▼ 04
すっかり日が昇った頃。
百瀬は、隠の男性から渡された新しい隊服を身に纏い、懐や荷物の奥底へしまい込んでばかりいた小さな日輪刀を腰に差して、ひたすら南南東の方角を目指して歩いていた。
浅草を出て早半日。
見渡す限り畑と山ばかりの長閑な田舎道を往くその最中、支給された隊服の隙間へ挟まれていた、お館様からの手紙の内容を思い起こしてみる。
『炭治郎が活躍している事や、禰豆子への暗示が上手く掛かっている事は分かったが、彼の本当の実力がどんな物かは図りかねる。』
『次の南南東方面にある任務地にて、炭治郎との共同任務を行い、彼がどれ程戦えるのかを見極め、伝えてほしい。』
『…尚、戦闘への介入は最小限に止める事と、顔や声を知られぬようにする事を徹底して欲しい。それから、この任務が終わったら、一度本部へ戻るように───。』
原文は、もう少し形式張った感じであったけれど。
お館様の口調に直して読み下すと、本当にお館様自身が話しているような感じがして…自然と気分が落ち着いてくるから不思議だ。
時刻は丁度昼過ぎ。
指定された時間ぴったりに、大きな銀杏の木の下に辿り着き、ひとまず息をつく。
そうして。
休憩がてら、その木陰に座り、無遠慮にも幹に背を預け…彼女は、腰にぶら下げたままだった兎の面を外して、自身の顔へ括りつけた。
縁日で見かけるような白を基調とした土台に、鮮やかな赤で、目元や口元へ独特な模様が描き込まれたそれは、言わずもがな支給品の一つである。
付け心地はそこそこであるが、如何せん取り付けられた紐がかなり長く。
…余程きつく結ばなければ、少し激しく動いただけで簡単に面が外れてしまうだろう事が予測出来たので、彼女は無言のまま紐を二重に結び、その上から更に固結びをして軽く頭を振ってみる。
「(…これで大丈夫。)」
面が顔から浮いたり、取れそうにならない事を確認するが早いか、彼女は日輪刀へ特別に付けて貰っている小柄を抜き取り、余った紐をプツリと切る。
そうして、眼前へ持ってきた紐を見て、思わず吹き出しそうになった。
軽く両腕を縛れるくらいの長さの紐が、二対。
本当に、どれだけ長かったのだろうと考えると、また笑いそうになるが───ふと唐突に思いついた事があり、彼女は隊服の胸ポケットを探って、藤の花の匂いがする香り袋を二つ取り出した。
これまで、炭治郎を追い掛けている事を匂いで悟られないよう、香り袋を身に付けて任務に当たってきた訳だが。
今日は自分自身も『至近距離で彼と共同任務を行う、』という事で、香り袋を二つ持ってみたのだ。
「これを、こうして…と。」
先程切った紐を香り袋の口へ結んでやり、片方は腰から下げるようにベルトへ括りつけ。
もう片方は、詰め襟の隊服とブラウスを寛げ、さらしの間に挟むようにして身に付ける。
…これで、より誤魔化しが効くのではないかと期待して、いそいそとブラウスのボタンを閉め、隊服を整えていると、不意に目の前へ影が差す。
驚く事もなく、面をつけた顔を上げると。
そこには、今までずっと彼女が追って活躍を見守ってきた件の少年…竃門炭治郎が、赤い瞳でじっとこちらを眺め下ろしていた。
「───あの。あなたが、今回の共同任務で一緒に討伐へ行ってくれる隊士の人…ですよね?」
立ち上がり、土埃を払って頷けば、彼の表情は瞬く間に明るくなる。
「俺『竃門炭治郎』と言います!階級は癸…最近鬼殺隊に入ったばかりで、何かと至らない所があるかもしれませんが、一生懸命頑張ります!」
よろしくお願いします!
