▼ 03
「…着きました。」
『狭い所ですが、どうかご勘弁下さいね。』
そう断られつつ目隠しを取られ、百瀬はゆっくりと目を開ける。
絶対絶命…という状況下で現れた、怪しげな血鬼術を操る鬼女と、その配下と思われる鬼の青年から逃れる間もなく目隠しをされ。
『怪我の手当をするから、』と連れられるままやって来た所は、拍子抜けするくらい普通の部屋であった。
…てっきり、彼等の食料になるために騙され、根城へ連れて行かれるのだとばかり思っていたが。
彼等は、百瀬にも。
それから、どうにか拘束して連れて来た男性と、その妻である女性にも危害を加える事なく、極めて良識のある接し方をしてくるだけなので、面食らってしまった。
その最中、鬼女の方へいくつか質問をしてみたのだが、ここについては『病院兼、自身の持ち家だ、』と答え。
鬼女は自らを『細々と医者をして日銭を稼いでいる未亡人なのだ、』と説明した。
どうやら、それはただの虚言でも嘘でも無いらしく、目の前の鬼女は、百瀬を近くの丸椅子へ座らせるが早いか、白い割烹着を身につけ。
てきぱきと手当ての準備に取りかかっている。
「(………本当に、鬼であるには違いないのだろうけれども。)」
その動きをぼんやりと眺めながらも、警戒は緩めぬまま、彼女は鬼女を注意深く見張る。
…手の爪は刃物のように鋭く尖り、瞳孔は猫のように細い。
確かに鬼であるには違いないのに、何か妙だ。
言いようのない感じに調子が狂い、溜息をつくと、鬼女は突然こちらへ話しかけてきた。
「もう少しで準備が整いますから…上の服を脱いでお待ちくださいね。」
「…はい。」
そう返事をし、とりあえず服を脱いで待つ。
まあ、変な真似をしたら只ではおかないが。
…どうせ、どんなに取り繕ったとて、この剥き出しの傷口を見て我慢がきかなくなるのだろうから。
鬼女が湯に浸した白布を持って近付いてきたのを見て、百瀬は緊張しながら、その生白い顔を眺めながら傷口を差し出し───驚いた。
涎を垂らし、額に青筋を浮かべ…苦悶に満ちた表情で必死に手当をするのかと思いきや。
鬼女は、何でもないような涼しい表情で、ごく普通に傷を視診し『思ったより、かなり浅い傷ですが…痛みはありませんか?』なぞと言ってくるのだ。
「(…そんな、)」
今まで経験した試しのない出来事に心底驚きながら生返事を返し、百瀬は忙しなく考え始める。
血肉を見て、貪りつきたい衝動を抑えきれる鬼なぞ、今まで遭遇した事がない。
というか、そんな鬼が存在するかもしれない、と疑った事すらなかった。
一応、こちらに敵意を持ってはいないようであるし、然程人を食らっていなうようにも見えるが。
鬼である以上は、その首を刎ねなければならないだろうし………。
こういう時、どうしたら良いのだろう。
鬼殺の隊士として。
ひいては、道徳的にどうするのが正しいのだろうか。
本気で迷宮入りしそうな問題を延々と巡らせながら、ぼんやりとしていると。
「あら…?どうしてかしら、傷が………。」
凄い勢いで塞がっていくわ…。
鬼女から発せられた声にはっとし、彼女は咄嗟に患部を手で覆い、鬼女に背中を向けて小さくなる。
「…わ、私…その…ある頃から、かなり特殊な体質になってしまいまして……怪我をしても、患部さえ綺麗にしておけば三日と経たずに傷が消えてしまうんです。」
───ですから、どうかこの先はお構いなく。
一息にそう言った後『しまった、』と思ったが、もう遅い。
せっかく傷の手当てをして貰ったのに、何て失礼な事を…。
いや、それ以前に、鬼の目の前で自身の体の事について話してしまうなんて、なんたる失態か。
一人であたふたしている内、剥き出しで、さらしを巻いたままだった上半身へ、ふわりと何かがかけられ、彼女はびくりと体を震わせた。
「ああ…急にごめんなさいね。」
「い、いえ、私こそ…。」
鬼女の方を振りかえると、肩にかけられたのが真新しい浴衣だったことに気が付き、さらにぎょっとする。
「あの、この浴衣は…?」
「ここにいらっしゃる患者さんの為に用意している物ですが…丁度新しくしたばかりですので、よろしければ差し上げます。お嫌でなければ、着て帰って下さいな。」
