桃と鬼 | ナノ
 05

百瀬が長期任務へ発ってから一月程が経つ。

その間も、冨岡は一人で黙々と鬼を狩る日々をこなしていた。


鬼の首を刎ねて報告書を書いては、また別の鬼の討伐へ赴く。

一般隊士であろうと柱であろうと大して変わり映えのない仕事に、これといった文句もなければ、大きな変化も求めず。
やはり冨岡は、ただ淡々と仕事をこなしていた。


東京中を休みなく歩き回って鬼を狩り続け、もう何日目であったか。

そろそろ外食にも飽きてきた頃。
一月のうちにあるかないかという非番の日が回ってきたものの、特にする事もないし、書き物の仕事がたまっているわけでもない。


『なら、たまに屋敷に帰って寝てみるか。』という思考に至り。

彼はまだ夜明け前だというのに宿を発ち、滅多に帰る事のない自身の屋敷の方へと足を向ける。


郊外や町中等…様々な場所に点在する柱の屋敷の中でも、とりわけ辺鄙な場所へ位置する彼の屋敷には、彼が不在の時であれど、管理人はおろか使用人すらいない。

用事がなければ寄り付く者も皆無で、肝心の家主たる彼が滅多に帰らぬ事もあり、近くの竹林の竹は伸び放題。
家は早くも傷み始めている…という具合になりつつある。


『お館様から頂いた物なのだから、大事にしなくては。』という気持はあれど、人と話すのが煩わしかったり、自分自身が口下手な事もあったりして。

管理のためとはいえ、やはりどうしても屋敷へ使用人を入れるのは嫌だった。


悶々とそんな事を思いながら歩みを進めていくと、頬にポツ…と水滴が垂れる。


「………。」


雨か。

まだ暗い空を仰ぎ見た途端、いきなりザアッ…と降ってきたものだからたまらない。


傘なぞという物は持っているわけもなし。

屋敷までは然程距離がない……なら、走って行くか。


瞬時に判断するが早いか、彼はそのまま足を大きく踏み出し、遠くに見え始めていた竹林の方へと足を進めた。

ただただ奥へと続く一本道にまで根を伸ばし始めた竹林を一瞥し、黒い瓦屋根が見えてくるまでしばし。


『そういえば、戸は全て閉めていったのだったか、』と不安に思い始めた頃、屋敷の外観がようやっと見えてきた。

竹林の道に入ってすぐ、雨の勢いは幾らか弱まったために、然程濡れずに済んだ───ような気がしただけだった。


一度立ち止まって現状を確認してみると、髪はしっとりと濡れて頬に張り付き、羽織からは、ぽたぽたと水滴が滴っている。

…寝るよりも風呂が先か。


手間が増えたものだと顔を顰め、さて薪はあったろうかと怪しい記憶を辿る。

何分、最期に屋敷に立ち寄ったのは二月前。
いや、恐らくそれ以上前の事なので、どう頑張っても、そんな些細な事は思い出せるわけもない。


…まあ、あったらあった、無いなら無いでどうとでもなろう。

途切れることの無い心配事を一つ一つ揉み消しながら歩いていくうち、どうにか屋敷へと至ったのだが。


───思わぬ先客の姿が目に留まり、冨岡は足を止めた。

未だ夜が明けぬ中、彼の屋敷の軒先へ置物のようにひっそりと蹲る、鬼殺の女性隊士。


それも、膝に顔をしっかりと埋めており、こちらからは頭頂しか見えないため、はっきり誰とは分からない。

この度、彼女がなぜこんな辺鄙な場所まで来たのか。

あえて検討をつけるとすれば『隠に代わって、何か急ぎの用件を預かり、自分に伝えるように言われて来た』というところか。

…本当にそれくらいしか思い当たる事はなく、彼は屋敷に来ようとする前の事を思い起こしてみる。


鴉からは特に何も無かったが…。

珍しい事もあるものだ、と近寄っていくと、その隊士には何となしに見覚えがある気がする。


まさか。
任務が終わった、とは聞いていないので、いくら何でもそれは無いだろうと思ったが。

───果たして。
何をどうしたところで、そこに居る女性隊士は百瀬以外の誰でもない。

修行時代から今日に至るまで…かれこれ七年近く見続けてきた彼女の姿を、他の誰かと見間違える訳もなかった。


冨岡は、確信を持って女性隊士の目の前まで近寄っていき『…百瀬か?』と、静かに呼びかける。


すると、膝へ深く埋められていた頭がゆっくりと持ち上げられ───いつもより少しばかりあんばいの悪そうな顔がこちらを見て。

目が合った途端、彼女は解れてきた黒髪をするりと耳にかけて、弱々しく笑う。


「…冨岡殿、」


お久しぶり、です。

いつもより覇気の無い声でそう言い、こちらを見上げた彼女は、何だか疲れているように見える。


『具合が悪いのか?』

…そう問うより先に、ゆらりと立ち上がった彼女の体を見て、冨岡は絶句する。


いつもと異なり、彼女の肩へ引っ掛けられただけの分厚い隊服。

その下のブラウスは、胸元と腹にかけて斜めに走った傷口にそって破れ、そこから流れ出たのであろう血でべっとりと汚れていた。


続いて、ブラウスだけでなく、傷口の方へと視線をやると…獣の爪で深く抉られたようなそこは、どうにか塞がりかけているものの、どこもかしこもまだ笑っているようにぱっくりと口を開けたまま、痛々しい姿を晒している。


