▼ 11:鉄心石腸
不死川は、箱の表面に血を染みこませるかのように腕の血を垂らし続け『今か今か…、』というような具合で、禰豆子が血の匂いに誘われて外へ出て来るのを待っていたが。
生憎と、今は夕暮れ時ではない。
燦々と日の照る中、体が焼けると知っていながら、あえて外を出歩く鬼が居ないように。
禰豆子は箱の中に入ったまま、うんともすんとも言わない。
その時。
今まで黙って見ていた伊黒が徐に声を発し、彼に助言をする。
「不死川…日向では駄目だ。日陰に行かねば、鬼は出て来ない。」
彼は一度、ちらと伊黒を見やり…それもそうか、と納得したのか、箱につけられた紐を雑に握る。
「お館様…失礼、つかまつる。」
申し訳程度に言葉を発し。
次の瞬間。
不死川は箱を片手に、日の当たらぬ奥の座敷へ───つまりは、お館様の背後の座敷へ土足のままひとっ飛びし、変えたばかりと思しき青々とした畳の上へ、ぽい、と箱を転がした。
「(あぁ……不死川殿…っ!)」
『柱であるとはいえ、お館様がいらっしゃる前で、何という粗暴な真似を───。』
そう思っているのはどうも百瀬だけではないようで。
彼女と然程離れていない場所に居た胡蝶は、座敷の方をキッと睨み。
端の方へ座っている甘露寺は、眉根を下げ『まさか、お館様の目の前で血生臭い物を見せるつもりじゃないわよね…?』と言わんばかりの表情を浮かべている。
同性の柱達から視線を逸らし、再び座敷の方へ目をやろうとする途中。
冨岡がこちらを向いているのに気が付き、彼女は先にそちらを盗み見る。
丁度、それに被るようにして。
「………禰豆子っ!!!」
僅かながらではあるが、顔に衝撃を感じる程の大声に驚いたのも束の間。
妹が連れて行かれた座敷へ向かわんとした炭治郎の動きをいち早く察知した伊黒が、彼の背中へのし掛かるように肘をついて抑え。
局所的にでは在るけれど、肺を圧迫する程の凄まじい力をかけながら、彼を元のように白い砂利の上へ縫い付ける。
「………!」
あんなにされては、大変に苦しいだろうに…。
『流石に、強く押さえすぎではありませんか…?』
そう伊黒へ声をかけようとした時、やはり冨岡がこちらを向いて。
あくまで他の柱の視界に入らないように、という事なのか。
彼自身の膝の辺りで片手を動かし、こちらへ何か伝えようとしているのが見えたため、百瀬は一旦口を閉じ、彼が何を言いたいのかを見極める事に神経を裂く。
始めは、こちらへ手の平をそのまま見せ。
次に、丸を作るように指を全て曲げ、そのまま上へ……。
「(はて………。)」
この形自体は、何の言葉を表すのだったか。
指文字を読み取るのはあまり得意ではないので、少々判断に苦しみはしたが。
「(『て』『を』『た』…いや。『だ』だ。次が『す』と『な』で………。)」
───つまり、こうか。
『手を出すな、絶対に。』
それをどうにか読み取り、拙い指文字を返そうとするも。
彼は同じ指文字をひたすら繰り返してくるだけだったので、頷く他に選択肢はないのだと悟り、百瀬は軽く首を縦に振る。
二人だけの静かな問答が終わった頃。
推し量ったかのように不死川が刀を抜き、畳へ転がされた箱へ何度も何度も日輪刀の切っ先を刺し始めたのを目の当たりにし、百瀬は思い切り顔を顰めた。
これでは、先程とまるきり同じではないか…。
いくら相手が鬼であろうとも、夜闇の中で襲ってきたから…と斬り捨てるのと、日中の抵抗できない内に、拷問めいた行為で痛めつけるのとでは、討伐にしても意味合いが違ってくる。
不死川が鬼殺隊に入った経緯は、彼自身から直接聞いた事があるので、彼がどれだけ鬼を憎んでいるのか。
鬼をどれだけ滅したいと思っているのかは、痛い程理解しているつもりだ。
…しかし。
心を砕いたり、理解する事は出来るけれど、それにまるっと共感できるか…と問われると、また難しいものだ。
それというのも、彼女自身は身内を鬼にされたわけでもなければ、鬼に喰われた者がいるわけではない。
