▼ 01:事実は小説より奇なり
ちらちらと、雪が降っていた。
真っ白な雪の上には、生々しく血痕が散らばり───まだ雪に覆い隠されぬそれをひたすら辿っていくと、本来ならば人が足を踏み入れる事など無さそうな崖下の山林に至る。
そこには、酷く焦燥した表情を貼り付けた少年と、彼を守るかの如く覆い被さった手負いの鬼女が、互いに気絶したまま雪の上へ放置されていた。
事実だけに目を向ければ、少年と鬼女は、ただ静かに降り積もる雪に覆い隠されるだけのように思われるだろうが。
幸か不幸か。
この場には、少年と鬼女から、ほんの数歩だけ離れた場所で。
揃いの黒い詰め襟の服を着て刀を腰に差した男女が、何とも言えぬ表情を浮かべ、起きる気配のない少年と鬼女を眺め下ろしていた。
「───お前は、どう思う?」
何の前触れもなく男が問うと、女の方は淀みなく答えた。
「少年はともかく、この鬼女は、今のうちに屠っておくべきかと。」
…そろそろ、吹雪になるのだろう。
木々の間を通り抜けていく冷たい風が、彼等の羽織の端を攫い、布を一瞬だけ高く巻き上げる。
その時、偶然見えた彼等の背には、堂々たる『滅』の白文字があり、それは彼等が鬼殺隊の隊士である事を示していた。
鬼殺隊自体は、政府非公認の民間組織であり、日夜、人知れず鬼を屠る事を生業とする者が籍を置いている場である。
ならば、彼女の物騒な言葉も別に不自然な物ではない。
鬼殺隊としては『鬼は滅して当然』なのだから、何ら間違ったことは言っていない。
むしろ、模範的な回答ですらあった。
男はそれに一度頷き、まるで彼女の言葉に同意したかのような素振りを見せたので、彼女は無表情のまま己の腰の刀に手をかけ、目の前の鬼女の首を刎ねようとしたが。
何を思ったのか。
男もやはり無表情で、彼女のそれを押しとどめた。
当然、彼女はそれを訝しんだが、男は凪いだ瞳のまま、ひたと彼女の目を見据え、静かに。
けれど、確かな意思を持って言葉を発する。
「俺は……。」
こいつらに、かけてみようと思う。
彼が確かにそう言った途端、彼女は大きく目を見開き、口を噤んで立ち尽くす。
彼等の間を、冷たい風が雪を撒き散らしながら通り抜け、それっきり辺りはまた静かになった。
***
時刻は、前日に遡る。
正月も間近に迫った、雪のちらつく朝。
百瀬は単身、近くの町を目指して、道を急いでいた。
『水柱の任務に同行し、後処理や戦闘の補助を行え。』
『もしもの時は頼む。』
鎹鴉が息せき切って運んできた炭の滲む書状を手に、彼女は件の水柱…冨岡義勇と合流する運びとなったのだ。
道中『彼と組むのだから、今回はさほど気張らなくとも済むな…。』『出来れば、早めの昼餉を馳走になりたいな…。』なぞと現金な事を思ったが、そう上手くは行かないのが常だ。
一足先に待機していた冨岡に会って早々。
「山間の町で、鬼を目撃した者がいるらしい…急を要するので、もう立つぞ。」
こんな具合に説明を受け。
…というか、反論する余地もなく、歩き通しで疲れた足を更に酷使する事となった。
そこからは、二人連れだって目的地へ向かったはいいが。
途中の道が崩れていて通れないだの、遠回りした先が酷い吹雪で、立ち往生を余儀なくされるだのと、今回は何かあるのではないかと勘繰ってしまうくらいには運が悪すぎた。
加えて、雪という足場の悪さが更に邪魔をし。
へとへとになりながら渦中の田舎町へ着いたのは、次の日の早朝だった。
空は相変わらず曇ったまま、日の光は差していない。
加えて、まだ人の寝ている時間帯とはいえ、あまりに静かすぎる。
日常の中、微かに生じた不穏な物を感じ取って周囲を眺め回すうち、ふと近くの山が目に留まった。
こんな天気の日は、朝だろうが昼だろうが鬼が出る。
しかし、少し頭の良い鬼ならば、無闇やたらと町に降りて手当たり次第に人を食い散らかすような事はしないだろう。
もっと賢いやり方は、いくらでもある。
…例えば。
それこそ、山間にぽつりぽつりと家を構え、冬場はほぼ人の行き来がない炭焼き職人の小屋に目星をつけておき。
