▼ 閑話:桃と遠雷
「(…………ものの見事に断られてしまった。)」
ぼんやりとした表情のまま、彼女は溜息交じりに道を歩く。
田舎の実家から出て来る際に父から貰い受けた日輪刀は、半年程前から滅多に抜く機会に恵まれず。
今日も彼女に背負われ、数少ない荷物の一つとして百瀬の痩せた背中へ寄り添う。
前に稽古をつけてもらっていた育手の元を追い出され、早五日。
その育手から『俺と少なからず縁があるので、どうにかお前の面倒をみてくれるんじゃないか?』と。
紹介された通りに『煉獄槇寿郎』という名の男の屋敷を尋ねていったはいいが。
いざ屋敷へ到着したところ、件の男は出て来ず…かわりに出て来たのは、明らかに自分よりも年下の少年であった。
ここの門下生かと思い『遠方に住まい、ここの家主に縁のある育手から、弟子を寄越すという手紙が来ていないでしょうか?』と問うと。
彼はハッとしたように目を見開き、いきなり大きな声で謝ったかと思えば、こちらへ向かって凄い勢いで頭を下げてくるものだから、驚くどころの話ではなかった。
…聞けば、彼は槇寿郎の息子であり、名を杏寿郎というらしい。
杏寿郎は、心底申し訳なさそうに『今、父上は弟子を取って指導できるような状況ではないため、申し訳ないが、その話は無かった事にしてほしい。』と再度彼女へ頭を下げ、困ったように眉根を寄せている。
こんな年端もいかぬ少年が頭を下げて謝らねばならないなんて。
余程やんごとなき理由があるのだろうと勝手に予想し『こちらこそ、急に押しかけてしまって申し訳ありませんでした。』と謝って、屋敷から立ち去ったは良いが。
弟子入りを断られるという事は、即ち───またしばらくは『宿無し』生活に戻る事が確定してしまったのを意味していた。
百瀬自身、金なぞ持っていないので、勿論宿に泊まるなんて夢のまた夢だし。
飢え死にしない程度に腹に何か入れるにしても、自力で食べ物を確保する他ない。
…それも、彼女の衣食住の世話をしてくれる次の育手が見つかるまでは、ずっと野宿が続くのだ。
さて、今日はどこを寝床としようか…。
慣れたもので、そんな事を考え出してしまう自分に、少しがっかりしてしまう。
彼女はここのところ、ずっとこうだった。
───具体的に言えば、一年前。
一番最初に百瀬の面倒を見てくれていた育手の老婦人が、心臓を病んで亡くなってからというもの。
それ以降、彼女は一つの場所に留まって修行をする間も無く、様々な育手の元を盥回しにされ続けているのだった。
一番最初の師範が、亡くなる直前に紹介してくれた次の育手は、事もあろうに百瀬の弟子入りを拒否し。
その後、様々な伝を辿って紹介して貰った育手は、かなり激しく折檻をする質の師範で…ぶたれようが抓られようが、全く痛がる様子もなければ、次の日になれば痣も傷も綺麗に消え、ケロリとしている百瀬を気味悪く思ったのだろうか。
理由は定かでなにしろ、彼女は一月もしないうちに他の育手の元へ行く事になってしまった。
こんな調子で、長くて一月。
酷い時だと『弟子としての謙虚さが足りない、』だの『女の弟子は面倒くさいので世話なぞしたくない、』だの。
なんやかやと理由をつけられ、一日か二日で書状を持たされて他の育手の元へ回され、旅往くはめになる、という有様だった。
とにもかくにも、最初の師範が亡くなった去年の夏の終わりから、この春の初めにかけて。
ここ半年の間は『鬼殺の隊士となるための修行をしていた、』というよりかは、最終選別前の修行の面倒を見てくれる育手を探して方々へ旅歩き、野宿をしている事の方が多かったのである。
その間、女の格好をして歩いたり、野宿をしたりするのは危ないという事を身をもって学習したため、髪は短く切ったし、胸はサラシをきつめに巻いてどうにか誤魔化し、服装も男性の着るような物を調達して身に付けているが。
近くの川に映った自身の姿を目にして、彼女は心底驚いてしまう。
食うや食わずの期間が長く続いたため、大分痩せこけてしまった体に、女らしさという物が一切合切抜け落ちた容姿。
そういえば、月の物が来たのは大分前だった気がする…。
そこまで考えると、唐突にしんどくなった気がして。
百瀬は道端に座り込む。
前の師範…一番最初の先生と一緒に暮らして修行をしていた頃は、男の子の格好なんかしなくても良かった。
月の物も、多少面倒ではあったけれど毎月来ていて、止まるなんて事は一度もなかったし、こんなに痩せてもいなかったのに。
───逸物はないけれど、月経もなく。
容貌も男性に近い今の自分は、最早女性ではなく、男性なのではないだろうか。
「(なんなら、私は『百瀬』ではなくて…。)」
朦朧とし始めた頭でそう思った時。
「…これ、そこの刀を背負った若いの。こんな所でどうしなさった?」
具合でも悪くしたかの?
