『断る』という選択肢は消え失せてしまう。


その時点から、今回の一件ばかりは冷静に考えると負けである事を悟り。
『間に合わない』のではなく、あくまで『間に合わせる』と。

ひたすらそう唱えながら休憩も無しに夜道を駆け抜けてきた訳である。


そうこうしているうち、前方へようやっと那谷蜘蛛山らしき山が見え始め、喜んだのも束の間。

百瀬は走りながら空を見上げ、顔を顰めた。


町を出た時と比べると、月はあんなに高く、星の位置も少しずつではあるが、確かに変わり始めている。

果たして、これは間に合ったと言えるのか否か。

ひやりと冷たい物が背中を伝うが。
まあ、その時はその時で謝らねばならないのだから、と腹を括り、彼女は少しだけ速度を緩めて暗い夜の森へ踏み入った。


***


山中には、血潮の匂いと共に、複数の鬼の気配が渦巻いている。


冨岡からの手紙には、彼以外の柱…蟲柱の胡蝶しのぶも隠部隊を指揮し、今回の討伐に参加している、と明記されていたので。

恐らく、この山全体に巣くう鬼を今夜中に一斉討伐するつもりなのだろうな、という所までは予想していたが。


「(……………酷い、)」


暗い山道には、あちらこちらに百瀬や冨田よりも若いか、同じくらいの年の頃。
将来有望な鬼殺隊士達の亡骸が転がっているのが嫌でも目に入り、彼女は悲痛な面持ちのまま山を登っていく。