腹が減った時にそこを襲って腹ごなしをし、次に腹が減った時の為に、また同じような条件の別の小屋を探しておく。
このように、一冬の間それを繰り返すだけで、鬼は然程人に見つかりもせず、常に満腹のまま楽に越冬する事が出来てしまうのだ。
そんな事を考えているうち、冨岡が偵察に飛ばしていた鎹鴉が戻ってくる。
「───アノ山頂ノ山小屋二、複数亡骸アリ、」
鬼ガ出タ。
鴉がそう言い終わるより先に、山の方へ駆け出した冨岡の背を追って、彼女も走り出す。
予想が現実となり、胸の内が苦い物で満ちていく。
雪に足を取られ、何度も転びかけながら辿り着いた山小屋には、あまりに惨い光景が広がっていた。
まだ新しい血の匂い。
薄暗い母屋の中、息のある者は誰もいなかった。
玄関口が開け放たれたままの小さな家には、母親と思しき女性と、数人の子どもの亡骸があり、皆一様に、物言わず血だまりの中へ沈んでいる。
しかし、既に物は言えなくなっていようとも。
皆一様に恐怖と苦悶に満ちた表情を貼り付けて絶命している様は、何度見ても見慣れる事などない。
その中でも一番幼い少年の目は、あらん限り見開かれ、ただただ虚ろに百瀬と冨岡の姿を写し、血の気のない白い頬には、未だ乾ききらぬ涙の筋が張り付いている。
この少年は、幼いながらも、本来ならば一生知り得る事の無かったであろう痛みや恐怖をいっぺんに経験して死んでいったのか。
そう思うと、言葉にならない深い悲しみが、心の奥底から這い上がってくるようだった。
重苦しい雰囲気が立ちこめる中、不意に冨岡が口をきいた。
「───ここは、お前に任せる。」
何かあれば鴉を飛ばす。
その時はすぐに合流しろ。
必要な事だけを一方的に述べ、身を翻した彼を目で追い、背中に向かって『お気をつけて、』と返せば、瞬く間に姿が消える。
…恐らく、家の近くにあった外向きの足跡を見て、生存者か鬼がまだ近くにいると踏んだのだろう。
彼の気配が遠ざかっていくのを感じながら、彼女は再度たくさんの亡骸と対面し、手を合わせる。
「…私には大したことは出来ませんが、懇ろに葬らせて頂きます。」
家の中の全員に向かって声をかけ、彼女は一人母屋の中へ入り、中へ立て掛けてあった鍬を拝借して家の近くに穴を掘った。
穴の数は、全部で5つ。
雪を除けながら掘ったので、大分時間がかかってしまったが、これなら日が暮れるまでには埋葬が終わるだろう。
…額に浮いた汗を拭き、一息ついた時。
重苦しい鉛色を裂くようにして、黒い鳥がこちらへ飛んでくるのが見えた。
───冨岡の鎹鴉だ。
様子からして、別段急ぎの用件がある訳でもなさそうだが、何だか疲れているように見えるのは気のせいか。
腕を上に向けて待っていると、すいとそこへ降りてきたので、何事かと用件を聞く。
すると、ただ『冨岡ガ呼ンデイル。』とだけ答えたので、溜息交じりに鴉を肩に乗せてやる。
ご遺体をこのままにしていくのは気が引けたが、呼ばれたら来い、と言い置かれているのに、知らん振りは出来ない。
「また後で、必ず戻ってきますから。」
どうかお待ちを。
仕方なくそう謝って家の方に頭を下げ、彼女は鴉を肩に乗せたまま冨岡の元へ急いだ。
鴉の案内に従い、山を下り、急な道を往く事しばし。
木々の間から冨岡の姿が見えた途端、鴉が肩から離れる。
構わず、彼のいる場所を目がけて進むと、そこから数歩の所。
雪上に、少年と。
それに覆い被さるようにして倒れている少女の姿があった。
双方の顔は、先程の家で亡くなっていた女性や子ども達とどこか似たところがあり、どうやらあの一家の中の生存者と見て良いようだ。
しかし、生き延びた者がいた、と喜んだのも束の間。
冨岡の隣に立つほど近くに寄った瞬間、百瀬は、冨岡の近くに倒れ伏している少年が人間であり、少女の方が人外の生物…即ち、鬼と化している事に気が付く。
おまけに、その二人のうち片方が絶命している訳ではなく、どちらもただ気を失っているだけ、と来たものだから、ますます分からない。
