桃と鬼 | ナノ
 02

『お前が抱えている諸々の秘密を、義勇に話してみてはどうだ?』

『お前の事情を知り、お前に協力してくれる味方は多いに越した事はない───。』


先生の発した重々しくも正しい言葉の数々が、彼女自身の頭の中を何度も行き来する。

それは、先生と別れ、三日経った今日の日まで。
鬼の首を刎ねている最中であろうが、風呂に浸かって汗を流している時であろうが………何をする時であろうと彼女に付き纏い、片時も離れようとはしないのだった。


前日の仕事の事後処理も終わり。
眠い目を擦りつつ書き上げた報告書を、自分付きの鎹鴉に託して。


…やっぱり、先生からの言葉を頭で繰り返しつつ、百瀬は人が溢れる往来を迷いなく突っ切って、早々に郊外へと抜けていく。

主に鬼殺隊が本拠地を置き、各柱の屋敷が点在しているこの町から、三里程離れた山中。


当然ながら、屋敷なぞ与えては貰えぬ平の隊士の彼女の帰る家は、そんな山の只中にあった。

知る人ぞ知る獣道の真ん中へ立てられた、木製の立て札。
そこへは『隠レ宿、右ヘ五町先二在リ』と書かれている。


つられて右を見ると、木々の隙間からいきなり綺麗に草を刈られた道が現れるので、初めて彼女の家へ来る者は皆一様に驚くものだ。

彼女にしてみれば、最早目をつぶってでも辿り着くくらい通り慣れた道なのだから、注釈なぞ必要ないのだが…立て札に『隠レ宿』とあるように、百瀬の帰って行く家というのは、普通の民家ではない。

文字通り、隠れ宿と銘打って商売をしている温泉宿である。


こんな山の只中。
しかも、足下も悪く、酷い時には遭難者が出る程ひっそりとした場所にある宿であるので、採算を気にする者も多いのだが───どうしてなかなか。

こんな辺鄙な場所にあるという宿の噂を、どこから聞きつけて来るものなのかは知らないが、いついかなる時でも、不思議と人が沢山やって来るものなのだ。


客層は至って様々で『変わり者』と言われる部類の人間から、町の方に住んでいるという若夫婦だったり。

はたまた、東京の方で仕事をしているお偉いさんやら、鬼殺の隊士等々、多種多様な人間が泊まりに来るため、宿に空き部屋がある事の方が珍しい。


彼女からしてみると、わざわざこんな所まで足を運ぶなんて相当な物好きなのでは…と思う事もしばしばあるのだが、結局のところ、彼等が求めているのは、日頃の喧騒から離れられる場所なんだろう。

