桃と鬼 | ナノ
 閑話:桃と砂

その事実に気が付いたのは、自身の実父に桃の木の枝を口から突っ込まれ、訳も分からぬまま『今後一切、鬼には負けない。勝ち続ける、』という言葉を復唱させられてからしばしの事。

いつもと変わらぬ、母と父と弟達との夕餉の席で、百瀬は唐突に気が付く。


近頃、料理の…というか、自分が口にする食べ物の味が、妙に薄く感じられて仕方がない。

最近、塩の値段が上がったので、節約のために母が薄味の料理を作っているのだろう。
先日貰った林檎は、まだ旬では無かったので、味がしなかったのだろう。


こんな具合に何やかやと理由をつけて誤魔化し、見て見ぬ振りを続けてきたが。


「……………。」


味噌汁を啜りつつ、彼女は顔を顰める。
これは味噌汁なのだから、味噌の香りはするし、温かいという事も分かる。

けれども、肝心の味だけが妙に遠くにあって…即ち、殆ど味がしないのだ。


───しかし、夕餉の席にいた家族にはその事実を告げもせず、百瀬は一人『ああ、私は舌が馬鹿になってしまったんだ。』と、味覚が鈍くなった事を大層残念に思った。


…正直、桃の木に『鬼に負けない』と無理矢理に誓わされたあの日から、どうも自分の体はおかしくなったような気がする。

数日前までは一つ持ち上げるだけでも大変に苦労していた米俵を、今では背中に五つ括りつけて楽々と運べるようになったり、妙に勘が良くなって、屋根の上から瓦が落ちてくるのを直感的に感じ取り、あわや脳天に直撃かという瞬間にそれを避けたり。

兎にも角にも、まあ。
常人には到底出来ないであろう事が出来るようになったと自覚する度、自分が自分で無くなってしまったような不思議な感覚に苛まれるのだった。


もしや、唐突な怪力や勘の良さを手に入れてしまったが為に、味覚が鈍くなってしまったのだろうか?


…だとしたら。
怪力も勘の良さもいらないので、味覚を返しては貰えないだろうか?

匂いや、熱い冷たいは分かっても、味だけが分からないというのはどうにも切ない。
元々味覚を持ち得ていた者が、ある日突然味覚を失うというのは、あんまりだ。


…思ったところで、味覚が戻る訳もなく。
彼女は文句を言う事も無く、今日も料理を残さず平らげた。

彼女からしてみれば、味のない食べ物を口にし続ける事は、口に道端の砂を入れてひたすら飲み込むような作業と大差なかったが。

味がしないとはいえ、何かを口に入れなければ死んでしまうのはよく分かっていたし、誰かが自分の為にと作ってくれた料理を食べないのは、作り手に対して失礼だ。


『味覚が鈍った、』と。
はっきり自覚し始めた頃から、百瀬は出された食べ物を残す事はなくなり。

とりあえず、出された食べ物は全て胃に収め。
遙か遠くに感じる微かな味を頼りに、作り手へ感想を述べたりしていた。


───そうして、味覚が鈍いまま十代の頃を過ごし。

二十歳を超えた頃からは、余程塩辛い物や甘い物でないと味を感じぬ程に、百瀬の味覚は更に鈍っていく事となる。


しかしながら、唯一。
今も昔も、桃の実の味だけは、何故かはっきりと分かるのであった。


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