▼ 02
あれから更に月日は流れ。
竃門炭治郎は無事に最終選別を潜り抜け、晴れて鬼殺の隊士となった。
そんな彼が『これから本当に鬼殺をこなしていく素質を兼ね備えている』のか。
また、鬼になった妹が『本当に人を食わずにいる事が出来、今後も生かしておく価値があるのか』を見極める為、目付として彼等の後をつけ、活躍を逐一報告せよ───そんな密命を産屋敷邸で受け、こっそりと竃門兄妹の後をついて回る次第となった。
炭治郎が初仕事を終えたのを確かに見届けて早数日。
百瀬は、やはり彼等の後ろにつき、東京の浅草を目指して歩いていた。
道中、幾度か服装を変え、香り袋も日によって取り替える等していたためか、竃門兄妹は未だこちらに気が付く様子はない。
…もしかすると、つけられている事にすら気が付いていないのかもしれないが。
それはそうと、東京に入る前に、洋服と帽子。
それから、踵の高い婦人靴を調達出来たので身に付けてみたが、人が多いだけに、大して悪目立ちをする事はない。
洋装に浮かれすぎて、派手に足音を立てないよう。
それから、うっかりその背中を見失わないよう…どちらにも気をつけながら上手く距離を保ち、炭治郎の後についていくが。
いざ浅草方面へ近付く毎に、彼の辺りを見回す頻度は格段に上がっていった。
最初の方こそ、いかにも『東京見物に来ました、』と言わんばかりに、わくわくしながら辺りを見ていたのだが。
───いざ日が暮れ、彼が箱から出した妹の手を控えて一緒に歩き出した頃。
彼は、急に取り出した布で自身の頭を覆ったかと思いきや、夜でも明るい浅草に驚いたのか、往来でしばし珍妙な顔をして立ちすくんでいた。
少し離れた位置から見る分にも、彼がとにかく疲れ、驚いている事が伝わってくるようで、噴き出しそうになる。
加えて、朝からずっと歩き通しだった事も堪えたのか、彼は哀愁漂う背中のまま、暗い路地へふらりと姿をくらます。
その覚束ない足取りについて、彼女も路地へ体を滑り込ませ、そろそろと後ろをついて歩く。
幾度路地を曲がったろうか。
ようやく辿り着いた先には、うどんの屋台があり…いつの間に座って注文を済ませたものか。
そこには、疲れ切った顔で茶を啜る炭治郎と、その隣に腰掛け、船を漕ぐ禰豆子の姿があった。
「(なるほど…。)」
炭治郎は、あっちへこっちへ。
目的もないまま彷徨っていたように見えたが…どうやら、うどんの屋の出汁の香りを辿って歩いていたらしい。
…それにしたって、よくぞあんなに遠くからこの匂いを嗅ぎつけたものだ。
こうしてみると『鼻が効く、』というのはなかなかに便利なのかも知れない。
…ややもすると、彼は人でありながら、犬と同じくらい鼻が効くのではなかろうか?
なら、それはそれで大変な事もあろう。
例えば、舶来の品の…確か、香水というのだったか。
あれの匂いなぞ、常人ですら『少し強すぎるな』と思う香りなのだから、炭治郎からすれば、香りが強いだのという騒ぎではないのだろう。
物陰に隠れたまま、真面目にそんな事を考えていたその時。
彼の居る方から、ガチャンと音がした。
何事かと見てみると、彼が山かけうどんを器ごと地面に落としてしまったのだと分かる。
しかし、炭治郎は地面に広がる山かけうどんと器の欠片を見て慌てるでもなく。
立ち上がり、そわそわと辺りを見回している。
『一体、何があったのだろう、』と。
こちらに考えさせる暇も与えず、彼は一人、大通りへ抜ける路地へと全力で駆け出していた。
うどんの屋の店主が呼び止めるのも聞こえぬようで───炭治郎は市松模様の羽織を翻し、あっという間に薄暗がりの中へ消えていく。
一方、禰豆子はうどん屋の座席に腰掛けたまま、こっくりこっくり…と相変わらず船を漕いでいる。
「(…………。)」
うどん屋に残された禰豆子と、大通りへ走っていった炭治郎…果たしてどちらを見ているべきか。
一瞬迷いはしたが、任務としては炭次郎を追いかけるべきだろう。
そう判断するが早いか、彼女は路地の影から、建物の屋根に向かって、パンパン…と、極力静かに手を叩いた。
すると、胸元に白い毛の混じった彼女付きの鎹鴉がひょこりと顔を覗かせ、彼女の目の前まで降りてくる。
「…竃門殿が妹君から離れ、大通りの方へ行きました。私はそちらを追いかけますから、あなたは妹君を見ていてもらえますか?」
彼女の言葉を聞いてすぐ、鴉はうどん屋の屋根へ止まり、こちらをじっと眺めてくる。
それをしっかり確認し、百瀬は炭治郎を追って大通りへと向かった。
***
人混みをかき分け、既に二町先程へ行ってしまった彼を追いかけて『急いでおります、通して下さい。』『申し訳ございません、通ります。』と声をかけながら、人波を縫うように歩いている時。
不意に、とても嫌な予感がして───彼女は歩く速度を早める。
一町程に差し迫った彼との距離。
雑踏の中、炭治郎が、洋装の……酷く青白い肌をした細身の男と向かい合い、立ち止まっているのが見えた。
男は、幼い少女を腕に抱き。
隣には、やはり洋装の女性が立っていて。
一見すると、彼等は都心に住む裕福な一家のようだが…炭治郎の知り合いなのだろうか?
