桃と鬼 | ナノ
 閑話:桃と水廉

百瀬が、桑島師範の紹介で『鱗滝』という育手の元へやって来て少し。

その間に、来た頃は満開だった山桜の花はすっかり散り落ち。
青い空には入道雲が沸き、蝉が喧しく鳴く蒸し暑い季節がやって来ていた。


かつて様々な育手の元を転々とし、続いた野宿のせいで痩せ細った体は、今の師範が提供してくれる三度の食事により、どうにか年相応の物へ変化しつつある。

彼女の体の変化に気が付いた三つ年上の兄弟子達は何故だかとても驚いていたが、数日の内に元のように接してくれるようになったので、ほっとした。


また、きっちり食事を取り始めてから、数ヶ月間止まっていた月の物が元のように来るようになった事に安堵したのは言うまでもない。

何より、様々な場所を転々とする苦痛や、ひもじさのなくなった生活は、劇的に彼女の精神状態を安定させていた。


彼女と仲良くしてくれる兄弟子達と、厳しくも優しい師範。

このまま。
叶うことなら、このままずっとここで暮らせたら。


百瀬がそんな願望を抱き始めた頃。

『お前はもう最終選別に行っても良い、』と。
師範からの突然お達しが来たのに驚いたのは、彼女だけではなかった。

───というのも。
鱗滝師範の元で学ぶ弟子に課される、最終選別前の最難関の修行というのは『狭霧山の山頂付近にある大岩を、日輪刀で斬る。』という物であったからである。


この時点で百瀬は岩を斬ってはいなかったし、彼女自身もそれを引き合いに出し『最終選別に行く前に、他の兄弟子達のように岩を斬る修行をさせてほしい、』と申し出をした。

兄弟子達も皆彼女の肩を持ち、随分抗議してくれたのだが…師範は、頑なに彼女に岩を斬らせようとはしなかった。


それどころか『百瀬は岩を斬らずとも良いのだ、』と言い切ったのだ。

どうしてか、と。
誰が何と聞こうと、師範は何も教えてはくれず…とても困惑したし、平常時の修行は兄弟子達と同じ物をさせてくれていたにも関わらず、最期の修行を除外されてしまった事により、言いようのない疎外感を感じてしまったのも事実だ。


何とも言えない寂しさを抱えたまま、刻々と日々は過ぎ。

ついに、百瀬が最終選別へ発つ前日の夜がやって来た。


夕餉は牛すき鍋で、兄弟子達と鍋を囲み、最期になるかも知れない晩餐に舌鼓を打った。

その日の深夜。


「───少し、話をしないか。」


そう言う師範に、姉弟子と使っていた寝室から連れ出され、彼女は普段はあまり使われていない奥の方の部屋へ足を踏み入れた。

小さな部屋の中。
促されるまま師範の目の前に座り、向き合うと。


「…お前が嫌でなければ、これを身に付けていきなさい。」


簡素に言われ、差し出されたのは、師範の身に付けているのと同じ柄の着物。

それから、大きく開いた口から牙を剥き出しにし、怒ったような顔をした狐の面だった。


「───ありがとうございます、必ず身につけていきますね。」


礼を述べて品物を受け取ると、師範は、また静かに話し出す。


「…百瀬。」


「はい、」


「儂が何故、お前に岩を斬らせなかったか分かるか?」


「…………分かりません。」


そうきっぱり応えると、天狗面の内側に隠れた顔が、ふ…と笑ったような気がした。


「儂がお前に岩を斬らせなかったのは…お前は、儂が『岩を斬れ、』と言えば、どんな大岩を用意したとて、必ずそれを斬ってしまうと思ったからだ。」


「……………。」


謎かけのような答えに、彼女は首を傾げる。

…そりゃあ、最期の修行で。
『岩を斬らねば、最終選別には行けない。』と、他でもない師範から言われれば、岩を斬ろうと奮闘するに決まっているだろう。


「…それから、その狐面。他の弟子達にも渡してきた厄除の面が、何故お前の物だけそんなに恐ろしい顔をしているのか分かるか?」


「……分かりません、」


やはり即答すると、一呼吸置いて、師範はまた話し出す。


「お前の厄除の面だけそのような形相にしたのは…お前自身が怒りを顕わにする事が滅多にないからだ。」


「……………。」


今度も、何のことやら───よく意味が分からず首を傾げると、師範はやや顔を俯けた。


「───許せ、百瀬。儂は、お前に何もしてやる事が出来ん。お前の背負う、とてつもなく重い授かり物を肩代わりしてやる事も出来なければ、その代償として理不尽な宿命を背負わされて尚、ひたむきに努力を重ね続けるお前のかわりに、怒りを顕わにする事も出来ない…。」