…一人の人間が鬼になっているのだから、そこに至るまでにとても複雑で理不尽な経緯があったのは想像出来る。
鬼になった少女の方からは、人を食った鬼のような嫌な匂いがしないから、まだ人間の血肉は口にしていない事も分かったし、今回一家を襲った鬼は他にいるのだろうという考えにも至る。
しかし───しかしだ。
自分達が、この地へわざわざ息せき切って足を運んだのは『そこにいる鬼を倒す。』という明確な目的があったからだ。
元は家族であろうが、まだ人を食う前であろうが───鬼と化してしまえば話は別だ。
鬼に情けをかけて生かせば、新たな被害者が増える。
本来ならば、問答無用で鬼の首を刎ね、被害を最小限に止めるのが隊士としての責務なはず。
にも関わらず、その鬼を屠らず、普通の人間の近くに置いておくとは、どういう了見なのか。
言葉にこそしないが、表情がすっと消えていくのが自分でも分かる。
───冨岡義勇が何を考えてこんな奇行に及んだのか、理解しかねた。
…そのため、彼が何かを言うまで辛抱強く待ち。
いつもの如く、やはり突然に飛んできた言葉を受け止め、正しく答えを返せば、今度は思いもよらないような言葉が飛んできて───。
こうして、話は冒頭に戻るわけである。
相変わらず、冨岡と百瀬の間には重苦しい沈黙があり、風は冷たいままであるし、雪は一層酷くなるばかりだ。
「…水柱殿。」
遂に、こちらから冨岡に対して呼びかけると、彼は相変わらず凪いだ瞳のままこちらを凝視する。
これは『その呼び方はやめろ、』と目線で訴えている時のものだ。
冨岡とは、他の隊士よりも少しだけ付き合いが長いためか、そこに確かな言葉はなくとも、どんなに無表情な状態であっても。
百瀬は、彼が何を考えているのか、何を言いたいのかを大体察する事が出来るような気がしていたが、今知りたいのはそんな事ではなかった。
『重要な事を読み取れないなんて…私は、まだまだ未熟なのだ。』
人知れず自信をなくしている最中も、冨岡は相変わらずこちらを凝視したままだ。
やはり『その呼び方はやめろ、』という事以外は何を考えているのか分からない…吸い込まれそうな暗い瞳と視線を合わせ続けるのに耐えかね、彼女はそっと目を伏せる。
「───何故、目を逸らす?」
「…申し訳ございません。その…そろそろ、私の方に穴が空きそうだったもので、」
咄嗟に誤魔化すと『そうか、』と返ってくる。
「それで…冨岡殿。さっき仰った事について、なのですが。」
気を取り直していつもの呼び方をすれば、雪上の少年少女を眺めていた瞳が『何だ、』と言いたげにこちらへ向けられる。
「先程仰った事なのですが…本当に、そうなさるおつもりなのですか?」
「───ああ。」
「…何故です?過去、何度も同じ事がありましたが。鬼に情けをかけて生かして、良かった事など一度もなかったでしょう。」
そう問えば、彼は首を縦に振った。
「勿論、そうだが───今倒れ伏している兄の方は、俺に勝てない事を分かった上で妹を守ろうとしていたし、鬼になった妹の方は、傍に倒れ伏した兄の血肉を食らう事も無く、兄を俺から守ろうとしていた…こいつらは、何か違う。そう思ったから、この度は少し手を貸してやろうと思っただけだ。」
彼に説明を受けて、ようやくこの二人が兄妹である事が分かったが。
普段は寡黙であるのに珍しく沢山話す冨岡に気圧され、黙っていると、彼はまた話し始める。
「…それに、兄の方が『妹を人間に戻す方法を探したい、』と言っていた。」
「………鬼が人に戻る、ですか。」
途方もない話に、意図せず溜息が出る。
「…冨岡殿は、その夢のような話を信じたのですか?」
「信じたわけじゃない。あくまで、あるかもしれない、というだけだ。」
「…では、仮に彼等を助けるとして。一体、どうやってその方法を見つけるおつもりで?何か具体的な宛はあるんでしょうか?」
「鬼殺隊に入れれば良いだろう。」
「『入れれば良いだろう。』って、そんな簡単に……入るにしたって、彼に素質があるかどうかは別問題ですし……。」