そこに、金さえ払えば風呂も食事もつくと来れば、こぞってここまで来たくなる気持も分からないでもない。


そんな事を思いながら、がさがさ…と木々の間をすり抜け、歩き続ける事しばし。

温泉の香りと共に、いかにも『お宿でござい、』と言いたげな外観の建物が姿を現し、彼女はほっと息をつく。


…そういえば、ここの主に土産を買ってくるのを忘れたな、と思いつつ、彼女は『御酒草』と仰々しく書かれた紺色の暖簾をくぐる。

実に、二月ぶりの帰宅に胸を躍らせ、彼女は早速、自身の部屋のある離れへ向かった。


***


自分の部屋へ荷物を置き、温泉へ入って汗を流した後。

久しく袖を通していなかった浴衣を着て、彼女はこの温泉宿『御酒草』の主───もとい、自身の三つ下の弟の部屋の前に座り、伺いをたてていた。


「菊次郎、私です…中へ入っても構いませんか?」


返答はない。

しかし、菊次郎が返事をしないのは今に始まった事ではないので、彼女は構わず障子を開け───絶句した。


二月前。
彼女が御酒草を出ていく前にしっかり整理をしたはずの弟の部屋は、見る影もなく。

本来ならば旅館の帳簿に綴るはずの極秘情報が記された紙が散乱し、足の踏み場もない。


おまけに、肝心の部屋の主は、隅に置かれた小さな文机に突っ伏し、ぐうぐうといびきをかきながら深く眠っていた。


「…またこんなにして、」


溜息が出るのは、仕方がない事と思って欲しい。

とりあえず、彼の寝ている場所まで道を作るため、散乱した紙を拾いながら歩いていく。


ようやっと文机に辿り着き、弟の様子を見て、彼女はさらにぎょっとした。


目が悪いからとかけている丸眼鏡は常につけたままなのか、指紋や墨で汚れきり、固く閉じられた目の下には濃い隈。

おまけに、手にはまだ乾ききっていない墨を含んだ筆が握られており、そのせいで、今や彼の顔と文机に挟まれるように置かれた紙に、ぽちぽちと丸く黒い染みを作っている。


どうやら、弟が寝てから然程時間は経っていないようだが、大分疲れて眠ってしまったようであるし、このままでは風邪を引いてしまう。

ふと眺めた奥の間へ、万年床よろしく布団が引かれたままになっているのを認め、彼女は弟をそこまで運ぶ事にした。


「…動かしますよ。」


「…………。」


手に握ったままの筆をもぎ取って硯の上に放り。

彼女よりも大きな体を背負い、引き摺るようにして奥の間へ運び、布団へ降ろす。

一連の動作を終わらせて、どれ、掛け布団を…と、畳の上へ雑に投げ飛ばされたような格好のそれを持つと、なかなかに重い。


「…さては、」


二月前に、百瀬が布団を干してやって以来、一度も布団を外に出していないのでは…?

いや、もしかしなくてもそうなんだろう。

他の布団は、確かそこの押し入れにあったはずだ。
なら、そちらを出してやろうかとも思ったが、止めた。


いつも使っているのであろうこの布団だって御覧の有様なのだから、しまい込まれた布団だって同じ事だろう。

恐らく、やはり彼女が二月前にしまったきり、今の今まで一度も使われぬまま、押し入れで埃を被って…そこまでが容易に想像できたので、苦笑いを浮かべながら、手にしている重い掛け布団を静かに弟の体の上へかけてやる。


菊次郎は、商に関しては間違いなく才覚があるというのに、私生活は何てだらしのない…。
その一言は胸の内にぎゅっと押し込んで。

彼女は何とも言えぬ顔をし、散らばった文机を綺麗に片付けるため、奥の間を出る。


弟が若くしてこんなに仕事を頑張らなければならないのは、百瀬が未だに鬼殺の仕事を続けているからに他ならない。

本当なら、そろそろ鬼殺の仕事から身を引き、弟の手伝いをするべきなのは分かっているのだが───彼女には、そうできないだけの理由があるのだ。


その理由という物は、ややこしく複雑怪奇で。
彼女が今の今まで、同職の鬼殺隊士に話すのを拒み、ひた隠しにしてきた『秘密』と深い関係があった。

弟の菊次郎は、彼女の秘密をよく知っていて、その事に関して理解もある…だからこそ、彼女へ何も言ってこなかったし、彼女も今までその秘密について自分から言及する事は無かった。