鬼殺隊に入らなければならなかった訳や、本当の目的だとか…込み入った話をするとなると大分面倒なので、それらを割愛するとしても。
ごく簡単に、彼女が隊士になった理由を述べるなら『自身の父親が、昔鬼殺の隊士をしていたから』に他ならない。
───どんなに期待されたとて、それ以上の理由も、それ以下の理由も出てくる事はないのだ。
「(それにしたって、)」
百瀬は、険しい表情のまま座敷を見やり、唇を噛む。
畳へ乱雑に転がされた箱の扉部分は、幾度も刀で刺され、僅かに穴が開き始めている。
…暗い穴から、僅かな唸り声が聞こえ。
それに比例するように、不死川の刀が彼の物ではない血で鈍く染まっていく。
冨岡は『絶対に手を出すな』と伝えてきたが、それも酷なものだ。
───時には、動くよりも止まっている事の方が難しい事もあるのだから。
不死川が一段と深く刀を差し込み、再度『早く出て来い、』という旨の言葉を叫び。
勢いもそのまま、空中へ箱の扉を放り投げると、暗い中で蹲っていた禰豆子が、ゆらりと立ち上がる。
…言わずもがな。
彼女の頬や胸元の辺りには、不死川の日輪刀による無数の刺し傷がついていたが。
瞬き一つする間に、体中についた傷は跡形もなく塞がり、肌や着物には血の染みだけが残される。
そうして、ゆっくり。
本当に、彼女の周囲だけは時間の流れが違うのではなかろうかと思うくらいにはゆっくりと顔を上げ。
鬼としての本能なのか。
瞳孔が猫の物のように細い目はあらん限り見開かれ、未だ血の流れ続ける不死川の腕を息も荒く凝視し。
きつく噛まれた竹の口枷と彼女の唇との間に出来た僅かな隙間からは滝のような涎が滴り、白く丸い額からは汗が止めどなく流れて───しかしながら、彼女はやはり不死川に手を出すことはない。
禰豆子はただ、自身の内にある純粋な食欲を幾度も捻じ伏せ、血の滴る彼の腕を眺めているだけだ。
不死川は依然として不敵に笑い、戯れに自身の腕を彼女の方へ近づけるも、やはり彼女は涎は垂らしこそすれ、不死川の腕にしゃぶりつくような素振りはない。
禰豆子の一連の行動を目にし、百瀬は密かにこんな事を思い出した。
「(これまでの事を思えば、禰豆子殿が不死川殿に手を出すのはまずありえない……ならば。)」
未だに涎を垂らし、額に汗を浮かべたまま物凄い形相で血に見入ってはいるが、ここで彼女が不死川の血を拒めば『禰豆子は人に害を成さない』という事が証明できる。
しかしながら…万が一。
本当に万が一、何かの拍子に彼女が血の匂いに負けて不死川へ襲いかかりでもしたら、彼女の首はすぐさま胴体と泣き別れる事となってしまうし、鱗滝先生と冨岡…それから炭治郎の切腹が決まってしまうのだ。
風柱の突飛な行動によって生じた運命的な二択にぞっとしながらも、百瀬は更に自問する。
禰豆子が食欲を我慢し、血を拒めるか否か───今の竃門兄妹の命運は、全てこれにかかっているが、自分は彼等に長く関わってきた身だ。
冨岡の言いつけ通り、一隊士としてこのまま傍観に徹するのは、果たして正しいのだろうか。
勿論、隊士としては正しい行動であるけれど、道徳的にはどうなのか…。
迷いに迷った挙げ句。
百瀬は、ちらりと庭を囲む壁の一角を眺める。
そこには、鎹鴉…ではなく、普通の烏が一羽止まり、毛繕いをしながら緩慢にこちらを眺め下ろしている。
「(…………カラス。そう、烏か。)」
烏から一度視線を逸らすと、伊黒によって、先程より更に強く地面に押さえつけられ、尚も呼吸を使おうとしている炭治郎の姿が目に留まり、彼女はいよいよ腹を据える。
…冨岡の命令は、余程の事がない限り破った事はないし、いつも割と無茶をさせられているのだから、今日くらいは自分のしたいことをしたって罰は当たるまい。
そう自分に言い聞かせ、彼女はもう一度塀の方を見やって、さてどう言ったものかと頭を巡らせる。
───これで少しでも伊黒の気が逸れれば、炭治郎は禰豆子の近くへ行く事が出来る。