「……そんな、」
貰えない、と言おうとしたのを静かに遮り、鬼女はどこか陰りのある笑みを浮かべて謝ってきた。
「先程は、大きな声を出してしまってごめんなさい。誰しも、人に知られたくない秘密はあるものですから…今夜知り得たあなたの体質の事は、誰にも他言しないと誓います。」
「………!」
「───さあ、これで手当てはお終いに致しましょう。」
浴衣を着て下さいね。
そう柔らかく言われて、百瀬はいよいよどうしたらよいか図りかね、唇を噛んだ。
それを見咎められぬよう、鬼女に背を向けて浴衣を身に付けながら、こっそり溜息をつく。
この鬼女は、明らかに彼女が今まで狩ってきた鬼とは違った。
理性的で、道徳的で…下手をすると、その辺に居る普通の人間より、余程人間らしい。
「(私は今、生まれて初めて。)」
心の底から『この鬼女を斬りたくはない、』と。
『この鬼女は、何か違う。』と、そう思ってしまった。
…二年前。
雪の日に、竃門兄妹を助けたい、と相談してきた冨岡も、こんな心持ちであったのかもしれない。
あの時は、到底自分には分からないであろうと思った物が、今更になって分かるなんて。
人生、何があるか分からないものだ。
そんな事を思いながら浴衣の着付けを終え、帯を締め終わった直後。
「それにしても。あなたからは、とても良い香りがしますね。」
これは…桃の匂いかしら?
どこかうっとりと呟かれた言葉に、はっとし。
鬼女の方を見やると、彼女は朗らかに笑ってこちらを眺めていたので、自分に向けて話しかけてきたのだと察して口を開く。
「あ、ええと…特に何もつけてはいなかったのですが………。」
「まあ、そうなの…でも、本当にいい匂いだわ。あなたくらいの若いお嬢さんは、皆こんな香りがするのかしらね、」
綺麗に微笑むその顔を見て、百瀬は何とも言えない気持のまま俯く。
「(これじゃあ、まるで…。)」
普通の女の人のよう。
否。この鬼女が、普通の女性であればどんなに良かったろう。
そうしているうち、部屋の戸が軽く叩かれ。
鬼女が『どうぞ、』と声をかけると、鬼女に付き従っているらしい鬼の青年が姿を現す。
「珠世様、男の方は処置が終わりました。隣の部屋へ奥方を寝かせておきましたので、そちらをお願いします。」
「…どうもありがとう。では、そろそろ鬼殺の隊士様を迎えに行って差し上げて。」
鬼殺の隊士…という言葉が指すのは、もしかしなくとも炭治郎の事だろう。
鬼がわざわざ鬼殺の隊士を自身の住処へ連れて来る、なんて。
はっきり言って、自殺行為としか思えない。
鬼女の考えている事を一つたりとも察せられないまま青年の方を見ると、青年も百瀬と同じなのか、その整った顔を顰め。
けれど、結局は『行って参ります、』と言って身を翻し、扉を閉めるが早いか、どこかへ向かって歩き出した。
青年の足音が完全に聞こえなくなると、鬼女は再びこちらを向く。
「では、私は隣の部屋で他の患者さんを診て参りますので…落ち着いたら、この部屋を出てすぐ右の突き当たりにある、勝手口の方からお帰り下さいね。」
「はい…どうもありがとうございました。珠世、先生…?」
青年との会話で出て来た名前を恐る恐る使ってみると、彼女は少し驚いたような顔をしたが。
「ええ───では、どうかお大事に。また何か困った事があれば、いつでもいらして下さいね。」
花が咲くように、とびきり美しく微笑んで。
百瀬に対してその一言を残すと、鬼女はいそいそと部屋から出ていく。
…正真正銘。部屋の中に自分一人だけになったのを確認し、彼女は洋服のポケットに入れていた帳面と鉛筆を取り出し、溜息をつく。
あまり気乗りはしないが、これも仕事だ。
「(お世話になったのに、すみません、珠世先生…。)」
心の中で謝りつつ、彼女は報告書へ今日の出来事をしたためる為に、部屋の物色を始めた。
***
あらかた部屋の物色をし終わった頃、俄に隣の部屋が騒がしくなる。
あの鬼の青年につれられ、炭治郎が、この家の中へ…それも、百瀬の居る隣の部屋へやって来たのだった。
───なら、するべき事は一つ。