突如背後から声をかけられ、彼女はのろのろとそちらを見やる。
そこには、白髪で長い髭を蓄えた…片足が義足の老人が、物珍しそうにこちらを眺めていた。
「あ、その…特に具合が悪い、というわけではないのですが…。」
さて、何と言ったものか。
一応こちらに興味を持って…というか、どうも心配して声をかけてくれたようなので、差し支えのない返答をしようとするも。
上手く回らない頭では、気の利いた言葉の一つも思いつきはしなかった。
その間老人は何も言わず、やはりこちらを眺めていたが。
…ぐぅ、と。
突如空腹を訴えて鳴り出した彼女の腹の音に目を丸くし『ガハハハハ!!』と、皺だらけで刀傷の沢山ついた顔を緩め、豪快に笑い出す。
「…あ、あの、ええと、これは、ですね………!」
そんな老人とは対照的に、彼女は顔を真っ赤にしてどうにか言い訳をしようとするが…そういえば、前に食事をしたのは二日前の夜だった事を思い出し、黙り込む他ない。
実を言えば、食べ物を食べようと思えば、道中で調達出来なくもなかったけれど。
『自分の落ち着き先が、もしかしたら。今度こそ決まるかもしれない。』
『師範になってくれる育手が決まれば、ようやっと最終選別へ行けて、私は鬼殺の隊士になれるかもしれない。』
このように不毛な期待に突き動かされるまま、二日前の夜以降は飲まず食わずで歩いてきたもので──空腹は今の今までずっと置き去りにしたままだった。
つまりは、初対面の老人の目の前で恥をかいたのは、自業自得なのだ。
…我ながら何と情けない。
耳まで真っ赤にしつつ、彼女は自らの体を尚小さくする。
老人は、一頻り笑い。
その後、笑いすぎて零れ出て来た涙を拭い、彼女に向き直る。
「…いや、笑ってしまってすまんかったな。ひもじいのが辛いのは、ワシもよく知っておる。」
『どうか、お気になさらず…。』
そう言おうとしたものの、言葉よりも先にまた腹が鳴ってしまい、もう消えたくなる。
「お前さん、余程腹が減っていると見えるな…最期に飯を食ったのはいつじゃ?」
「ふ、二日前の…夜、です………。」
「…何!?二日前の夜じゃと!?そりゃいかん…!!!」
老人は俄に焦りだし、何事か思案するような顔をしていたが。
「のう、お嬢さんや…腹の音を笑った詫びと言っては何だが、お前さんさえ良ければ。これからワシの所に来て飯でも食っていかんか?」
なんなら、しばらく泊まっていっても構わんが。
「……………。」
降って沸いたような幸運に絶句し、彼女は回らない頭でしばし考えてみる。
普通なら、初対面の相手になぞ、誘われたとて絶対について行かない。
それも、彼女の見た目に騙されず、性別を言い当てて『お嬢さん、』なぞと呼んでくる輩は、特に気をつけなければならない。
けれど、彼女は今飢えており。
尚かつ無一文で、雨風を凌いで眠れる宿すらない状態である。
───つまりは、ここで老人の誘いに乗らない、という手はない。
もし変な事をされそうになったら、死にもの狂いで逃げれば良い。
私は刀を持っているんだから、きっと大丈夫。
よく働かない頭で考え、彼女は老人に向かい『…お世話になります、』と頭を下げる。
それを眺め、老人は少しほっとしたような顔をして見せた。
「申し遅れたが、わしは『桑島慈悟郎』という者じゃ。故あって、お前さんのような若者に剣術を指南しておる。お前さん、名は何というのかの?」
「東百瀬と申します…あの、お爺様の事を『桑島殿』とお呼びしても構いませんか?」
「随分仰々しい名称で呼びたがるもんじゃな…まあ、好きに呼べば良いわい。」
では百瀬よ、行くとするか。
そう言うが早いか、桑島老人は杖をついて歩き出す。
慌てて立ち上がり、後ろを追い掛けるも、その歩みの早い事───とてもではないが、片足が義足の老人とは思えないような軽やかな身のこなしで、百瀬の目の前を悠々と歩いていく。
この時の彼女は、この老人を『先の戦争で活躍した軍人だったのだろう。』というくらいにしか思っていなかった。
しかし、予想は当たらずとも遠からず。
『桑島老人が鬼殺の元鳴柱であった』という事実を彼女が知るのは、その日の夜の事。
次いで、彼女の最期の師範となる『鱗滝左近次』という育手を桑島老人から紹介して貰うのは、更に後の事である。
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