桃と鬼 | ナノ
 04

最初の町で、炭治郎が初仕事を終えるのを見届けてから数日後。

百瀬は竃門兄妹の後を追いかけ、東京の浅草を目指して歩いていた。


道中、幾度か服装を変え、香り袋も日によって取り替える等していたためか、竃門兄妹は未だこちらに気が付いてはいないようだ。

それはそうと、東京に入る前に、洋服と帽子。
それから、踵の高い婦人靴を調達出来たので身に付けてみたが、人が多いだけに、大して悪目立ちをする事はない。

ただ一つ誤算があったとすれば、婦人靴は見た目は可愛らしいものの、いざ履いて歩くと、余程気をつけなければコツコツと音を立ててしまう履き物であった事である。


気を抜いて派手に足音を立てない事と、うっかりその背中を見失わないようにする事。
どちらにも気をつけながら、器用に距離を保ち、炭治郎の後についていくが。

いざ浅草方面へ近付く毎に、彼の辺りを見回す頻度が上がっていった。


最初の方こそ、いかにも『東京見物でござい、』と言わんばかりに、わくわくしながら辺りを見ていたのだが───日が暮れ、彼が箱から出した妹の手を控えて一緒に歩き出した頃。

彼は、急に取り出した布で自身の頭を覆ったかと思いきや、夜でも明るい浅草に驚いたのか、往来でしばし珍妙な顔をして立ち止まってみたりしている。

後ろから見る分にも、彼がとにかく疲れ、驚いている事が伝わってくるようで、笑いそうになった。


今日は朝からずっと歩き通し、という事も堪えたのか、彼は哀愁漂う背中のまま、暗い路地へふらりと逸れた。

覚束ない足取りについて、彼女も体を路地へ滑り込ませ、猫のように足音を殺し、後ろについていく。


幾度路地を曲がったろうか。
ようやく辿り着いた先には、うどんの屋台があり…いつの間に座って注文を済ませたものか。

そこには、疲れ切った顔で茶を啜る炭治郎と、その隣に腰掛け、彼にもたれて寝息を立てる禰豆子の姿があった。


「(なるほど…。)」


炭治郎は、あっちへこっちへ…と、目的もないまま彷徨っていたように見えたが、どうやら、うどんの屋の出汁の香りを辿って歩いていたらしい。

…よくぞあんなに遠くから出汁の香りを嗅ぎつけたものだ。

こうしてみると鼻が効くというのはなかなかに便利なのかも知れない。


彼女の師範も鼻が効く方であるらしいが、もしや彼のように匂いを辿って屋台を見つける事が出来るのだろうか…?

師範が匂いを辿っているのを想像し、思わず笑いそうになるが、すんでの所でぐっと堪える。


危ない…。
ここで声を立てて尾行に勘づかれてしまったのでは、今までの努力が水の泡だ。


「(鱗滝先生に限って、そんな事はなさらないでしょう…。)」


自分で自分に言い聞かせ、路地の影に身を引こうとしたその時。


彼の居る方から、ガチャンと音がした。

何事かと見てみると、彼が山かけうどんを器ごと地面に落としてしまったのだと分かる。

しかし、炭治郎は地面に広がる山かけうどんと器の欠片を見て慌てるでもなく。
立ち上がり、ただならぬ形相で辺りを見回している。

そうして、何があったのだろうと。
こちらに考えさせる暇も与えず、彼は一人、大通りへ抜ける路地へと全力で駆け出していた。

うどんの屋の店主が呼び止めるのも聞こえぬようで───炭治郎は市松模様の羽織を翻し、あっという間に薄暗がりの中へ消えていく。


一方、禰豆子はうどん屋の座席に腰掛けたまま眠り続けている


「(…………。)」


うどん屋に残された禰豆子と、大通りへ走っていった炭治郎…果たしてどちらを見ているべきか。

一瞬迷いはしたが、やはりここは炭次郎を追いかけるべきだろう。


そう判断するが早いか、彼女は懐から小さな笛を取り出し、口に咥え。
一定の間隔を空けて吹き、休み…という動作を繰り返す。

すると、鴉の鳴き声にそっくりな音が笛から出て。

しばらくそれを繰り返していると、近くの屋根から、胸元に白い毛の混じった彼女付きの鎹鴉がひょこりと顔を覗かせ、彼女の目の前まで降りてくる。


「…竃門殿が妹君から離れ、大通りの方へ行きました。私はそちらを追いかけますから、あなたは妹君を見ていてもらえますか?」


彼女の言葉を聞いてすぐ、鴉はうどん屋の屋根に音もなく止まる。

それをしっかり確認し、百瀬は炭治郎を追って大通りへと向かった。


人混みをかき分け、もう二町先程へ行ってしまった彼を追いかけて『急いでおります、通して下さい。』『申し訳ございません、通ります。』と声をかけながら、人波を縫うように歩いている時。