────しかし。
炭治郎の方に近付くにつれ、彼女の平和的な考えは粉々に打ち砕かれる。
猫のように細い瞳孔に、今まで一度も陽に当たった事などなさそうな色の悪い肌。
普通の人間には見受けられない身体的な特徴からして、洋装の男は間違いなく鬼である事が分かる。
それが、女性と子どもと一緒に歩いている、というのは不自然であり『もしや、隣の女性と抱かれている子どもは、脅されて家族を演じさせられているのではないか…、』なぞと勘繰ったが、彼女達の表情や声の感じからすると。
…そもそも、男が人外の生き物である事にすら気が付いていない様子であった。
そうして、彼女がそちらへ近付けば近付く程、極めて暴力的な生の気配が強くなるのを感じる。
恐らく、炭治郎はこの異様な気配…いや、匂いのような物を感じ取り、血相を変えてここまでやって来たのであろう。
『これ以上近くに寄っては、取り殺される。』
『あの男は、何か明らかに異常だ。』
彼女自身の本能が幾度もそう告げてきたが、このまま人の流れに逆らわず歩いていけば、炭治郎達の居る場所へは容易に辿り着く。
そんな所で急に立ち止まり、踵を返したのではかえって不自然だろう。
「(仕方がない…、)」
今の時点でこちらに敵意はなく、戦う気もない…加えて、件の鬼がこちらを特に気にした様子もないので。
───なら、ここはいっそ、一介の通行人としてやり過ごすのが吉か。
歩く速度もそのままに、炭治郎と件の男の近くへ寄っていく最中。
彼女の斜め前を歩いていた和服の若夫婦の片方…勿論、百瀬と全く面識のない男性が、震えながら急に立ち止まり、こちらを向いた。
それにつられて、彼女も足を止め、男性の方を見やる。
猫の目のように細い瞳孔。
血走った瞳はあちらこちらを忙しなく見やり、長く伸びた鋭い爪のついた手を所在なさげに動かして───完全に目線が合った途端、男性は声にならない叫びを上げ、百瀬に掴みかかってきた。
「(………鬼!?)」
そんな馬鹿な、とは思った。
しかし、突如目の前へ沸くように出現した別の鬼の存在に驚きつつも、ここで一般人のふりなどしていられず。
彼女は止むなく、向かってきた男性の額に渾身の力を込めて自身の拳を叩きつける。
一瞬、男性は勢いを弱め、額へ走った衝撃に目を閉じたが…かわりに、その長い爪を無茶苦茶に振り回し、激しく抵抗をしてくる。
被害が拡大しないうちにと、力任せに男性を押さえにかかるが、普段と違って見物人が多くいる事もあり。
手足に刀を突き刺して体を地面に縫い付け、動きを封じたところを縛り上げる…なぞという非人道的な手段で男性を屈服させるわけにもいかず。
一人で。
それも、男性と大分体格差のある彼女が、正当な手段のみを使って相手を押さえ込むのは、困難を極めた。
そのうち、男性は唸りを上げて百瀬の腕を掴み、近くへ引き摺り寄せるが早いか、肩口へ牙を突き立てる。
…しまった、と思ったのも束の間。
彼女の肩からは、食い込んだ歯の形に沿って、ごぽ…と生暖かい血潮が流れ出す。
血はあっという間に洋服に染み込んで歪な斑模様を作り、その頃から俄に周囲が騒がしくなる。
痛みはなかったが、早く男性を離して止血をしなければ、もっと騒ぎが大きくなるのは目に見えている。
一方、百瀬の血を啜り、ゴクンと一口
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んだ途端。
男性は慌てて彼女の肩から牙を引き抜き、地面に突っ伏し、喉の奥に滑り込んだ血と胃液の混じった吐瀉物を口から溢れさせる。
その混沌とした状況を真っ青な顔で眺めていた…男性の妻らしき女性は、百瀬の肩口へついた怪我を見るや否や卒倒してしまい、近くに居た通行人に抱き留められていた。
人混みを掻き分け、必死の形相の炭治郎が『大丈夫ですか!?』と叫びながら百瀬と男性の間に割り込んで、未だ地面に伏したままの男性を押さえ込んだ。
彼に顔を見られては上手くないな、と思い至り、咄嗟に俯くと、炭治郎はこちらへ向かって叫ぶ。
「そこの洋装のお姉さん…噛まれた所を布で強く押さえて止血して下さい!!」
早く!!!
彼が叫ぶのと同時に、近くに居た通行人が布を渡してくれたので、それをありがたく借り受け、傷口に当てて押さえる。
そのうち、誰が何と言って呼んできたのか、野太い叫び声と共に、警官がやって来た。
三人組でこちらへ来た警官は、辺りの惨状を見るなり『酔っ払いが暴れて婦女に暴力を振るった、』と思ったのか、鬼と化した男性を未だ押さえつけている炭治郎を引き離そうとする。
「(ああ、いけない…!)」
今、男性と炭治郎を引き離しては、確実に死人が出る。
彼もそれを感じているのか、必死に抵抗をし『拘束具を持ってきて下さい!!』『この人に、誰も殺させたくない…!!』と叫んでいる。
人の往来も多い中、男性を抱えてどこかに行き、どうにか始末をつける事も不可能であるし、正に絶望的な状況の中───不意に、何かの香りが漂ってきた。
麝香のようでいて、白檀にも似た………とにかく、何とも形容しがたい香りが辺りに立ち込め、周囲には菊や桜等、まるで絵巻物にでも出て来るかのような模様が浮かび上がり、百瀬達の姿を周囲から覆い隠すかのように囲む。
明らかに人の所業とは思えぬ奇怪さに顔を引き攣らせて周囲を見回すと、模様の合間から、艶やかな着物姿の女性が姿を現した。
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