この有様を見る限り、討伐自体は近くに居た一般隊士を総動員して、割と早くから行われていたようだが。

…恐らく、鬼の強さと隊員の練度が適切にかみ合っていなかったせいでこのような事態に陥ってしまい、冨岡や胡蝶が動員される事になったのだろう。


冨岡の指示に従い、東側から山を登ってここまで来たは良いものの…東でこの有様なのだから、西も西で酷い事になっているに違いなかった。

森の香りの中、微かに漂う血の匂いに眩暈を覚え、歩きながらこめかみを指で押してみる。


確かこの辺りに、何か効果のあるつぼがあると誰かから教わった気がするから…という事で、気休めも兼ねて押してみたが。

やはりそう易々と気分が晴れるわけもなく、彼女は溜息交じりに立ち止まった。


過去に参加してきた討伐の中ではもっと悲惨な状況も多々あったし、彼女自身、戦いの最中で命を散らしていく仲間の姿を見送ってきた側でもあるのだが。

数時間前には生きて。
確かに動いていたのであろう仲間の亡骸をいくつも眺めて平気な顔をしていられるわけもない。


いつになっても決して慣れる事のない感覚に胸を締め付けられながら、百瀬は後ろを振り返り。

道中で亡くなっていた鬼殺の隊士達に向かって手を合わせる。


「(どうか、次に生まれてくる時には…刀を握らずに済む、幸せな一生を送れますよう。)」


切実な思いを心の中で呟き、頭を下げる事しばし。


「───百瀬、」


静寂の中。
後ろの方から、聞き覚えのある声が自分を呼んだ。

声の主は、もしかしなくとも彼だろう。


確信を持って振り向けば、いつの間にこちらへ近付いてきていたものか。
手を伸ばせば届く距離からこちらを見下ろしている冨岡と目が合った。


「…知り合いでも居たのか?」


「……いいえ。今回の討伐でも、沢山の方が命を賭して戦われたのですね……。」


「────そうだな。鴉から来た知らせには、この山に下弦の鬼が潜んでいた、という事らしいが。」


「………左様でしたか、」


冨岡の言葉に暗く応えて、百瀬は厄除の面をつけたままの顔を俯けた。


…どうりで、若い隊士の亡骸が多かったわけだ。
数字持ちの鬼の討伐の際には、大抵経験の浅い若年層の隊士が亡くなる事が多い。

ここに来るまでに見かけた遺体の中には、先日一緒に任務を行った炭治郎や善逸とあまり変わらぬ年の頃の隊士の物もあって。


『傷を負って、痛かったろうに。』
『暗闇の中で一人絶命するのを待つのは、どんなにか怖かったろうか。』
『まだやりたい事も、沢山あったろうに。』

百瀬自身、直接彼等の人生に関わる事こそなかったが…年若くして命を散らしていった彼等の事を思うと、どうにも胸の奥が苦しくなり、彼女はただ無言で立ち尽くす。


「……泣いているのか。」


再び頭上から降ってきた声に顔を上げると、先程より僅かに近くへ寄っていた冨岡が、暗く凪いだ瞳でこちらを眺めていた。


「…いいえ。」


頭を振って短く返せば、彼は『そうか、』と呟くように言ってこちらへ背を向ける。


「…今回の討伐についての詳しい説明は歩きながら行う。これから急ぎ山頂に向かうので、同伴を頼む。」


「───承知しました、どうかよろしくお願い致します。」


いつの間にやら自分よりずっと大きくなった背中に『滅』の白文字を背負い、冨岡が半々羽織を翻しながらゆっくりと歩き出したのを認めつつ。

…百瀬は徐に顎の方へ手をやり、そっと面を浮かして、流れ落ちてきた水滴をぐいと乱暴に拭う。


『お前がそんな事では、』と叱られてしまうような気がして、咄嗟に泣いていないとは言ったものの、やはり彼にはお見通しだったようだ。


割とあからさまではあったが、歳下の兄弟子からの気遣いに感謝し。

彼女は『志半ばで散っていった彼等の分も、私が頑張らなくては…!』と、どうにか自分を奮い立たせ、厄除の面を元のように被り直す。


そうして、未だ血の匂いが色濃く漂う森の中。

彼の姿を見失わないよう。しかし、適度に距離を取りながら、彼女はその後ろを追いかけ始めた。


***


「──なるほど。では、この山に残っている鬼の数は…。」


「計算が間違っていなければ、報告された数と合算して───残りは下弦の鬼と、その配下の鬼…この二体となるはずだ。」


淡々と話をしながら、いつもの如く百瀬は冨岡の二、三歩後ろを歩いてついていく。

しかし、話を良く聞けば聞くほど。
…今回、自分が何故彼から名指しで呼ばれたのかが分からなくなってくるのも事実で、彼女は話に相槌を打ちながら考えを巡らせた。


どう考えても、事後処理には人手が足りているようだし…彼に限って『ただ呼んでみただけ、』なんて事はないだろう。

なら、もっと別な用事があるのだろうか…。


そんなふうに思いながら歩いていると、冨岡は彼女の疑問を見透かしたかのように、歩きながらこんな事を言い出す。


「…遠方からわざわざお前を呼びつけて同伴させたのは、他でもない。万が一柱がやられたとしても怯まず、他の隊士を指揮して鬼を確実に屠れる隊士が要りようだったからだ。」


「せっかく熱弁していただいたところ、大変申し訳ないのですが…私、そこまで図太くいられる自信はありませんよ?」


本心からそう言ったにもかかわらず、彼はそれを軽く鼻で笑った。


「謙虚なのは結構だが…事実、お前なら俺が言った事を全て実行できるだろう?」


「それは………水柱殿の仰るような特殊な状況下であれば、どうにかしようとはするかもしれませんが。」


そう言い淀んだ途端。

何事か、冨岡がいきなり立ち止まってこちらを見てきたので、彼女も立ち止まり、彼の顔を見上げる。


…ほとんど表情の変わる事がない氷の容は、何故か今に限って僅かに顰められ。

けれども、世の女性からすると『これはこれで…、』と言わしめるような憂いを帯びた雰囲気を放ちつつ、口では多くを語らないかわりに、その瞳で雄弁に物を語るのだ。


『その呼び方…どうにかならないのか。』

もしかしなくとも、彼がそう思っているのは明らかだ。


何だか、随分前にもこんな事があったような気がするのは、きっと百瀬の思い違いではないだろう。

…それ以前に、冨岡は彼自身の事を名前ではなく『水柱』と呼ばれると、若干不機嫌になるきらいがあった。


彼の事を修業時代から知る仲として、それが何故なのかは多少なりと分かっているし、自分が踏み入ってはいけない問題である事も理解していて───今までも極力そこには触れずに来たのだが。


「──本当なら、俺などではなく。お前が柱になるべきなのだろうが。」


小さく。
本当に小さく。

夜闇に溶けるような彼の言葉を耳にするが早いか、百瀬の面の下の顔から表情が消え、自分でも驚くほどに低い声音が彼を呼ぶ。


「………冨岡殿。いくら私相手とはいえ、滅多な事は言わないに限ります。口は禍の門…今のお言葉は少々戯れが過ぎるかと。」


「…………。」


面に空いた二つの穴からじっと彼を睨めつけたが、冨岡は涼しい顔でこちらを眺め返すばかりだ。


『例え気の迷いからであろうと、本心からであろうと…討伐中に、自分自身が柱に座っている事を好ましく思っていないような言動を取る等、言語道断。』

『今の発言が、自分以外の…他の隊員に伝わってしまえば、士気を著しく下げるばかりか、勝てる物も勝てなくなってしまう…それどころか、柱全体の信用失墜にもなりかねない。』