彼女の持ち得る秘密というのは、血を分けた姉弟の間ですら『触れてはいけない事柄』として、腫れ物のような扱われ方をしているのに。

───とてもじゃないが、血縁関係も何もない他人様にそれを明かしたところで理解される事なぞないのだ、と。

考えずとも分かってしまうのがまた悲しい。


「(そもそも、明かした所で───。)」


きっと、もうどうにもなりはしない。

残っている時間は、先生の言った通り、きっかり二年しかないのだし…この二年は、これから何をどう頑張ったところで、縮む事はあれど延びる事は決してないのだから。


もし今後、彼女が自分から秘密を他者に明かす時が来るとしたら…それはきっと、彼女自身の死期が迫った時なのだろう。


辿り着いた文机の上へ、憂いを帯びた視線を落として。
そこで偶然目に入った物に、彼女はしばし呆然とする。


墨の滲んだ紙には、今日の採算が書き連ねられており、その隣には、昨日から今日にかけて宿泊している客の名簿が置かれていたのだが。

何とは無しに名簿を眺め、その最期の方にあった名前を見て、息が止まりそうになった。


『冨岡義勇』

冗談かと思って再度そこを見ても、やはり『冨岡義勇』と書いてあって、彼女はいよいよ頬を引き攣らせる。


…ややもすると、同姓同名の別人という可能性もあるかもしれないし。

何事も、早合点するのはいけない。


そう自分に言い聞かせ、一度落ち着こうと頑張ってはみたが。

よくよく考えれば『冨岡』という苗字自体がかなり珍しい物であった事を唐突に思い出し、百瀬は今度こそ溜息をつく。

珍しい苗字に、珍しい名前。
果たして、彼女の知る『冨岡義勇』という男と同姓同名の者なぞ、居るのかどうか。


…どう考えても、この宿泊客というのは、彼女の兄弟子の冨岡義勇本人であろうと断定したところで、彼女は深々と溜息をついた。

今までの方針上、鬼殺隊の知り合いが泊まりに来ている際、運良く自分も帰ってこられた場合は、その部屋まで赴き、近況報告も兼ねて必ず挨拶に行くようにしているのだが。


先生の言葉の通りにする気も沸かず、己の気持も濁っている今。

ほんの少し顔を合わせて話をするだけであったとしても、冨岡と会うのは気が乗らなかった。


───そうは言っても、冨岡はここの常連なのだから。

いくら気乗りがしないと言っても、今後の売り上げの事を考えれば、大人として挨拶くらいはせねばならないだろう。


…本当に、自分のこういう生真面目な所が、時々嫌になる。

文机の上を軽く片付け、百瀬はのろのろと立ち上がり、部屋を出た。


いっそ『彼が今のうちに帰ってくれれば…、』とも思うが、邪な願いほど叶わぬ物はない。

もやもやした気持を抱きながらも、彼女は冨岡が泊まっている部屋を知るため、仲居の姿を探し始めた。


***


久々に会った仲居から、冨岡の部屋を聞き出すべく会話をしてからしばし。

『ついでだから、お夕飯をお持ちして。』と仲居から頼まれ、嫌とは言えず。


結局百瀬は、厨に回ってお膳を預かり、それを持って冨岡の部屋へ向かう事となってしまった。

出来れば接触を最小限に控えたいと思っているのに、何故こうなったのだろう。


やはり、邪な願いを持ってしまったのが良くなかったのだろうか…。

足取りも重く、彼女は長い廊下をひたすら歩き、突き当たりに突如現れる階段の板を踏みしめ、登っていく。


二階には、常連客や上客専用の個部屋がぽつりぽつりと程良い間隔で配置されている。

その最奥。
宿の部屋の中で『一番眺めが良い、』と評判の部屋に、冨岡が泊まってるらしい。


廊下を踏みしめ、障子越しに見える影が近付くにつれ『部屋の中に彼が居るのだな、』というのが分かると、更に足取りが重くなる。


「(あくまで、私は挨拶に来ただけ。それと、仲居の代わりに夕飯を持ってきただけ。)」


失礼のないように。

変な事は決して言わぬように。


これだけを厳守して、後は奥に引っ込んでしまえば良いのだ。

覚悟を決め。
彼女は部屋の中へ声をかける。


「───失礼致します、お夕飯をお持ちしました。」


すう、と音もなく障子を開け、まずはお膳を持ったまま一礼する。

顔を上げると、窓際に備え付けられた文机の前に座り、隊服を着たままで仕事をしていたらしい彼と視線が合った。


「お久しぶりですね、冨岡殿…また泊まりに来て下さってありがとうございます。」


笑顔を作り、月並みにそう言って。

彼女は部屋の中へ入り、丁度中央の辺りにお膳を置く。


「今後とも、うちの『御酒草』を末永く御贔屓にして下さいまし。」


───では、お邪魔をしてはいけませんので、私はこれで。

言うべき事は全て言い切り、さあ奥に引っ込むぞと踵を返した途端。


「百瀬。」


唐突に名前を呼ばれ、彼女は再度冨岡に向き直る。


「…今日は酌をしてくれないのか?」


相変わらず、その綺麗な顔には殆ど表情が無い。

けれど、声の感じからして、どうにも断れない雰囲気を感じ取り、彼女は曖昧な笑みを浮かべた。


そういえば、数ヶ月前。
冨岡が泊まりに来てくれた際、珍しく客が少なかった事もあり、暇を持て余しすぎて───うっかりお酌をした事があったのだ。

その時の気紛れが、今になって自分の首を絞める事になるとは思わなかった。

…それ以前に。
普段は何処に泊まろうと誰にも酌をさせず、一人酒を嗜む事を良しとする彼が、百瀬に対して酌をしろと言ってくるのも意外であったが。


どうにか回避する術はないかと、その凪いだ瞳を覗き込むも、多くを語らぬ口の代わり、その目が『ここにいろ、』と物を言っているのが分かり、彼女は奥に引っ込むのを諦めざるを得なくなった。


「ご希望とあれば、いくらでも───さ、冨岡殿。こちらへどうぞ、」


余計な事を言わず、酒を注いでいれさえすればいいか。

そう思い直し、お膳を置いた所へ彼を呼べば、冨岡はすぐに膳の前へやって来て胡座をかく。


百瀬もその右隣へ座り、徳利を持つと、彼が早速お猪口を差しだしてきたので、杯の八分目まで酒を注いでやる。

それをぐいと煽り、今度は冨岡がお猪口をこちらへ渡してきたので。
徳利とお猪口を交換し、彼が注いでくれた酒を、今度は百瀬が飲み干した。


久々の酒は、喉が焼けるように熱くなる。

少しだけの酒でも顔を赤くし始めた彼女を見て、彼は『弱いのか、』と問うてくるので、そうだと言えば、謝罪が寄越された。


「…少しだけですから、平気ですよ。」


手で顔を仰ぎながら、彼女はそう答える。


「それより…今日は鯛が手に入ったので、鯛飯なんだそうです。冷めないうちに、召し上がって下さいな。」


さり気なく料理を進めれば、彼は言われた通りに鯛飯がよそわれたお椀を持ち、箸をつける。


「───うまい、」


「喜んで頂けたようで何よりです…後で板前にも伝えておきますね。」


そこからは、特に会話も無く。

たまに差し出されるお猪口に酒を注ぎながら、ひたすら冨岡の食事風景を眺める時間が続いたが、彼女は別段それを苦痛とは思わなかった。


元々、彼女自身が、人の食事風景をただ見ているのが好き、というのもあるのだろうが…。
修行時代から通算して、今のところは、冨岡の食事風景が一番見応えがあると思う。

出された物は何でも残さず、それなりに量も食べる。
箸の使い方も良く、美味しそうに食べるので…見ていてとにかく気持ちが良いのだ。


酒が入って気分が良くなったせいもあるのか『早く引っ込みたい、』なぞと思っていたのはどこへやら。

いつの間にか、彼女は笑顔で冨岡の食事を眺めていた。


そうして、お膳の上の料理は残さず平らげられ、徳利の中の酒も一滴残らず飲み干された頃。


「………お前、この間先生の所へ行って来たそうだな。」


珍しく。

それも、唐突に冨岡の方から話を振ってきたので驚いたが『先生は相変わらずお元気でしたよ、』『竃門殿は、手紙の通り、岩を斬る修行を始めていて…妹君は、依然として眠り続けたままのようですね。』と、要点をまとめて話せば、そうか、と簡単に答えが返される。

それきり沈黙が続いたので、彼女は酔いの覚め始めた頭で彼に問いかけた。


「…あの、お膳はお下げした方がよろしいでしょうか?それとも、何かおかわりをお持ちしましょうか?」


「下げてもらって構わない、」


「左様ですか…それでは、お下げ致しますね。」


では、私はこれにて。

空になったお膳を持ち上げ、今度こそ踵を返せば、冨岡はこれ以上彼女を引き留める事は無い。


しかし、酒を飲んで多少緩くなった表情のまま。

百瀬の姿が障子の向こうへ消え、他の客間から漏れ出る灯りに照らされる影だけになっても。

彼は、遠ざかっていく年上の妹弟子の姿を、ただぼんやりと目で追いかけていた。


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