「…………。」
それきり、彼は元のように黙する。
彼の言い分も、何故この兄妹を助けようと思い至ったのかも、どうにか分かった。
…分かりはしたが、一番の問題点は、この場で兄妹を助け、見逃した後の事の方にある。
年若いとはいえ、柱として認められて今の位に居るのだから、他でもない彼の判断力を疑っているわけではない。
けれど、人間誰しも気の迷いというものはある。
柱になって日の浅い彼は、柱が隊律違反を犯す事がどれ程の重罪なのか、本当に分かっているんだろうか。
それを確かめるため、百瀬は尚も食い下がる。
「───冨岡殿、根本的な事を言わせて頂きますが『柱が鬼を助けて見逃す、』など、本来あってはならない事です。」
「そうだな。」
やけにあっさり返された答えに怯みかけるが、何とか踏みとどまり、彼女は懸命に訴えかける。
「いえ…『そうだな』ではなくてですね…これは重大な隊律違反事項となっておりまして、」
「…そうだ。」
「後々この事態が公になれば、私もあなたも柱合会議で裁判にかけられるのは、まず免れません。」
「…なら、そうならないよう、上手い具合に話をしておけば良いだろう。」
「上手く話した所で、お館様は、良くも悪くも私達が隊律違反を犯した事を正しく理解されると思いますし、今回は分が悪すぎます…それ以前に、この兄妹の先行きに万が一があった場合、どう責任を取るおつもりですか?」
「その時はその時だ。いざとなれば、俺が一人で帳尻を合わせる。」
『お前は何も心配しなくて良い。』
冨岡に完全に言い切られ、今度こそ万策が尽きてしまった。
そして。
ここまでかなり頑張って議論はしてみたが、彼の固い意志を変える事は出来ない、という事も察した。
もしや、昨日来た書状に書いてあった『もしもの時』というのは、こんな状況を危惧しての事だったのかもしれない。
もしもの時の事を一方的に頼まれたのはいいが、最早彼女には、冨岡義勇を止める術は残されていない。
ある知り合いの言葉を借りて言い表すのなら、よもやよもや、だ。
苦し紛れに冨岡の方を見やると、顔は無表情ながら、その目は雄弁に物を語る。
『駄目か?』
…やはり、直接的な言葉はない。けれど、静かに目線で訴えかけられては、もう従う他ない。
「…百瀬。」
追い打ちをかけるように名前を呼ばれ、また一つ溜息が出る。
今度こそ観念して、彼女は白旗を上げた。
「───分かりました。あなたの話を聞いた限り、この二人は他とは違う部分が多々あるようです。何より、冨岡殿がそこまでの覚悟を持った上でこの兄妹を助けたいと仰るのであれば、私も今回は目を瞑りますし、共に腹を括ります。」
一息にそう言えば、彼は珍しく目を見開き、こちらを見つめる。
「…でも、本当に今回だけですよ?お願いですから、無茶はこれきりで勘弁して下さいね。」
念押しすれば、冨岡は目を伏せ。
かと思えば、こちらへ向かって深々と頭を下げた。
「…すまない。感謝する。」
今は自分より低い位置にある彼の頭を眺め、彼女は何やらざわつく胸の内をどうにか宥めすかし、落ち着かせようと試みる。
もし、ここに居合わせたのが私ではなく、風柱殿や鳴柱殿であったなら、こんな展開になる事は果たしてあり得ただろうか。
他の一般隊士が同行していたとしたら?
彼が、一人きりだったとしたら…。
もしかしたらあり得たかもしれない無数の『もしも』が一挙に押し寄せるが、彼女はふと思考するのを辞めた。
───きっとこれは、なるべくしてなった事だ。
意図せず結ばれてしまった今までの因果が、重なり合い、絡み合いを繰り返し、結果、今の状態を引き起こすに至ったのだ。
即ち、これは仕方のない事。
何をどうしようと、回避不可能な事柄だったのだ。
そう思えば、胸のつかえが溶け落ち、ざわつく心が収まっていく。
───こうして、百瀬と冨岡は、互いに隊律違反を承知で鬼を助けた共犯者となったのだった。
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