▼ 閑話:桃と水面
『藤襲山での最終選別の折、貴殿の兄弟子である錆兎が亡くなった。』
共に修業時代を過ごした兄弟子の訃報が届いたのは、突然の事だった。
百瀬が鬼殺隊に入って半年と少し。
鬼の首を日夜刎ね続けた結果、ついこの間、下弦の鬼の単独討伐もやり遂げるに至った。
そのため、お館様の屋敷へ初めて招待され。
活躍を褒める言葉をお館様から直々に頂いた後、自身の階級が甲へ上がった事を聞いた───その直後に届いた知らせ。
それは、華々しい活躍を見せていた彼女を失意のどん底に突き落とすには、充分すぎる出来事であった。
お館様の屋敷から遠く離れた狭霧山の麓にある師の家まで駆け付ける途中に、追いかけてきた鎹鴉が教えてくれた話によると『一緒に最終選別へ行った義勇は、他の候補生に抱えられ、どうにか生還したようだ。』という事らしいが。
涙を堪えながら『嘘だ嘘だ嘘だ…!』と心の中で唱え、夜明け前の薄暗い道をひた走る。
あんな知らせ、嘘に決まっている。
錆兎殿は、藤襲山の鬼なんかよりも余程強いはずなのだから…!
ともすれば、これはきっと悪い夢だ。
私はきっと、最近任務続きで疲れすぎているから、長くて質の悪い夢を見ているに違いない。
鱗滝先生のいる、狭霧山のあの家に帰ればきっと。
錆兎殿と、義勇殿と…それから、真菰殿だって『お帰り、』と言って。
先生と一緒に、何でもないような顔で出迎えてくれる。
「そう…きっと、きっと………!」
自分に言い聞かせるようにしながら狭霧山へ辿り着いたのは、太陽が山から顔を出し始める頃だった。
隊服には汗が染みこみ、夜中からずっと走り通しだったためか、肺が悲鳴を上げ、口内には唾液と共にねっとりとした血の味が広がる。
は、は、と。
浅く、獣のような呼吸を繰り返しながら、彼女はかつて自身も住まっていた家の戸を夢中で叩く。
「…ごめん、くださいまし。朝早くから、申し訳ございません。百瀬です…!」
言い終わるか、言い終わらないか。
間髪を入れず戸が開けられ、中から天狗の面を被った老人が姿を現した。
久しぶりに見る、鱗滝先生の姿。
…しかし、錆兎達の姿は何処にもない。
暗い家の中を先生の体越しに覗き込んでいると、不意に先生が口をきく。
「…お前、まさかお館様の屋敷からずっと走ってきたのか?」
「はい…もう、居ても立っても居られなくて…!それで、錆兎殿は、今どちらにいらっしゃるのですか?」
そう問えば、先生が息を飲んだのが分かる。
「先生、どうか錆兎殿と義勇殿に会わせて下さい。私、お二人に…勿論、真菰殿と先生にも、聞いて頂きたい事があるんです。私、この度下弦の鬼を単独討伐出来たので、階級が一度に甲まで上がって…早く、早く兄弟子殿達と先生にご報告したくて、ここまで走って参りました。ですから…ですから……っ!」
今までに無いほど矢継ぎ早に。
それも一方的に話した挙げ句、とうとう息が切れて話が出来なくなったのを見計らって、先生は重々しく口を開いた。
「───百瀬。既に聞いてはいると思うが。錆兎は、最終選別で生き残る事が出来なかった。無事に帰ってこられたのは、義勇一人だけだ。」
「……………!」
あまりに淡々と告げられる言葉を受け止めきれず、百瀬は目を見開いたまま立ち尽くす。
「そんな………先生まで、何でそんな酷い嘘をつくんです…?」
「気持は分かるが、これは現実だ。」
その言葉を聞いて、ぽろ、と。
自身の瞳から、熱い涙が零れた。
「錆兎殿が、亡くなったなんて…そんな事、あるはずが………!!」
「…百瀬。」
宥めるような先生の声も、今ばかりは聞き入れられなかった。
「だって…そんな………!錆兎殿は、私よりずっと強かった…才覚も技量も、私よりもずっとずっとあって。最終選別が終わったら、鬼殺隊に入って…きっと、柱にまでなれるような方だったのに…!」
「……百瀬、もう良い。」
これ以上話してはお前が辛くなるだけだ。
また口を開こうとした矢先、それを遮るようにきつく抱き締められる。
…けれど、一度勢いのついてしまったものはどうにも止められず、彼女は尚も涙で顔をぐしゃぐしゃにし、しゃくり上げながら言葉を続ける。
「だって、おかしいわ。こんなの、おかしいですよ、先生…錆兎殿は私の兄弟子でしたが───彼は、私より…3つも年下の男の子でした。何もかも『これから』の方だったのに…!」
どうして、錆兎殿が。
どうして、死んでしまったの────!