一瞬。
ほんの一瞬だけ、とても嫌な予感がして───彼女は歩く速度を早める。


一町程に差し迫った彼との距離。

雑踏の中、炭治郎が、洋装の……酷く青白い肌をした細身の男と向かい合い、立ち止まっているのが見えた。


細身の男は幼い少女を腕に抱き、隣には洋装の女性が立って、三人で炭治郎の方を見ながら話をしているようだ。

一見すると、彼等は裕福な一家のようだが…炭治郎の知り合いなのだろうか?


────しかし。

炭治郎の方に近付くにつれ、彼女の呑気な考えは粉々に打ち砕かれる。


まずもって、件の洋装の男というのは、恐らく炭治郎の知り合いでもなければ、人間でもない。

猫のように細い瞳孔に、色の悪い肌…明らかに人間離れした特徴を備え付けた洋装の男は、間違いなく鬼である事が分かる。


それが、女性と子どもと一緒に歩いている、というのは不可解であり『もしや、隣の女性と抱かれている子どもは、脅されて家族を演じさせられているのか、』と勘繰ったが。

彼女達の表情や声からして、怯えているような感じはなく。
どちらかといえば、ただ純粋に、男が鬼である事には気が付いていない様子であった。


そうして、彼女がそちらへ近付けば近付く程。

この世のありとあらゆる生き物を集め、一つの生き物として無理矢理継ぎ合わせたかのような───極めて暴力的で生々しい気配が強くなるのを感じる。

恐らく、炭治郎はこの異様な気配…いや、匂いのような物を感じ取り、血相を変えてここまでやって来たのであろう。


『これ以上あの男の近くに寄っていくのは、賢明とは言えない。』

『あの男は、明らかに普通の鬼でもなければ、真っ当な生物としての定義から外れた規格外の異物である。』

彼女自身の本能が幾度もそう告げてきたが、もう十歩も行けば炭治郎達の居る場所へ辿り着くという所で立ち止まったのでは、かえって不自然だろう。


「(仕方がないですね…、)」


今の時点でこちらに敵意はなく、押し殺さねばならぬ程の殺気もなし。
加えて、件の鬼がこちらに気付いたような様子もなかった。

───なら、ここはいっそ、一介の通行人としてやり過ごしてしまおう。


腹を括り、踵の高い婦人靴で颯爽と距離を縮め。

青い顔をして硬直している炭治郎を尻目に、件の男の傍を通り過ぎかけたその時。

チリン…と。
聞き覚えのある音色が耳に届いたのと同時に、彼女の視線は、今し方音のした自身の足元へと向けられる。


品の良い紅色のリボンが縫い付けられた、尖った婦人靴の先。
そこには、冨岡から貰った白い貝殻の御守りが転がっていた。


「……!!」


服の隠しへ大事にしまっておいたのに。
どうして今落ちてしまったものか…いや、この際考えるのは後回しにして、人に踏まれて潰されぬうちに拾ってしまわなくては。


そんな事を思いながら咄嗟にしゃがむと、彼女の項があった辺りから、ヒュッ…と空気を切り裂くような鋭い音がして。

反射的に見上げると、瞳孔の開ききった紅い瞳がこちらを眺め下ろしていた。


今にも死にそうな程色の悪い顔には驚いたような表情が浮かび。
かと思えば一瞬のうちにすっと目を細め、明確な敵意を持ってこちらを睨め付けてくる。

言葉も直接的な接触も無い。
ただただ純度の高すぎる殺気をぶつけられ、背中を冷たい汗が伝う。


「………………。」


血のように紅い瞳を気丈に睨み付け、白い貝殻を拾い上げてすぐ。

彼女は、相手が視線を逸らしたのと同時に立ち上がり、何事もなかったかのように雑踏の中を歩いていく。


───その間、絶対に後ろは振り向かない。

ここで気を抜いたり振り返ったりすれば、今度は殺傷沙汰になるだろうし、決して無事では済まない。
そんな予感があったのだ。


落とした御守りを拾おうとしゃがみ、件の男と睨み合って歩き出すまで、体感では随分長かったような気がしたが…現実的な時間に換算すれば、僅か三分足らずの出来事だったろう。