「この傷はどうした、」


「ああ、今日…というか、昨日の任務でついてしまって…。」


何とも歯切れの悪い答えに、彼は眉間に皺を寄せた。


彼女は平の隊士の中でも、かなり古参の部類に入る。

単純計算では、恐らく冨岡よりも鬼の討伐総数が多く…かつ、過去に行われた一斉討伐等にも幾度となく参加し、その全てを経て尚生き残ってきた歴戦の隊士なのだから、その辺の雑魚鬼からの攻撃を直に食らう事等まずあり得ない───だとすると。


「お前、また誰か庇っただろう?」


「……え、ええと…一緒に任務に当たったのが、若い隊士の方だったので…つい、咄嗟に…。」


「若い隊士なら尚更だ。未熟なうちは、怪我をして覚えるような事もある…わざわざお前が身を挺して庇ってやる必要は無い。」


「……………申し訳ありません。確かに、そうですよね。」


彼女はそれきり黙って、しょんぼりと俯いてしまう。

怒ったつもりはなかったのだが、彼女からしてみれば、年下の兄弟子から急に叱りつけられたように感じただろうか。


もっと柔らかく。
優しく物を言えたら良かったのだが、自分にはそんな器用な事は出来ない。

───錆兎ならきっと、彼女を優しく諭す事も出来たのだろうが。


その辺りで思考にきりをつけ、彼は懐から屋敷の鍵を取り出すと、未だ俯く彼女の腕を掴み、引っ張るようにして歩き出す。


「冨岡殿…あの……、」


百瀬の戸惑ったような声が後ろから聞こえたが、彼は構わず玄関口の方へ歩く。

すると、何をどう取ったのかは知らないが、彼女はこんな事を問うてきた。


「…怒ってますか?」


「怒ってなどいない、」


「…本当ですか?」


「本当だ。」


そんなやり取りをしながら鍵を開けると、彼女は消え入りそうな声でまた話しかけてくる。


「…あの、ごめんなさい。冨岡殿のお屋敷が任務先から一番近かったので、つい来てしまったんですが…でも、よく考えたら『これから非番』という時なのに、私がいたら休めませんよね。本当に、すみませんでした───これ以上ご迷惑をおかけする訳にはいきませんから、今日は帰り…、」


『帰ります』の一言を遮るように、冨岡は玄関の戸を開け、中に彼女を引っ張り込むが早いか、ぴしゃりと戸を閉める。

そうして、さっさと内錠をかけてしまいながら『俺は別に、迷惑だとは思っていない。』と前置きし。


「傷の手当てをしてやるから、上がって休んでいけ。」


そう言うが早いか、自分は上がり框へ腰掛け、草履を脱ぎにかかる。

一方、百瀬は困ったような顔で、内錠とこちらとを交互に眺め。

観念したのか『お世話になります、』と律儀に頭を下げた。


***


冨岡の心配を余所に、何故か台所の土間へ山と積まれていた薪を竃へ放り込んで火をつけ。

手伝おうとする百瀬を制して井戸まで水を汲みに行き。
湯を沸かし、軟膏と白布を引っ張り出してくる等、支度をする事しばし。


すっかり準備を整えてしまってから、血で汚れたブラウスを脱がせ、裂けて役目を果たしていないさらしを取り払い。

彼女を、上半身に何も纏わぬ姿にしてから傷を改めて直視して、冨岡は顔を顰める。


「………百瀬。」


「はい…、」


「…お前、傷が痛まなかったのか?今は塞がりかけているようだが、最初はもっと深くまで裂けていただろう。」


そう問うと、彼女は驚いたような顔をする。

まさか『自分でもそこまでとは思っていなかった、』なぞと言い出すのではなかろうな。


じゃぶじゃぶ、と。

湯に浸していた白布を絞り、とりあえず傷口を綺麗に拭き清めるために彼女へ躙り寄ると、汗や血の匂いに混じって、ふわりと桃の香りがした。


構わず、彼女の乳房の方へ走る傷へ絞った白布を当てて、周囲にこびりついた血の塊をゆっくりと剥がしにかかるも、痛がる様子は無い。

常人なら、まず平然とはしていられないような怪我をしているというのに、彼女はやはり、慌てず騒がず。
平気な顔をして手当てを受けていた。


───百瀬は、昔からそうだった。

骨を折ろうが、皮膚が裂けようが、泣く事も無ければ痛がる事も無い。


それどころか、どんな傷であろうと、患部を綺麗にして三日も放っておけば、特に何の処置をせずとも、傷跡も残らず綺麗に治ってしまう。

こんな具合に、傷の治りが早い事や、痛覚が鈍い事等から総合するに、彼女は鬼を殺す為だけに生まれてきたような逸材であった。


彼の師範は、それを『桃からの賜り物だ。』と冨岡達に説明してくれたが、どういう事なのかは分からなかったし、あれから大分年数の経った今であっても、よく分からないままである。


