∴『彷徨』/歌仙兼定(中)


宗三と御手杵の二人と別れて歩き始めてから、いくらも進まぬうち。

歌仙は何人もの男士に話しかけられ、立ち止まる事を余儀なくされたた。


流れは、飽きるくらいにワンパターンで。

すぐ近くで、自分とは似て非なる『歌仙兼定』を見た、という話をされると共に『怪我をしていたようだが、大丈夫なのか?』『話終わったらすぐ、霧みたいにふわっと消えたけどさ。あんた、最近霊力足りてるのかい?』『やけに主の事聞いてきたけど、主と何かあったわけ?』というような具合に誰からも心配そうに質問されるので、それらを無下にするわけにもいかない。


妙な誤解が広がるのは避けたかったし、下手をすると有事になりかねない出来事であるというのに、身内に黙ったままというのもどうなんだ、という意識が働き、律儀に何度も説明を繰り返した結果。

…宗三と御手杵と分かれた所からは、さほど距離がないはずの青江の部屋まで行くのに、やたら時間がかかってしまった。


のろのろと歩きながら、流石にもう誰にも話しかけられないだろうね、等と、びくびくしてしまう。

極力物音を立てぬような足運びになってしまうのは、仕方が無い事だろう。


忍びの者、というのは、こんな心持ちであるのだろうか。

何となく考えて数歩行った所で、歌仙はようやっと辿り着いた部屋の障子にそろそろと近寄り、伺いを立てる。


「…青江、居るかい?」


囁くように。

閉じられた障子越しに声をかけると『心配しなくても、ちゃんと中にいるから、適当に入っておいでよ。』という青江の声が飛んでくる。


それに安心して、遠慮なく障子を開け、部屋の中へ足を踏み入れると、青江は隅の方の柱にもたれ掛かり、一心不乱に正六面体の玩具…ルービックキューブとかいう名前のパズルをしつつ、歌仙を出迎えてくれた。


「おやおや、随分と疲れた顔をしているねぇ…ま、何となく君が『どうしてそんな事になっているのか』おおよその状況は分かっているけれど。」


その名に違わず、口角を緩やかに上げて。
にっかりと笑いながら、彼はこちらを見やる。


「……なら、話は早い。」


あまり雅ではないけれど、何分事態は急を要する。

これは仕方のない事、これは仕方のない事───と。

さり気なく自分の中で短く弁解し、青江の近くに移動するが早いか。
歌仙は、畳の上に胡座をかいてどっかりと座り込む。


「いきなり尋ねてきて不躾だとは思うけれど、単刀直入に行かせてもらうよ…つまるところ、皆が見た僕ではない『歌仙兼定』は、青江からすると、一体何に分類されるんだい?」


まどろっこしいのは好きではないので、早々に話を切り出せば、青江は笑みを崩さずに答える。


「君、大胆だよね…話の事だよ?」


いつもの調子で事もなげにそう言った後。

青江は、こちらの発言を見越した上で、言うことを用意していたかのように、すらすらと話し出した。


「ざっくり言うと、君じゃない『歌仙兼定』の正体は、君が考えているような『良くないアレ』ないし、夏にふわふわ流れてくる『招きたくないタイプのお客さん』の部類で合っているかな。どの時点でそれに気が付いたかは知らないけど、真っ先に僕の所に来るなんて…。」


いつにも増して、冴えてるね。

にこにこと褒めてくれるのは良いのだが、正直全く嬉しくない。


青江の使った『冴えてる』という表現は、そういった者達の気配を感じ取る力がある…もしくは、人間で言うところの『少なからず霊感がある』事を指しているのだ。


ちょっと補足をさせてもらうと、歌仙は幽霊や怪異の類を完全に否定する部類の刀剣男士ではない。

主の持つ霊力に依存するとは言え、刀の付喪神である自分達が肉の器を得て、ごく自然に存在出来ているのだから、幽霊や怪異が存在していてもおかしくないだろう…という考えを持っている。


正直なところ、読み物としては、怪異現象も幽霊もそれなりに面白いと思うクチではあるが、いざ『自分がその現象に関わる』ともなると、また話が違う。


実生活に置き換えると、万一そういった現象やおかしな輩に遭遇した場合は、極力自分からは向こうに関わらないように努める他ないし、向こうからちょっかいをかけられても、見えぬ聞こえぬを貫き通し、無視するに限る。

もし、やんごとなき事情が発生し、怪異と関わらざるを得ない状況ともなれば、こちらの被害をいかに最小限に抑えつつ、どう事を収めるか目一杯考えなくてはならないから。


───過去に本丸で起こった怪異騒ぎの苦い経験が蘇り、歌仙は渋い顔で溜息をつく。

よもや、あの時のしくじりが、確実に今まで尾を引いていると思うと、どうにも笑えなかった。


「…お褒め頂き、大変光栄だよ。」


皮肉ったつもりで言ったのだけれど、青江は素知らぬふりで更に笑みを深くした。


「気に入って頂き、こちらこそ光栄さ。この際、君も幽霊退治の逸話でも作っておくかい?刀たるもの、逸話はあればあるほど誇らしい…ってね。」


彼的には軽い冗談のつもりなんだろうが、こちらとしてはとても洒落には聞こえない上、はいそうですかと青江の言うとおりにして、自身の逸話をうっかり増やしたくもない。

歌仙は頭を振り、緩やかにその提案を拒否する。


「…それはそれとして。僕はね、一刻も早く今回の件を片付けたくてたまらないんだが。君、何か打開策があるんじゃないのかい?」


さっきの口ぶりじゃ、君も、もう僕じゃない僕を見ているんだろう?

急かすように言えば、彼は困ったように笑って、手の中のルービックキューブをがちゃがちゃ動かしながら話し始める。


「相変わらずせっかちだねぇ…君。そんなに焦らなくったって、もちろん打開策はきちんとあるし、僕は多分、この本丸の誰より先に君じゃない『歌仙兼定』と会っているよ。」


さらりと寄越された言葉の中には、明らかに不可解な部分がある。

それを、どうがんばって理解しようとしても理解しきれない事に気が付いた途端、歌仙は易々と白旗を上げた。


「ちょっと、待ってくれ…『一番最初に』って、どういう事だい?それに『会っている』という表現も、あまり適切とは思えないんだが…その辺り、出来るだけ分かりやすく教えて欲しいな。」


一瞬混乱しかけた頭を整理しようと、反射的に青江に説明を求めると、彼はぴたりと動きを止めて、黙りこくった。

その露骨な動きに、こちらがびっくりしてしまう。
…同時に、これは確実に何かあるな、という予感がして、一気に緊張が高まる。


そうこうしているうち、青江はルービックキューブを畳の上に放り、真顔でこちらに向き直り、すっと居住まいを正す。

常日頃から薄らとたたえられたその笑みが消えたのと同時に、先程までの気安い雰囲気は霧散していた。


それにつられ、歌仙も胡座から正座に足を組み替えて座り、急いで居住まいを正して、神妙な面持ちのまま青江を見やる。

…彼は、たっぷり間を取って重々しく口を開いた。


「───今回の件は、僕が悪いんだ。まずは、最初に謝っておくよ…大変申し訳ない。」


いきなり謝罪したかと思えば、彼は自身の膝の前に手をつき、額が畳に触れるのではないかと思うくらい、深々と頭を下げる。

結い上げられた彼の長い髪が、頭の動きに従ってぬたりと畳の上に広がり、艶のある深緑の髪は、まるで切り倒された直後の柳の葉のように見えた。


「…青江、その、頭を上げてくれ。」


あまりに深々と頭を下げられてしまった事にやや恐縮しつつ、そっと声をかけると、彼はほんの少しだけ頭を上げる。

その拍子に、普段は片目を覆い隠すためにかけられた髪がさらりと流れ、夕日を零したような右の赤と、金色とが、こちらを上目で見つめていた。


「君が今回の件について申し訳なく思っている事はよく分かったよ。ただ…もう起こってしまった事は仕方がない。」


もし『思い出したくない、』とか、特殊な理由がないのなら、詳しく経緯を教えてもらいたいんだが。

そう声を掛ければ、青江は少々意外そうな顔をして体を起こし、また右目を覆い隠すように髪を分け、丁寧に耳にかける。


「意外だなぁ。謝った途端に、僕の首と胴体は泣き別れるものとばかり思っていたけど。」


とりあえず山場を超えて安心した後、何気なく漏れてしまった一言だったのだろうが。

彼の一言は、まさに『蛇足』だった。


「…君ねえ、」


そういう所だよ。

短く息を吐き、歌仙は目をつり上げる。


「大体、君は僕を何だと思っているんだい。それとも、いっそ本当にそうなりたかった、とか?」


それが望みなら、あまり気は進まないが…本当に叶えて差し上げようか?