元気良く名前と階級を述べ、腰の位置まで頭を下げて挨拶までしてくれた彼を見て、面の下で微かに笑みが漏れる。
それに応えるべく、百瀬は腰のベルトに括りつけていた帳面を取り、中に挟んでいた鉛筆で文字を書き連ね。
自分の下の名前ではなく、あえて苗字のみを書き付けて、炭治郎へ差し出す。
『私は東と申します。この度、あなたと共同で任務を行う事となりました。竃門殿、どうかよろしくお願い申し上げます。』
炭治郎が読み終えたか、という所で頭を下げると、彼も律儀に一礼し『こちらこそ、よろしくお願いします!』と言って人好きのする笑みを浮かべたかと思えば。
…直後、不思議そうな顔をしつつ『俺の勘違いだったら申し訳ないんですが。』と前置きして。
「………東さん、前に俺と会った事はありませんか?」
赤い瞳を真っ直ぐに向けて問うてきたもので、彼女は一瞬のうち、体中に冷や汗をかいた。
…しかし、ここで動揺でもして疑われたり、事実を認めでもしてしまえば、それこそこれまでの苦労が水の泡だ。
どうにか平常心を保ちつつ鉛筆を滑らせ、書き付けた文字を彼に見せると、彼女は素知らぬ振りを通す。
『私と竃門殿は初対面ですが…どうしてそんな事を?』
「やっぱり、そうですよね…?俺、鼻が効くので…一瞬だけ、あなたからとても良い香り…桃の匂いがしたんです。それが、昔俺に親切にしてくれた隊士の人に、とてもよく似ていて。もしかしたら、あなたがその人かもしれない…と思ってしまって。」
「……………。」
「俺の気のせいですよね。初対面の人に変な事を聞いてしまって…すみませんでした。」
あの雪の日は、確かに百瀬と同じくらいの背丈であったのに。
今や随分大きくなった彼は、彼女よりも高い場所から、困ったように笑ってこちらを見下ろしていた。
***
「…じゃあ、東さんは長女なんですね!俺も長男なので、気持が分かります。」
『下に兄弟が居ると、子どものうちは何かと大変ですものね…。』
こんなふうに、炭治郎と世間話をしながら、任務地へ続く道を歩いていた時だった。
「俺はもうすぐ死ぬんだ…つまり今日限りの命ってやつなんだよおぉお!という事で、頼む、頼むよ…俺と結婚してくれよおぉおぉおぉお!?!?」
こんな具合に『結婚』『死ぬ』『頼む』の三つの言葉をひたすら繰り返す男性の物らしき声が前方から聞こえてきて、何事かと足を止め。
互いに顔を見合わせていると、ぱしん…と何かを思い切り平手で叩くような音がした。
それが、二度、三度と続き。
一度途切れた後、ついには拳で何かを殴りつけるような鈍い音が聞こえだしたので、慌てて音のする方へ駆け出す。
「喧嘩、ですかね?」
「………。」
彼から投げ掛けられた言葉に無言で頷いた時、不意に音が止み───程なくして。
前方から、長い黒髪を三つ編みにした少女が、足早にこちらへ歩いてくるのが見えた。
言わずもがな、彼女が前方での揉め事に関わりがあるのは何となしに察しがついたが。
…彼女との距離が近付けば近付くほどよく見える、般若のような形相を目にしてしまえば、彼女を引き留めて何があったか聞こうなぞという気はどこかへ逃げ出していってしまう。
それは炭治郎も同じであるらしく、二人はまるで申し合わせたかのように件の彼女と目を合わせぬよう俯き加減に擦れ違って、どうにかその場をやり過ごす。
そうして、彼女の姿が完全に見えなくなる地点まで歩いた所で、炭治郎は何か気になる物を見つけたのか、急に走り出した。
何事かと聞く間もなく、市松模様の羽織をはためかせ、遙か前方へ駆けていく彼の背中を追い。
つられるようにして駆けだした先には、道の端に誰かが羽織を被って蹲り、小さくなっているのが見える。
先にそちらへついた炭治郎が、蹲っている者へ何事か話しかけると、膝へ埋められていた顔がゆっくりと上げられて。
緩慢な仕草に合わせて地面へ滑り落ちた羽織の下から、頬に平手の跡を赤々とつけ───黒い詰め襟の隊服を着た蜂蜜色の髪の少年が現れたのを見て、百瀬は首を傾げた。
「(外国人の、隊士…?)」
少年の容貌から、自然とそんな考えが出て来るが、炭治郎との会話の中から聞こえてくるのは外国語ではなく、特にどこの訛りも入っていない綺麗な日本の言葉で、彼女はまた首を傾げる。
…それはそうと、先程『結婚してくれよおぉおぉおぉ!!』なぞと声高に叫んでいたのは、この少年だったのだろうか。
年の頃は、炭治郎と大体同じくらいのようだが、なぜ彼はそこまで結婚に拘るような発言をしていたのだろう?
そんな事を考えながら、彼等と合流するべく近くに寄っていくと、蜂蜜色の髪の少年がこちらに気付く。
それと同時に、彼はこぼれ落ちそうなほど大きな瞳を見開き。
すくっと立ち上がったかと思いきや、無言でこっちへ寄ってくると、そのまま百瀬をまじまじと見下ろす。
「(…何だろう、)」
この面が珍しいのだろうか?
面に開けられた二つの覗き穴から、髪よりやや暗い蜂蜜色の瞳を見返し続ける事しばし───真顔に近かった少年の顔は、次第にへにゃりと柔くなり、くすんだ蜂蜜色が蕩けるように熱を帯びて。
どうして良いか分からず目を逸らしたその途端、彼女の手を、いきなりゴツゴツした固い何かが覆い、ぎゅう…と握りしめたので、百瀬はびく、と体を震わせる。
恐る恐る視線を下へ向けると、目の前の少年が、その厚い皮に覆われた自らの掌で、こちらの両の手を握りしめているのだった。
「(…………?)」
意図の掴めぬ唐突な行動に驚き、面の下の顔を思い切り引き攣らせながら彼の方を見るも。
依然として緩く笑みを湛えるその顔は、ほんの少し赤らんでいて、別段こちらに敵意を持っているわけではないという事が分かるだけである。
両の手を握られているため、帳面に文字を書き付ける事も出来ず。
困りに困ってしばらく固まっていると、少年は一呼吸置いて。
「あの…俺と、結婚しませんか?」
「!?」
『結婚』という言葉が、紛う事なくこちらへ向けられているのに気付いた途端、思わず体が固まってしまう。
しかし、少年は百瀬の返答を待たず、蕩けた瞳でこちらをしっかりと見据え、勝手に話を進めていく。
「いや、結婚しよう。絶対…うん、今すぐ!!!そうとなったら、さっそく最寄りの神社を探して、それからじいちゃんにも話をして…。」
「(ちょ、ちょっと…!)」
待ってくれ、何でそうなる。
暴走しだした少年を止めるべく、彼女は慌てて首を横に振り、掴まれたままの手を振りほどこうとするが。
「あ、逃げようとしてる!?ダメだよ、ダメダメ…ダメだから。君は俺と、絶対に結婚すんだからね!?」
…こんな具合に、早口でまくし立てながら必死の形相で手を握ってくるものだから、もう焦るどころではない。
再度首を振り、意思表示をしてみせたその時。
近くで彼とのやり取りを見ていた炭治郎が、顔をしかめつつ、少年と百瀬の間に割って入ってくる。
「こら、善逸!!東さんを困らせちゃ駄目だろ…東さんは、俺達よりもずっと階級が上で、鬼殺の経験もある隊士の方だし、今回の任務に同…。」
炭治郎がそう言い終わらぬ内。
善逸と呼ばれた少年は、物凄い形相で炭治郎を睨み付け、涙を流しながらこんな事を言い出す。
「だまらっしゃい!!そんならなおさら、この人…いや、東さん?には、俺のお嫁さんになってもらわなきゃ困るの!!俺は東さんに守って貰う!!それから、俺のお嫁さんになってもらうんだ!!!」
「「…………。」」
「あーっ!?何だよ、何で二人で黙るんだよ…!?それ一番嫌だあぁ…!!!」
一人で大騒ぎをし、百瀬に縋り付いて『結婚してくれ、』『後生だから…!!』と泣き喚く善逸を何とも言えない表情で眺め、炭治郎と二人で立ち尽くしていると、何処からともなく。
胸元に白い毛の混じった鴉が飛んできて、彼女達の頭上を旋回し『伝令!!伝令!!』と、けたたましく鳴く。
「ソコナル鬼殺ノ隊士三名。急ギ、南南東ヘ位置スル屋敷へ急ゲ。繰リ返ス…急ギ、任務地へ赴キ、即刻鬼ノ首ヲ刎ネルベシ…鬼ト名ノツク存在ヲ許スナ、全テ滅殺セヨ!!」
その言葉に頷き、炭治郎は目線で『行こう、』と訴えかけてくる。
彼女も、物は言わないがこくりと頷き、任務地へ向かおうとするが。
「………嫌ぁあぁあ!?無理、ダメ、死ぬうぅうぅ!?!?」
「「…………。」」
「…だから!!その!!二人で!!黙んの!!止めて!!…嫌だ、すっごい嫌だ!!なんなら実際当事者としてこういう事されてごらんなさいよおぉお…精神的にキッツいから!!泣いちゃうから!!いや、ほんとに!!」
自分の持てる語彙力を全て投下して練り上げたのであろう、長々とした文句を吐いた直後。
今度は鬼の討伐へ向かうのを全力で拒否しだした善逸を、どうにか二人で宥めすかし…三人で任務地へ赴く事となったのは、鴉からの伝令が届いてから大分後の事だった。
***
目的地と思しき屋敷へ辿り着き、程なくして。
炭治郎は『血の匂いがする、』と。
一方、善逸は青い顔で『気持ち悪い音がする、』と言い合って、そこはかとなく陰気な気配の漂う屋敷の入り口を遠巻きに眺めている。
百瀬自身は嗅覚が優れているわけでもないし、特別耳が良いわけでもない。
そのために、彼等がめいめいに言っているのに対して『そうなのか、』と頷く事くらいしか出来ないのだが。
…刹那。
背後の木の後ろに、僅かばかり気配を感じ。
百瀬が反射的に刀に手を添え、勢い良く振り返と、彼女の隣に居た二人もつられるようにして振り返り、息を殺して木を凝視していると。
太い幹の後ろから、明らかに一般人と思しき幼い少年少女が顔を覗かせ、酷く怯えた様子でこちらを眺める。
「(子ども…?)」
年端もいかぬような小さい子どもが、何故こんな危険な所へ…。
友達同士のようにも見えるが、どことなく顔が似ているから、兄妹なのだろう。
ややもすると、二人で家出でもしてきて。
遠くへ、遠くへ…と歩みを進めているうち、偶然ここに辿り着いてしまった、とか?
あくまで憶測の域を出ないが、相場はそんなところか。
そんな事を思いながら、怯えを貼り付けたままの幼い顔を面越しに見ていると、不意に炭治郎が百瀬の前に歩み出て。
「君達、こんな所で何してるんだ?」
声音も柔らかに話しかけたのだが、兄妹はびくりと肩を震わせて木の後ろに引っ込んでしまう。
『かなり怯えていて、こちらの話を聞いてくれる様子ではありませんね…。』
帳面に書き付けた文字を読み、確かにそうだ…と善逸が頷くが、炭治郎は何かを思い出したように表情を輝かせ。
「大丈夫です、俺に任せて下さい!!」
そう宣言したかと思えば、彼はすかさず木の後ろへ回り込み、今にも泣き出しそうな顔の兄妹に対して、優しく言葉をかける。
「よーし…じゃあ、兄ちゃんが良い物を見せてあげよう───じゃじゃーん、手乗り雀だ!!」
彼の言葉と共に、善逸のお付きである雀が炭治郎の手の平の上で翼を広げ、可愛らしく鳴きながら、ぴょこぴょこと飛び跳ね、幼い二人の目線は、しばしそちらへ釘付けになる。
「…どうだ?可愛いだろう?」
依然として笑顔を崩さぬまま炭治郎がそう問えば、今まで余程気を張っていたのだろうか。
兄妹は、固く抱き合ったまま、へなへな…と地面へ座り込んでしまった。
「教えてくれ、何があった?…ここは、二人の家?」
炭治郎に問われ、兄の方が頭を振り、早口で否定する。
「ちがう、違う………ここは、化け物の家だ!!」
泣きそうな調子で必死に答え、半べそをかいている妹をしっかりと抱きながら、矢継ぎ早に説明を始めた。
…曰く、彼等は百瀬の見立て通り兄妹で。
夜道で更に歳上の兄と三人で歩いていた際に、何かに兄を攫われ。
兄を助けるべく、手掛かりの血痕を追っているうち、ここへ辿り着いた、という事らしい。
精神的にも極限状態にある幼い兄妹の勇気ある行動を褒めつつも、これから悪い物を退治してくるので、ここで待っているように…と真剣に。
しかし、優しさを持って諭す炭治郎から視線を外し。
突如生じた嫌な予感に突き動かされるように屋敷の二階を見ると、ポン…ポン…と。
一定の間隔で太鼓…否。
鼓を打っているような音が響き渡り、開け放たれたままの二階の窓から、血塗れの何かが空中に向かって投げ出される。
「────っ!!」
そんなはずはないと思った。
しかし、彼女はそれが血濡れの人間…それも、男性である事が一番に分かってしまい、さぁっと血の気が引く。
炭治郎達も、それに気が付いたのだろう。
皆一様に上を向き、青い顔のままその様を眺めて。
地面に足を縫い付けられてしまったかのように、誰も動けぬ中。
百瀬は一人、転がるように走り出す。
もちろん、目的地は、男性が落ちてくるであろう場所だ。
───果たして。
彼女は、男性の体をすんでのところでどうにか受け止めた。
…当然ながら多少よろめきはしたものの、どうにか衝撃を逃がし、そっと腰を降ろして男性の頭を膝に乗せ、その血色の悪い顔を覗き込む。
傷だらけの、窶れた顔。
百瀬が面をつけたままで顔を覗き込んだので、驚いたのだろう。
男性は一瞬顔を引きつらせたが。
彼女が男性の手を取り、そっと握った事で、敵意がない事が伝わったのか、男性は苦しげに浅く息をしながらも、どうにか手を握り返してくれた。
その時。
「…大丈夫ですか!?」
間髪を入れずにこちらへ走ってきた炭治郎が、百瀬と膝をつき合わせるようにして反対側へ座り。
気力を切らさないためか、男性の顔をしっかりと見ながら、必死に話しかける。
その間、男性の体を視診してみたが、噛み傷や引っ掻き傷等々───致命的な傷こそ無いものの。
今尚、男性の体から流れ続けている血の量からして、傷を焼こうが、圧迫して止血しようが…どの道、この男性はもう長くない、という事実を悟り、百瀬は面の下の顔を歪ませ、強く唇を噛む。
鬼の住処や縄張りに引き摺り込まれた人間がどうなるのか、なんて。
これまでの任務の中で十分に分かっていたはずだし、鬼によって惨たらしく食い散らかされたり、弄ばれた亡骸も、もう何度見てきたか覚えていない程なのに。
その人が、絶命するまでにどれだけの痛みを味わったのか。
どれだけ長く苦しみ、恐怖した事か───それを思うと、毎度どうしようもない気持ちが湧き上がってくる。
「俺…死ぬ…の…か、」
口から血を吐きながらそう問いかけてくる男性に、優しい言葉をかけてあげられたら…どんなにか良かったろうか。
一時の慰めの言葉を語らう事すら出来ない今の状況を口惜しく思いながら、彼女は男性の手を再度強く握り…炭治郎は今にも泣きそうな顔をして、男性の体を強く抱き締めていた。
───傷だらけの腕が下がった時。
男性が絶命したのだと分かり、百瀬は男性の体を静かに地面に寝かせ。
所々爪の欠けた手を、もう二度と上下する事のない胸の上でそっと組ませてやり、今まで確かに生きていた、という証拠がありありと残る亡骸へ向かって、そっと手を合わせる。
炭治郎も彼女と同じ心境であるのだろうか。
悲痛な面持ちのまま、亡骸へ無言で手を合わせていた。
…そういえば。
この男性は、後ろで震えている幼い兄妹の、攫われた兄ではないのだろうか?
唐突に思い至り、兄妹の方を恐る恐る振り返ると、彼等は百瀬の問いたい事を察したのか。
頭を振って、小さく繰り返す。
「ち、違う…兄ちゃんは、柿色の着物を着てる……!」
その一言で、この屋敷に住まう鬼は、他に何人もの人を引き摺り込んでいるらしい事が、何とはなしに予想できた。
いつの間にやら半開きになっていた玄関口からは、依然として鼓の音が聞こえてくる。
当然ながら、中には鬼の気配がひしめき。
昼間だというのにも関わらず、日の光を通さぬ不気味な暗闇が、のたりと横たわっているのを感じる。
珍しい事もあるものだが、この感じだと、鬼は二体…いや、三体はいるかもしれない。
「(ともすると………。)」
果たして、屋敷の中に生存者は何人居るのだろうか。
あの男性の様子を見るに、この二人の兄も、どうなっているか…。
その時、不意に炭治郎の声が耳に入る。
「よし…行こう。」
自分自身に渇を入れるように呟かれたであろうその一言に頷き、百瀬は再び彼の隣に立つ。
「ほら、善逸も…。」
彼がそう言いかけた途端。
後ろでこちらのやり取りをずっと眺めていた善逸が、今にも泣きそうな表情をしたまま、物凄い勢いで首を横に振り始めたのが見え。
…思わず、溜息が出そうになった。
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