彼女はそっと壁際に移動し、話し声のする箇所を探り当てるが早いか、壁に耳をくっつける。
「……私は、私の体を随分弄っていますから。鬼舞辻の呪いも外しています。」
「か、体を弄った……?」
壁越しに聞こえてきたのは、珠世の物らしき声と炭治郎の声。
鬼殺隊に有益と思しき話が湧き出すのに、強く興味を引かれ。
彼女は壁へ齧り付くように夢中で話を聞き、帳面へ鉛筆を滑らせる。
…これは話の中で分かったのだが、先程彼女の傷の手当てをしてくれた『珠世』と、炭治郎達をここまで連れて来た『愈史郎』という青年は、どちらも鬼ではあるものの、鬼舞辻無惨の抹殺を目論んでいるらしい。
尚、珠世は、炭治朗からの『鬼が人に戻る方法はあるのか。』という問いかけに対して『現時点ではまた不可能ではあるが、鬼を人に戻す方法はある。』と断言してみせた。
更に、珠世の見立てによると、禰豆子は『極めて稀で特殊な状態』であり『この奇跡は今後の鍵になりうる』とも言っていたから、鬼から見ても、禰豆子は多少なりと異質な部類に入るという事だろう。
一通り話が終わった後に、協力を仰ぎたいというような話が出始めたので、もっと良く聞こうと一層耳をそばだてたが───その拍子に、何やら嫌な予感がして、百瀬は息を飲む。
続いて、今は子どもの一人も遊んでいないような真夜中だというのに。
どこからともなく鞠の跳ねる音が聞こえ出したのを不審に思い、百瀬は壁から体を離した。
…ここから離れた方が良い。
突如脳内に湧き上がった考えに突き動かされるように、彼女は荷物を全て手に持ち、勝手口へと急ぐ。
…そうして『早く早く、』と急く心を宥めながらノブを回し、外へ一歩踏み出した途端。
「…………!」
彼女の背後で物凄い轟音がして振り返ると。
屋敷中に、ちりんちりん…と鞠の跳ねるような音が響き渡るのと同時に、物の倒れる音や、木の裂ける音等がいっぺんに耳に届き、屋内はただならぬ騒ぎとなっているらしいのが察せられて。
百瀬は慌てて高い場所を目指し、走り出す。
そうして、塀を乗り越え。
近くの民家の屋根へよじ登り、すぐ双眼鏡を覗いた先には、見慣れぬ女鬼と激しく蹴鞠を繰り広げ、愈史朗と珠世を守る禰豆子。
それから、愈史朗の血鬼術を媒介する物と思しき奇妙な札を額に貼り付けながら、掌に目を持つ男鬼と戦う炭治郎の姿があり、誰に教えられるでも無く『ああ、襲撃か。』と察する。
…双方の様子を望遠鏡越しに見守る事しか出来ない百瀬の膝には、やはり帳面と鉛筆が備えられていた。
目まぐるしく変わる戦況を見て、あくまで客観的に、現時点での彼等の能力や様子を淡々と書き記していく事しばし。
炭治郎が、すぱん…と男鬼の首を刎ね。
その直後に、空中へ飛んだ。
どう見ても、彼自身が意図して飛んだのではなく、男鬼が首を斬られると同時に出した鬼血術の影響による物なのだろう。
家の屋根より高く飛んだかと思えば、右に、斜めに。
左へ前へ…と、滅茶苦茶な方向へ飛ばされるも、次々技を出して必死に衝撃を和らげようと奮闘する様を眺めながら、百瀬は一人、身震いする。
また、唐突に嫌な予感がしたのだ。
この『嫌な予感』が杞憂であればよかったのだが、こういう時に限って予感は的中するもので。
炭治郎が、真下へ向かって技を出した直後。
疲れ切って気が抜けてしまったのか、彼は結構な高さから、べしゃっ…と地面に落ちる。
しかも、打ち所が良くなかったのか。
彼は地面に伏して荒く息をするだけで、しばらく動く事が出来ないようだった。
「(もしかして───肋、やってしまったのかしら。)」
一本だけならまだいい方だけれど、これが二、三本…ともなれば、たまったものではないだろうに。
そんな事を思って青くなっていると。
「…良かった、こちらにいらしたんですね!」
やっと見つけましたよ!
突然声をかけられた事に驚き、警戒しながらも振り返ると。
ここから少し離れた、別宅の屋根の上。
胸元に白い毛の混じった彼女付の鎹鴉を肩に乗せ、こちらに手を振る隠の男性の姿があった。
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