生まれて初めての悲痛な絶叫。
それを殺すように百瀬をきつく抱いて、鱗滝も静かに泣いていた。
***
「…あ、百瀬。お帰りなさい。」
義勇と錆兎が使っていた部屋の前で真菰と出会い、まだ涙の跡の残る顔で『お久しぶりです、』と頭を下げる。
「錆兎の事は、もう知ってる…よね。」
伏し目がちに問われ、頷くと、彼女は無理に笑って、強引に話題を変える。
「そういえば、百瀬。階級が甲に上がったんだってね…おめでとう!」
本当によく頑張ったね。
自分より年下の姉弟子の気丈な笑みにほんの少し励まされたような気がするが、うっかりするとまた涙が零れそうになるので口を引き結んでいると『もう…そんなに噛んだら唇が切れちゃうよ。』という言葉と共に、彼女の小さな手が百瀬の頬へ伸ばされる。
刀を握る者として多少の硬さはあれど、何処までも優しい手の温もりに安心して『義勇殿は、今どちらへ?』と問えば、彼女は無言で部屋を指差した。
「…義勇、今凄く落ち込んでて。ずっと部屋から出て来ないんだ…ねえ百瀬。義勇としばらく一緒に居てあげてくれない?」
私が何か言うよりも、義勇は百瀬が一緒に居てくれた方が喜ぶと思うから。
そう言って、にこりと。
花が咲いたような笑みを浮かべ、真菰はどこかへ駆けていってしまう。
彼女を呼び止める間もなく一人取り残された百瀬は、固く閉じられた部屋の戸へ向き直り、姉弟子の頼みを引き受けるべく、そっと声をかけた。
「義勇殿、私…いえ、百瀬です……そこにいらっしゃるのですか?」
返事はない。
「中に入っても、構いませんか?」
やはり返事は無かったが『開けますよ、』と声をかけて戸を引くと。
締めきられた真っ暗な部屋の隅に、膝を抱えて小さくなっている義勇を見つけた。
「───義勇殿、」
再度名前を呼ぶと、泣きすぎて腫れた目が、酷く気怠そうにこちらを見る。
「隣へお邪魔しても、良いでしょうか?」
「……………。」
虚ろな彼の瞳は、しばらくこちらを凝視し。
拒否も許可も示さず、彼の白い膝へと伏せられた。
「失礼します。」
ひやりと冷たい部屋の中へ体を滑り込ませ、かたん、と後ろ手に戸を閉める。
そうして、一歩。
また一歩と義勇の元へ近付く度に、肌が粟立つような悲しみが押し寄せて来るようで、こちらも潰れてしまいそうだった。
百瀬が義勇の目の前に膝を着くと、彼は不意に顔を上げる。
「……百瀬。」
「何でしょう?」
暗がりでもはっきりと見える、泣き腫らした顔。
名前を呼ばれたので、極力静かに答えれば、次の瞬間。
「……百瀬、どうしよう…俺の、俺のせいで、錆兎が、死んじゃった………!!!」
鬼気迫る様子でそう言ったかと思えば、彼は嗚咽を漏らし、ぼろぼろと涙を流す。
「俺の、せいだ…!俺が、弱かったから…!」
幾度も幾度も繰り返されたであろう言葉は、どれも悲しげな気持が込められているのが痛い程伝わってくる。
そのうち、義勇はまだ小さな体をより一層縮こまらせ、声を殺して泣き出す。
まだ幼い少年の肩が細かに震え。
止まらないその嗚咽が、水底へ沈んだように暗い部屋へ吸われていくようだった。
暫くのうち、今にも涙が溢れそうな瞳で義勇を眺めていたが、迷いに迷った末。
彼女はそろりと義勇の方へ躙り寄り、自身の体の半分を、彼の半身へそっとくっつける。
嫌がられもしないかわりに、反応もない。
けれど、服越しに伝わる双方の体温で互いの存在を認識しながら、しばらく物も言わず、そうやって過ごした。
『きっと今は、何を言っても義勇の耳には届かない。』
『けれど、ただ一緒にいる事は出来る。』
真菰は、そう言いたかったのかも知れない。
隣の彼の押し殺した泣き声を聞きながら、ふと部屋の中を見ると───使い込まれた文机の上に、錆兎が着ていた着物が綺麗に畳んで置いてあるのが見えた。
それを見てすぐ『ああ、錆兎殿は、本当に居なくなってしまったんだな。』という感じがして物悲しくなり、また頬を涙が伝った。
続いて、また義勇の方から聞こえてきた『俺のせいで錆兎が死んだ、』という言葉に頭を振る。
「(義勇殿は、悪くない───何も悪くない。)」
…お願いだから、そんな悲しい事を言わないで。
自分より3つも年下の兄弟子に寄り添いながら、彼女は何度も何度も同じ言葉を心の中で繰り返す。
しかし、ついぞ百瀬の口からは、その言葉が出て来る事は無かった。
───どうしても、言えなかった。
***
それからしばらくして。
鬼殺隊に入った義勇は、人が変わったようになった。
具体的に言うなれば、依然と比べてめっきり無口になり、ほとんど感情を表に出さなくなり。
『真菰が最終選別で命を落とした、』と聞いた折にはもっと言葉少なになり、どんなに話しかけたとしても、彼はただ黙っている事が多くなった。
彼が急に大人びていく様を間近で感じながら、いつの間にやら、百瀬も彼を名前で呼ぶのは止め、ただ『冨岡殿』と呼ぶようになる。
昔のようには話さなくなってから暫し。
然程変わりの無かった二人の身長差が開き始めたのと同時に、関係も少しずつ変化していたように思う。
その間も、彼は錆兎の形見である着物と自身の着物とを半分ずつ縫い合わせて一つにした物を羽織として身に纏い、日夜黙々と鬼を狩り続け。
さらに数年後。
彼はついに百瀬を追い抜き、水柱となる。
その頃には、友人の死を悼み、百瀬よりも小さかった体を震わして泣いていた少年の姿は何処にもなく───凪いだ瞳で鬼を見据え、水柱として淡々と任務をこなす青年の姿があった。
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