先程の、かなり婉曲な言い回しの中へこれだけの真意を含ませ、彼女は冨岡と目を逸らさぬまま、更に言葉を繋げる。


「冨岡殿は『柱』で、私が『平の隊士』という事からしても、私達の実力差は明確です。冨岡殿は、私がしていない努力をして。それをお館様に認めて頂き、柱になられたのですから、そんな事を仰らず…柱として選ばれた事をもっと誇っても良いのではありませんか?」


動かぬ事のない事実を盾にしながらそう言えば、彼は僅かに目を見開き。

やや間を置いて。
ようやっと目を逸らすと、どこか不機嫌そうに話し出す。


「よく言う───俺はお前とも違えば、他の柱達とも違うというのに。」


「経歴が様々なのは、お互い様です。何はどうあれ、皆が皆それぞれ違っているのは良い事だと…私はそう思います。」


「………。」


「それではいけませんか?」


臆せず言えば、冨岡は無表情で『…一理ある。』とだけ短く呟き、黙ってしまう。

少々強引だったかな…と思いはしたが、自分が小言を言って煙たがられるくらいで、彼の柱としての体裁が保たれたのなら、それで構わない。


再び歩き出した冨岡の背中を数歩後から追い掛け、二人で静かに山頂への道を急ぐ。

そうして、無言で歩みを進めていくうち。


足の先から額の辺りに至るまで、自身の肌が、ぶわ…と粟立つような嫌な予感に苛まれ、彼女は急に足を止めた。


「────どうした、」


先を行っていた冨岡が立ち止まり、こちらを振り返ったのを認め、百瀬は彼の傍へ寄って小さく声を発する。


「…この先、三町半以内の場所へ鬼が居ます。」


事実を告げた瞬間、二人の間に漂っていた空気は一息に緊張感の増した物に変わった。


「この気配からして、私達の近くに居るのは、冨岡殿の仰っていた下弦の鬼かと。」


「……となると、出会しがてら戦闘にもつれ込むのは避けた方が無難だな。より正確な鬼の位置は分かるか?」


「少し距離がありますので、今はただぼんやりとしか分かりませんが…近付けば何とか気配を探れます。」


「承知した───では、ここからお前に先導を任せる。どこを通っても構わないが、用心だけは怠るな。」


彼の言葉に頷くが早いか、百瀬は冨岡の隣をすり抜け。
着ていた浅葱色の羽織を翻し、鬼の気配を辿りながら、山道を全力で走り出した。

右へ、左へ。
獣道を横切り、小川を飛び越え、邪魔な枝葉を掻き分けて。


端からすれば、ただ滅茶苦茶に山の中を走っているように見えるのだろうが、その走りに迷いは一切無い。

そうして、歩みを進めれば進めるほどに強まる嫌な予感を頼りに、彼女は更に深い森の中へ踏み入っていく。


樹の下を足音もなく駆け去った後、一際大きな藪へ入り。

妙に肉厚なその葉を掻き分け、地面に膝をこすりながら前へ前へと進んでいる最中、妙に心臓が跳ね、自身の皮の下に流れる血潮の熱さをひしひしと感じる。


それは、長距離を走ってきて疲れているからかもしれないし、戦う前に気持ちが昂ぶっているせいかもしれない。

もしくは、鬼が。
それも、数字持ちの鬼が近くに居る時は、余計にそれが強く感ぜられる。


「(この先に…、)」


居る。

肌を刺すような…人では無くなった者の禍々しい気配をより濃く、確かに感じ取り、百瀬は目の前の肉厚な葉を、音がしないよう慎重に退かす。


そうして、そこへ出来た小さな穴を息を殺して覗き込むと───その僅かな隙間。

薄暗がりの中、幼子の姿をした青白い鬼の姿を認め、無意識の内に手が刀の鞘へ行く。


「…居たか?」


いつの間にか、ぴったりとくっつくようにして後ろへいた冨岡からの問いかけに頷き『こちらへ、』とだけ小さく応え、狭い藪の中で僅かに身動ぎし、どうにか場所を明け渡す。

すると、彼はこちらの意図を察してくれたのか、先程百瀬がしていたように枝葉の合間から鬼の姿を垣間見て。


かと思えば、急にこちらへ向き直り、鬼の居る方とは逆…即ち、今まで通ってきた道の方を指さし『ついてこい、』と唇だけを動かして伝えてくる。

───大方、何か良い案があるのだろう。


彼女が頷くのと同時に、冨岡は音を立てないよう細心の注意を払いながら元来た道を引き返し、百瀬もその後に続く。

鬼は何かに気を取られているためか、こちらを見たり、気配に気が付いて襲ってくるような事もない。


何はともあれ、今回は運が味方してくれた事に感謝しつつ、足音を忍ばせながら冨岡の背中を追った。


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