お前が儂の元へ来てからも、お前がここから巣立っていかんとしているこの時ですら、儂はお前に対して、これくらいの事しかしてやる事が出来んのだ………。


許せ、と。
幾度も幾度も『許せ』という師範の声は、心なしか震えているように聞こえた。

それを遮るように、彼女は固い皮に覆われた師範の手を握る。


「…先生、どうかそんな悲しい事を言わないで下さい。」


そう言うと、師範はこちらに目を向けた。


「先生は、いつでも私に良くして下さいました。それから、既にいらした兄弟子殿達と同じように扱って下さいましたし…私に少し普通ではない所があっても、それを受け入れて認めて下さった───何より。私はそれが嬉しかったんです。」


「百瀬………。」


「先生は、いつも私の為にたくさんの事をして下さっています…だから『何もしてやれない、』『許せ、』なんて、」 


そんな事、仰らないで下さい。

…その時、不意に師範の手がこちらへ伸ばされ、きつく百瀬の体を抱き締める。
師範の体は、やっぱり微かに震えていた。


「…もし、お前が鬼殺の剣士になるためでなく、普通の娘として儂の元へ来ていたなら…そう思わぬ日はなかった。」


体の奥底から絞り出すような言葉に、心が震えるような心地がする。

何かを言った方が良いのだろうけれど、言葉が見つからずに。

彼女はただ、師範の体を抱き返す。


「こんな事を言ってはきりがないが…お前には、刀を振るう意外に幸せになれる道が沢山あったに違いない。今居る弟子の中でも、まだまだ幼いお前を一番先に選別へ出すのは心苦しいが…。」


そこで話を句切り。
その先を決して言うまいとするかのように、師範は言葉を飲み込んだ。

けれど、師範が何を言いたいのかは、すぐに分かった。


……師範は育手だ。
育手であるからには、新しい鬼殺の隊士を育成する義務があって。

どんなに弟子であろうと、修行が終われば最終選別へ送り。
鬼殺の隊士として戻ってくるか。遺品だけになって戻ってくるか…最終選別がある度に、弟子を信じて待ち続けるしかないのだ。


彼女は、師範のこれまでの弟子の数を正確には知らない。

けれど、その言葉の重さが、どれだけの弟子を最終選別へと送り出してきたのかを物語っていた。


空が白み始めた頃。
師範は彼女をそっと離し、居住まいを正して向き直る。


「百瀬、お前は強い。数々の育手の元を巡ってきたという経緯はあれど、そんなお前であるからこそ持ち得る強さがある…誇りを持って刀を振るえば、鬼殺の隊士となった後も決して鬼に負ける事はないだろう。」


───心して最終選別へ臨み、必ず生きて戻ってこい。

師範からの言葉に頷き、彼女は部屋を出た。


それから一刻後。
彼女は、師範から借り受けた着物と厄除の面を身に付け、腰には田舎の父から預けられた日輪刀を差して。

兄弟子の義勇と錆兎。姉弟子の真菰、師範…という具合に、全員から見送ってもらい、最終選別が行われる藤襲山へ出立した。


***


それから七日後。
百瀬は、鬼の蔓延る藤襲山から見事に生還し、正式に鬼殺の隊士となった。

…しかしながら、この時の最終選別を受けた候補生は過去最多であったにも関わらず、生還できたのは百瀬ただ一人だけであったという。


隊士となってからは、任務の最中、鬼の首を着々と刎ね続け…さらに半年が経つ頃、ついに下弦の鬼を単独討伐するまでに至った。


このめざましい活躍を受け、当初は『是非柱に、』等という話も出ていたようであったが、彼女が修行時代に多流派の育手の元を転々としていた事や、彼女がまだ若すぎる事。

それから、一応全ての型を習得している『水の呼吸』を使用せず、独自で完成させた我流の呼吸を使い続けている事が引き合いに出され、方々から批判が殺到したために、柱就任の話はあえなくお流れとなってしまう。


───そのかわり、百瀬は階級を甲へ引き上げる措置と、平の隊士でありながら直々にお館様に会う権利を与えられ、数年に渡って鬼殺の仕事に貢献していく次第となったのである。


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