桃と鬼 | ナノ
 01

竃門兄妹を師範の元へ送って一年と少し。

春間近で昼も過ぎの半端な時間だというのにも関わらず、一向に寒さの和らがぬ中、百瀬は狭霧山を目指して歩みを進めていた。


…といっても、彼女はわざわざ来たのではない。

数日間任務を梯子して。
昨日の夜半にたまたま狭霧山の近くで鬼の討伐任務があり。
『せっかくだから、師範の元へ顔を出していこう。』と思い立ち、そちらへ足を向けた訳である。


それにしても、師範…もとい鱗滝先生とは頻繁に手紙のやり取りをしているからか、然程離れているような感じはしないのだが。

こうして直に会いに行くのは、兄弟子の錆兎が亡くなって以来無かった気がする。


「(…となると。)」


ざっと頭の中で計算してみて弾き出された数字に思わずぎょっとした。

そういえば、あの頃を境に階級がぐっと上がったこともあり。
任務の合間を縫って手紙こそ返していたが、盆も正月もなく仕事をこなしていたせいで、永らく先生の元へ顔を出す事が出来なくなっていたのだった。


冨岡はどうか分からないが、常に忙しそうに彼方此方を行き来している所を見る限りは、もしかしなくとも彼女と似たような感じでありそうなのは確かである。


往々にして、鬼殺の隊士は最終選別以来、自身を育ててくれた育手の元へは寄りつかなくなる…という話は元から聞いていて。

その時には『師範に対して何たる無作法な…!』なぞと憤慨したものだが、それにはこういうわけがあったのだろう。


腹を立てているいつぞやの自分自身を思い出し、若かったなぁ、と苦笑いが漏れる。

鬼殺を始めて早幾歳。
今では二十歳も過ぎの年の頃であるのに、彼女は未だ死なずに鬼殺の仕事を続けているのだった。


そうこうしているうち、ようやっと辿り着いた家の戸を叩いて小さく声をかけた。


「…ごめん下さいまし。大変御無沙汰しておりました、百瀬です。」


『たまたま近くまで来ましたので、寄らせて頂きました。』

言い終わらぬうち、静かに戸が開く。
中から姿を現したのは、天狗の面をつけた老人…鱗滝左近次その人だった。


「よく来たな、」


『炭治郎は山に出ている。しばらく帰ってはこないだろうから、遠慮無く寄っていきなさい。』


察しの良い一言にほっとしたのも束の間。
彼女は招き入れられるまま、いそいそと敷居を跨ぐ。


そうして中に入るなり、彼女は無遠慮に家の中をぐるりと見渡した。

内装や家具は置き場が変わっただとか、増えた減ったも特にない。

彼女や冨岡が寝食を共にしていたあの時のままで、つい嬉しくなってしまったのだ。


…昔ここで、錆兎殿と大喧嘩をした事があったっけ。

真菰殿から庭先で歌を歌いながら鞠をつく遊びを教わったり、冨岡殿とお互いに苦手なおかずを交換して内緒で食べ合ったりもした。

この家には、いつも鱗滝先生がいて。
時に優しく、時に厳しく………本当に、色々な事を教わったものだ。


ここで過ごした時間はほんの僅かな物ではあったが、どれも昨日の出来事であるかのように鮮明で。

その時々の光景が脳裏に浮かんでは沈んでいく。


兄弟子達や先生とのかけがえのない思い出を懐かしみながら、彼女は口を開いた。


「───お久し振りです、本当に永らく御無沙汰してしまって申し訳ございません。」


…先生がお元気そうで、安心しました。

修行時代とは違う───化粧を施し、紅を引いた落ち着いた大人の顔で、彼女は自身の師範に笑いかける。


先生は何か言いたげであったが、結局それを告げてくるような事はなく。
百瀬を見下ろしながら『任務帰りか?』と問うてくる。

何の気なく頷くと、続いて。


「そこへ座って左足を見せなさい…手当が必要だろう、」


そう言われ、彼女はこっそり溜息をついた。


…上手く隠せていると思ったが、やはり先生にはかなわない。

彼女は先生の言う通り、左足に怪我をしていた。


***


一度は手当を丁重に断ったものの。

あれよあれよという間に上がり框へ座らせられてしまい、結局手当を受ける事となった。

左足に履いていた草履と足袋を脱ぎ。
足首から膝下までを覆うように巻いていた布も取り払い、袴を邪魔にならない場所までたくし上げる。


そうして待っていると。

先生は持ってきた物───ぬるま湯を張った桶や軟膏、白布といった細々とした物品を一旦脇に置き。

彼女の目の前で屈んで、晒された左の素足をまじまじと傷を眺め、一つ溜息をつく。


「…百瀬。」


「はい、」


「………お前という奴は。傷が痛まなかったのか?どうにか塞がりかけてはいるが、かなり深くまで裂けているぞ。」


呆れたような。
けれど、決して叱るわけではない口調で告げ、先生は傷口にそっと触れる。


「これでは歩くのも難儀だっただろう…毎度言っているが、傷の手当てを疎かにするのはいかん。」


…なんならここで縫っていくか?

ありがたい申し出ではあるが、彼女は笑顔で頭を振る。


「いいえ、大丈夫です。近頃、前にも増して痛みを感じないようになりましたし…こんな傷、明日には跡も残らず塞がりますから。」


何でもないように言えば、物言わぬ天狗の面の内側に隠された表情が透けて見えるような気がした。

…その顔は、言わずもがな険しい物なのだろう。


面に空いた二つの覗き穴から『お前はいつもそうだ、』と言いたげな目がこちらを静かに眺めている。

そうしているうちにも彼女の裂傷はゆっくりと。
それも、常人の体ではあり得ないような速度で確実に塞がり始めていた。


彼女の傷の治り具合が異様に早いのと痛覚が鈍いのは以前から変わらない。

修行時代に山中で罠に落ち、片足の骨を折った時も。
丸腰の時に野生動物に襲われ、全身に酷い噛み傷がついた時も。


どんな深手を負おうが、彼女は然程痛みを感じていなかったし、泣く事もなければ喚く事もなかった。

どんな傷であろうと医者いらずで。
患部を綺麗にして三日も経てば特に何の処置をせずとも勝手に治ってしまう───明らかに異常なそれを幾度となく目にしても、先生は他の育手と違い、然程驚かなかった事も覚えている。


そのかわり『お前の持っている授かり物は、些か重すぎるようだな。』と、何かを察したように言って。

先生は百瀬が不本意に傷を負う度傍らに付き添い、大して幼くもなかった彼女の頭を、慈しむようにゆっくりと撫でてくれたのだった。


今までの育手達とは異なる反応をし、彼女自身を大切に扱ってくれる先生を信頼し、傷の治りが異様に早くなり、痛覚が鈍くなった経緯を話した際も。

先生は特に気味悪がる事も無く。
…かといって妙に同情を寄せたり、彼女の置かれている境遇を極度に哀れんだりする事も無く。

いつもの調子で『そうか、』と静かに言って、他の兄弟子達や鬼殺の関係者には、特別な事情や彼女の許可がない限り、この事柄を他言しないと約束してくれた。


長らく浸っていた思い出の淵から這い上がり、剥き出しのままの左足に視線を向ける。

患部にこびりついていた血の塊は綺麗に拭い去られ、笑っているかのようにぱっくりひらいた裂傷に先生特製の軟膏が塗り込められていて。

今は細く裂いた布で、手当の終わった患部を覆わんとしている所だった。


普通ならこれだけでもかなりの痛みを伴うはずなのだが、彼女は顔色一つ変えず、先生の手の動きを見ているだけだ。

…痛覚が鈍い彼女には、これくらいどうという事はなかった。


「お前、幾つになった。」


「今年で二十二になりました。」


「────あと二年か、」


先生の口から苦々しく呟かれた言葉を拾い、彼女は黙って物思いに沈む。


『あと二年』

…簡単に言えば、これが彼女に残された時間であった。


「百瀬。」


再び名前を呼ばれ、顔を上げると。
すっかり手当を終わらせた先生が『お前がどうしても嫌なら、しなくとも良いが…。』と前置きし、口を開く。


「常人よりも遙かに傷の治りが早い事や、痛みを感じにくい事…その他、お前が抱えている諸々の秘密を義勇に話してみてはどうだ?」


「────それは、」


口ごもる彼女に向かって、先生は片付けをしながら話をする。


「今後状況がどう変わるかにもよるだろうが…残りがはっきりしている二年の間、お前は自分一人の力のみで全ての鬼の首を刎ねられる自信があるか?」


「………………………。」


「今のところお前の秘密…桃との契りの件を知っているのは、儂の他はお館様やあまね様。その他ともなれば、悲鳴嶼殿や煉獄殿だけだろう。お前がこれから二年以上の年月を生きる為。お前の事情を知り、お前に協力してくれる味方は多いに越した事はない───いらぬ世話とは思うが、今日からはその辺りをよく考えて立ち回るようにしなさい。」


「…………はい、」


消え入りそうな声で返事をし、彼女は俯く。

彼女自身が抱える多量の秘密。
師範からその核心に触れるような忠告を受け、百瀬は表情を曇らせる。


───先生が言う事は正しい。
至極正しいし、提案された手段はこれまた至極真っ当で非の打ち所がない。

たくし上げたままだった袴を下ろし、足袋を履いて。
裾を元のように上手く窄めて足首から布を巻きつつ、彼女はそっと目を伏せた。


自分の抱える秘密は、人に伝えるには余りに重く鬱々としていて…とてもではないけれど、それを事実として受け止めるには並以上の度量が要る。

そもそも、勇気を振り絞って打ち明けたとて。
一般の感覚として『頭のおかしい女』扱いされるのは目に見えているから、尚の事他者に秘密を話すわけにもいかなければ、変に興味を持たれて秘密を暴かれるわけにもいかない。


「(先生の仰る事は最もだし、兄弟子の冨岡殿には伝えておくのが筋なのかもしれないけれど……。)」


『きっと今は、まだ言うべき時ではない。』
『だから冨岡殿に会っても秘密は話さずに、いつも通りにふるまおう。』

自分自身にそう言い聞かせながら立ち上がり、彼女は夕餉の支度を始めた師範を手伝うためにそちらへ足を向けた。

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