しかし、そのほんの僅かな時間。
自分は雑踏の中であの奇妙な鬼と、確かに命のやり取りをしたのだ。


「(どの時点で気付かれていたのか…あの鬼は、人混みの中で確実に私を狙ってきていた、)」


先程起こった信じがたい出来事を反芻すればするほど、全身から嫌な汗が噴き出す。

もしあそこでしゃがんでいなければ、今頃自分の首と胴体は泣き別れる羽目になっていたかもしれない。


ただ単に炭治郎の気を逸らして逃げるのであれば、手を出す対象を絞らなくとも良かったはずであるのに、何故そんなまどろっこしい手段を選ぶに至ったのか。

考えられる理由は幾つかあるが、あの様子だと、やはりこちらが鬼狩りである事を見抜いていたのだろう。


「(でも、私が竃門殿を追い掛けて往来を進んでいた時点で既にこちらを見つけていて、尚且つ鬼狩りであると認識していたとしたって。)」


何故その場で襲い掛かってこなかったのだろう。


考えれば考える程謎は深まり、驚きよりも薄気味悪さが勝る。

それはそうと、あの紅い瞳には『上弦』とも『下弦』とも刻まれていなかったので、数字持ちの鬼ではないようだが…果たして、数字持ちでもない鬼があんなに理性的に物事をこなせるものなのだろうか?

その時───背後から絹を裂くような悲鳴が聞こえ、周囲は俄に騒がしくなった。


「………何だ何だ、喧嘩か!?」


「見てよ…あの女の人の肩から血が…!」


耳をそばだてなくとも聞こえる周囲の人の声にはっとし。

件の妙な気配が薄れたのを良いことに、急いでそちらを振り返ると………既に鬼の姿はどこにもなかった。

あれよあれよという間に出来上がった人集りのせいで、この位置からでは何が起こっているのか知る事は出来なかったが。

直後、自身の耳が炭治郎の吼えるような叫びを拾った。


「………鬼舞辻無惨、俺は、お前を逃がさない!!どこへ行こうと、絶対に……っ!」


底知れぬ恨みと怒りの籠もった声が周囲の音を切り裂くように轟き、浅草の夜闇の中へ解けていく。

しかし、激昂している炭治郎とは対照的に。
今し方発せられた名を耳にした途端、一気に血の気が引いていくのが分かった。


「(きぶ、つじ…?鬼舞辻って……、)」


何故ここでその名が。
彼は何故あの男を鬼の始祖だと言い切れるのか。


しばし混乱したものの。
どうにかこうにか考えぬいた末、ようやっとそれらしい結論が頭をもたげた。


彼の生家が襲撃された二年前のあの日、唯一残った肉親である禰豆子は人ならざる者となってしまった。

年の瀬も近かった雪の降りしきる夜───炭治郎の家には、確かに鬼舞辻無惨がやってきたのだろう。


もし、元より鼻のきく彼が家に残った鬼舞辻の匂いをずっと覚えていたとして。
偶然漂ってきたその匂いを辿っていき、仇であるかの鬼を探り当てた、といったところか。


───些かこじつけが過ぎるような感じも否めないが。
事実として、自分が先程命のやり取りをした際に感じた掴み所のない違和感の正体やら、ある程度の知的な振る舞いやらを総合して一番しっくりくるのは、やはりこれとしか言いようがない。


鬼舞辻無惨というのは、それはもう、気が遠くなる程遙か昔に人間から鬼へと成り下がり『鬼の始祖』として、常に災厄を撒き散らしながら今尚生き長らえ続けている、産屋敷家の血族の名である。


しかし、古い記録によると。

戦国の世の頃。
無惨は、飛び抜けた才を持つ一人の鬼殺隊士によって死の間際まで追い詰められ、命からがら逃げ延び。

…それ以降は、大正の世に至る今日まで、一度も表舞台に姿を現していないどころか、柱といった鬼殺隊の精鋭達ですら動向を探れぬ程、巧妙に姿を隠し続けてきた宿敵であったわけなのだが。


「(…それが、何故今のお館様の代で。それも、柱でもない竃門殿の目の前に現れるなんて。」


戦国の頃から拮抗し続け、決して動くことのなかった状況が動き出したのは喜ぶべき事ではあるのだろうが…それが何だか恐ろしいような気がしたのも確かだ。

混乱と恐怖、喜びと高揚…湧き上がってきた様々な気持ちを一旦捨て置き。
深く呼吸をして、どうにか落ち着きを取り戻そうと試みた。


───考えるべき事や報告すべき事が山積みではあるが、今は目の前の状況を確認するのが先だろう。

自身に何度も言い聞かせるが早いか、炭治郎の居るであろう人集りの中心を目指して足を進める。


左の手に緩く握ったままだった白い貝殻の御守りがチリン…と音を立てていた。


prev / next

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -