▼ 閑話:桃花
強く、甘い香り。
それに誘われるようにして意識が浮上し、そっと目蓋を開ける。
すると、眼前には信じがたいほど近くに桃の花が見えた。
枝にしがみつくようにして咲いた花の、鮮烈な桃色。
その間から、ごく控え目に顔を覗かせる緑の葉。
それら全てから、むせ返るほど甘い匂いが発せられていると気付くのに、そう時間は掛からなかった。
どうやら、彼女は今。
花が咲いた桃の木の下で、そのどっしりとした幹に、だらりと体をもたれ掛からせているようだった。
続いて、やっとこさ動かした瞳には、自らの四肢が、怪我の無い状態で静かにそこにあるのが分かり、一息つく。
辺りには、摘花されたらしい大量の花や、枝葉が散らばっており、それらは彼女がそこに存在する事を覆い隠すかのように、頭の先から降り積もっていた。
…明らかに人為的な、と言わざるを得ない状況でもあったが、彼女は、脱力した頭のまま考える。
遠い遠い昔。
幼少の砌に伝え聞いた寝物語の中に、死後の世界について語られていた物があった。
『死後の世界は、綺麗な花が咲き乱れ、とても居心地が良い場所。』
『亡くなった者が、そこから一人も帰ってこないのだから、とても良い場所。』
『ずっとずっと、ここにいても良い。浮世になど、二度と帰れなくても構わない。』
『そう思えるくらいには、良い所であるのです。』
今の状況は、不可解な点が目立つものの、これに合致する部分は多い。
もしや自分は、死んでしまったのではないか。
別段、大真面目に寝物語を信じていたわけではない。
けれど、考えれば考える程、分からなくなる。
こうなる前後の出来事が何一つ思い出せないのも。
何がどうなって、自分がこうなったのかも。
今の彼女に理解できる事は何も無かった。
そんな中、彼女は『はく、』と口を開ける。
香りはもう良いから、空気が欲しい。
ただ息を吸うため、ひどく緩慢に開けた自分の口の中は、いやに濃い紅の味がして、顔を顰める。
嫌な味。嫌いな味。
まるで、真新しく買った紅を丸ごと口の中に押し込まれたかのではないか、と思うほど強烈に広がった紅の味に吐き気を催して。
たまらず口を覆った両の手には、あり得ないほど赤く、大量の紅がべっとりとつく。
両手の強烈な赤を目の当たりにし、彼女は俄に焦り始めた。
何?何なの…?
これは?私は、何でこんな風になっているの?
焦りに焦り、遂には呼吸まで止まりそうになったその時。
突如、彼女の両腕が、無造作に。強く掴まれるような感覚があった。
「!!??」
急な出来事に驚き、そちらへ顔を向けると。
今し方真っ赤に染まった自身の手のように、斑に紅を塗りたくった無数の誰かの手が。
彼女の両腕と両肩を、桃の木の後ろから、爪や指を食い込ませるかのようにすごい力で押さえつけていた。
悲鳴を上げて、手を振りほどこうとすると、更にどこからか伸びてきた手が、やはり斑に紅を纏ったまま彼女の顔をがしりと掴み、しっかり固定する。
───もう、滅茶苦茶に紅が着いた顔を歪ませ、彼女は遂に動けなくなった。
それを見計らうようにして、今度は前方から、別の手が飛び出し、空いたままだった彼女の口に。
喉目がけて、棒状の何かを突っ込む。
「………がっ、おぇ…っ!」
喉の奥へ、直に叩きつけられたそれに、また吐き気を催して。
彼女は今度こそ吐瀉物を撒き散らしそうになったが、自身の口の中に入ってきたそれが何なのか認識した途端、目を剥く。
細く、若い桃の一枝。
その、桃色の花がついた方を、喉の奥へぐっと押し込まれていた。
鼻から喉へ抜けるように、甘い桃の香りが口中に充満し、紅の味と相まって、最高に気分を悪くさせてくる。
その上、本来は食する為の物ではない桃の葉の破片や、千切れた花弁が胃の奥へ滑り込んだり、唾液に絡んで口内に張り付いたりするもので、それはもう『酷い有様』としか言いようがなかった。
─────ごぼ、と。
次の瞬間、彼女の口から、一度は胃の中に収まった桃の葉や、花弁の欠片が、胃液と共に今度こそ戻ってくる。
苦しそうな呻き声を漏らしながら吐き出されたそれは、口から漏れ出て、顔の紅と混ざり合い、艶を纏った赤として、彼女の着物へ染みを作る。
それでも、桃の一枝は、彼女の口から抜かれる事は無かった。
その最中、ひたすら嘔吐き、合間に短く息をして。
何度繰り返したか分からなくなる頃、完全に折れそうな心持ちのまま、虚ろな目線を桃の枝へ。
そして、それを握る手の先へ這わせれば、よく見知った顔が、こちらを冷たく見下ろしていた。
「───どう、ざ…、」
───父様。
やはり、嘔吐きながら。
確かにそう言ったのを、聞いていたのか、いないのか。
彼女の父は、静かに口を開き、いつものように厳格な調子で、淡々と言葉を紡ぐ。
「…今ここで、この桃の木に誓いなさい。『今後一切、鬼には負けない。勝ち続ける、』と。」
そうする事で、何か意味があるのか。
仮に、もし誓ったとしたら、何か良い事があるのか。
聞く事は出来なかったし、考えても分からない。
ただ、彼女は、こういう時、どうすればいいのかをよく知っていた。
父の言う事は、絶対だ。
なら、それに従わないという選択肢はない。
とにかく、何が何だか分からなくとも、父に従えば、少なくとも今の地獄のような責め苦が終わる事は確実だろう。
早く。早く、終わって欲しい。
その一心で、彼女はやはり、桃の一枝を口に突っ込まれたまま、途切れ途切れに父の言葉を反復する。
「…こん、ご…いっさい、おにには…まけらい。かし、しゅじゅけ…う………。」
嘔吐き、吐きそうになるのを堪えながら、やっと言葉を言い終わると───何故だか急に吐き気が収まり、強い眠気が襲ってきた。
寝てはいけない。
ここで寝てしまっては、父様に叱られてしまう。
そうは思うが、何か、目に見えない重しがついたのではないかと思う程、急速に意識が暗い場所に沈んでいく。
不思議と、恐ろしくはなかったし、何故か、父からの叱責もなかった。
ただ、終始桃の香りが途切れる事は無く。
今は遠く離れた場所にいるはずの母の啜り泣きが、ずっと聞こえているような気がしたのだ。
prev /
next