…即ち、禰豆子がこの状況下で兄の姿を目にすれば、何かしらの刺激になるだろうし、生きている肉親の姿を見れば、血を拒む気力も沸くのではないか。
あくまで憶測と希望の域を出ない考えではあるが、今自分に出来るのは、これくらいしかない。
だから、白々しくも。
彼女は伊黒に向かって急に大声で叫ぶ。
「───蛇柱殿、大変です…烏が!!!」
「…………は?」
叫んだ途端に、塀に止まっていた烏は黒い羽を羽ばたかせ、気紛れにどこかへ飛び去ってしまう。
一方、突如投げられた訳の分からない一言に気を取られ、案の定彼は『何のことだ、』と問いたげに声を上げる。
しかし、その白々しい叫びも伊黒を僅かに脱力させるのには充分であったようだ。
炭治郎は、その隙にありったけの力で縄を千切り、咳をしながらも縁側へと走って。
近くに来た兄の姿を、横目で確かに認めた禰豆子は、その大きな瞳を固く閉じたかと思えば、プイ……と勢い良くそっぽを向く。
その途端、不死川は固まり、呆けた顔をして見せた。
辺りには、また水を打ったような静けさが訪れた。
***
禰豆子は今、誰の目から見ても明らかに。
それも、自身の意思で血を拒んだのだ。
「(よかった………!!!)」
言葉には出さず。
けれど、これまでになく痛快な気分を味わい、百瀬はお館様の方を見やる。
「どうしたのかな?」
お館様からの問いに、傍にいた娘の片方が淡々と答える。
「鬼の女の子は、そっぽを向きました───不死川様に三度刺されていましたが、目の前に血濡れの腕を突き出されても我慢して、噛まなかったです。」
的確で嘘偽りのないその言葉を聞き、頷いて。
お館様は再び朗らかに話し始める。
「…ではこれで、禰豆子が人を襲わない事の証明が出来たね。」
その言葉に、不死川は顔色を曇らせ。
反対に、炭治郎はぱっと顔を明るくした。
どうにか事態が好転した事を喜ぶ合間、不意に伊黒の声が耳に入る。
「さっきのは何のつもりだ?…百瀬、」
色の違う両の目でしっかりとこちらを向き、明らかに不機嫌そうな声音でそう言う伊黒にヒヤリとするも、ここはシラを切り通すしかなかろう。
「申し訳ありません、お屋敷の塀に止まっていた鴉がいましたので。てっきり蛇柱殿の鎹鴉が急ぎの文でも運んできたものかと思って、つい焦って声を上げてしまったのですが…違いましたね、」
『兎にも角にも、いきなり大きな声を出してしまった事、お詫び申し上げます…。』
そう言って彼へ深々と頭を下げると『…わざとらしい、』という御小言と共に盛大な舌打ちを貰い、少々凹んだが、落ち込んだところで先程の一件が帳消しになるわけでもなし。
とりあえず、後でまた謝っておくかと思い直している内にも、お館様と炭治郎の間で話が進んでいたようで。
まずは十二鬼月を倒すように、とお館が話した直ぐ後。
炭治郎は必死の形相で『鬼舞辻無惨を倒す』という旨を語り。
お館様から『今の炭治郎には出来ないから、まず十二鬼月を一人倒そうね。』と諫められたところで、初めて笑いが起こる。
…ざっと見、時透と冨岡以外は、皆笑っていたようだが。
「(…良かった、本当に。)」
百瀬としては、目下の心配事であった柱合裁判がどうにか終わらんとしている事が、何より嬉しい。
裁判のお陰で、各々に要らぬ因縁が出来たのには閉口したが───実質、これで炭治郎は堂々と禰豆子を連れ歩きつつも、妹と共に鬼殺の仕事をこなす事が出来るようになったのだ。
禰豆子の存在がお館様から容認されているという事実が明るみに出たがために、更に風当たりが強くなるかもしれないが…竃門兄妹の事だ。
彼等なら難なくそれを超えていけるのだろうな…と思うと、その活力が羨ましくなる。
───私はあと何度、彼等と共に任務をこなす事が出来るのだろうか。
炭治郎達の先行きとは対照的な自身の未来へ底知れぬ不安を抱きながら、百瀬は誰にも知られる事無く溜息をついた。
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