一時期は、恥ずかしながら、彼女のそれを本気で羨ましく感じていた頃が在り。
錆兎と一緒に『どうしたらそんな風になれるのか教えて欲しい、』と懇願した事もあるが。

百瀬は青い顔をして首を横に振り、一言も話そうとしなかったので、何かいけない事を聞いてしまったのかと思い、謝った記憶がある。

それ以降は、彼女のそれに対して一度も言及した事はないが。


…白布を洗っているうち、あっという間に紅に染まった湯を見て、彼は一度桶の中身を捨てに表へ出向き。

追加で沸かしていた湯を桶に入れて、再び彼女の元へ戻る。


さて続きを、と白布を絞り、再び傷と向き合うと、綺麗にしたばかりの。
乳房の上の方にあった傷口が、みちみち…と音を立て、凄い勢いで塞がっていく所だった。

……これなら、軟膏はいらなかっただろうか。


端から見れば、面妖極まりないであろうその様を何の気なしに眺め、彼は乳房の下と、腹についた傷を丁寧に拭き始める。

…その時、長らく黙っていた彼女がようやっと口をきいた。


「毎度毎度、こうして手当てをして頂いて…何とお礼を言ったら良いか、」


「───気にする必要は無い、」


「でも……、」


傷を拭き終わったのと同時に、白布を桶に放り。

彼は、奥の間から白布と一緒に持ってきていた自身のシャツの替えを手に取り、ぱっと広げると、そのまま百瀬の膝の上へ置く。


「生憎女物の服は持ち合わせていないが、俺の物で良ければ着ていけ。」


そのまま帰るよりはましだろう。

そう言えば、彼女は今更顔を真っ赤にして『ありがたくお借りします…。』なぞと言って、急いでシャツを羽織る。


案の定ぶかぶかではあったし、男物のシャツはボタンの向きが逆である事に途中で気が付いて、珍しくあたふたしていたようだが。

どうにかシャツを身につけ終えたらしい頃合いを見計らい、冨岡は自分から彼女に話しかける。


「お前は、俺に礼を返す事ばかり考えているようだが…それは二の次で構わない、」


『お前はもっと、自分を大切にしろ。』

口をついて出た言葉に、彼女は目を丸くし。


直後、迷うように視線を彷徨わせ、唇を薄く開くも───結局何も言わずに唇を閉じて、こくりと頷いただけだった。


手を伸ばせば、容易に体と体が触れる程の…二人の間に横たわる僅かな隙間に、重苦しい沈黙が訪れる。

それを破ったのは、コツコツ…と、雨戸を何かが規則的に叩く音だった。


冨岡が立ち上がり、台所の雨戸を開けると。

そこから、胸元に白い毛の混じった鴉がするりと入ってきて、冨岡の頭上を通り抜けるが早いか、百瀬が座ったままの座敷に降り立ち『伝令、伝令!』と言って飛び跳ねながら、自らの右足へ結び付けられた文を彼女へ差し出す。


その文を外し、急ぎ目を通して。
彼女は慌てたように、黒い隊服の上を引っ掴むと、こちらへ向かって申し訳なさそうに頭を下げる。


「すみません…『急ぎ、今夜の一斉討伐に参加するように、』とお達しが来てしまいまして…これから準備があるようですので、今日はこれで失礼致します。」


どうもありがとうございました。

律儀にそう言うが早いか、彼女は鎹鴉を伴い、襖を開けて、足早に玄関へと向かう。


あっという間に見えなくなった小さな背中を追うようにぼんやり襖を眺めていると、開けたままだった雨戸から、朝日が差し込んできていた。


───いつの間にか、夜は開け。

あんなに激しく降っていた雨はからりと上がって、小さな四角い雨戸から、切り取られたような青空が見える。


「…………。」


唐突に眠気が襲ってきて、彼は一つ欠伸をし、雨戸を閉め、そのまま座敷に寝転ぶ。

風呂が、布団が、なぞという考えはもうとうに何処ぞへ旅立ってしまったために、彼は静かに目を閉じ、たちまちうとうとし始めた。


深い眠りに落ちる、ほんの少し前。

ふわりと桃の香りがした気がしたが、それもすぐに掻き消えて…彼はそれきり、畳の上で寝入ってしまった。


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