刀としての本性を剥き出しにしながら早口で畳みかけるその様子は、明らかに怒っているときのそれで。

青江は『穏やかじゃないなぁ、』とぼやいて、困ったように笑いながら再度口を開く。


「僕としては、それは是非ともご遠慮願いたいね…さて、そろそろ本題に入ろうか。」


歌仙のじっとりとした目線をものともせず、強引に話題を変えたかと思うと、彼はまた話し出す。


「結論から言うとだね、件のアレ…君ではない『歌仙兼定』を本丸に引き入れてしまったのは、多分僕で間違いない。」


途端に、歌仙の額には皺が寄る。

青江が、件の『歌仙兼定』を本丸に入れてしまったのは、まず良いとして。

あの青江が、そう易々とおかしな者を本丸に入れるわけがない───前提としてそれがあるから、彼の発言は尚々おかしく思える。


明らかに困惑したような感じが表情の端に出ていたのか、彼は、言葉を発しようと薄く口を開いた歌仙を手で制す。

そうして、どこか落胆したように溜息をついた。


「…わざわざ言ってくれなくたって、君が何を考えているのかは大体分かっているよ。」


『にっかり青江に限って、そんな事は…。』って言いたいんだろ?

思った事をぴたりと言い当てられ、歌仙は表情を変えずに首を縦に振る。


「僕だってそう思うよ?普通ならね。一番最初に彼に接触しておきながら、みすみす取り逃した…というのも未だにショックだし。でも、これに関しては僕も驚いているんだ。」


僕は、普通のと普通じゃないのを見分ける事に関しては割と得意な部類だし。

普通、そういう類の者は、僕を見た途端にそそくさと逃げていくからね。


『普通は。』
ここは大事、と思ったのか、彼は同じ言葉を繰り返す。


…怪異が青江に遭遇した途端に逃げ出す所など見た事がないが、彼がこれだけ念押しして言うのであれば、きっと本当なのだろう。

いや。
よく考えなくとも、どんな怪異であれ、いざ『幽霊を斬った刀と遭遇した、』となれば、向こうの感覚として、逃げるのは当たり前なのかもしれない。


───というか、自然の法則に違わなければ、怪異であろうが付喪神であろうが。
自身にとって不得手な相手が来れば逃げる、というのは、ごく当たり前の事のように思えるが、実際どうなのだろうか。


「それにしたって、君がこの手の者を取り逃すなんて珍しいじゃないか。もしかして、初めてなんじゃないかい?」


「………もしかしなくてもその通りなんだよねぇ、」


眉根を寄せ、どうしたものかな、と溜息をつく彼は、心底落ち込んでいるようであった。


「そういえば…今更になってしまって悪いんだけど、よければ詳しい経緯を説明させてもらっても?」


あんまり、興味はないかもしれないけど…。

やけにしおらしく言って、青江はこちらを見据える。


「確かに、その話はまだだったね。出来る限りでいいから、細かく教えてくれれば助かるよ。」


そう言ってすぐ。
窓から差し込んでいた西日が急に強くなり、目の前に座ったままの彼の半身を茜色に染めて、畳の上に長く細い影を落とす。

その妙な眩しさに目を細めて『話すなら、少し向きを変えないか?流石に眩しいよ…。』と発語しようとしたその時。


───歌仙が背にしていた障子に、ばん、と何かが思い切りぶつかるような音がした。

言わずもがな、歌仙はすぐに障子の方を振り返った…しかし、そこにぶつかったはずの誰かの影は見えない。


ぶつかったことが恥ずかしくて、すぐ隠れたのだろうか?

…それとも、誰かが盗み聞きを?


まあ、どちらにせよ。
その行動事態は、ほめられたものではないのは確かだ。


「…誰だい?そこに居るのは。」


怒ったりしないから、出ておいで。

出来るだけ優しく。
落ち着いてそう告げたつもりではあったが、音の主は一向に姿を現さない。


「……………。」


出て来づらいのか、とも考え、しばし待ってはみたが、やはり音の主は姿を現さなかった。

それにしても妙だ。
逃げて行くにしても、足音くらいはするはずなのに。


まさか、廊下から一飛びで中庭へ行く…なんて芸当は、一部の短刀にしか出来ないだろう。

大体、音の出所からして、短刀や脇差や剣。
それから、大太刀や薙刀…といった男士は、どう頑張っても、先程音のした箇所に頭や体の一部を器用にぶつけるのは不可能だ。


そこから推測するに、障子にぶつかったと思われる男士は、打刀か太刀で間違いない。


「…本当に、誰も居ないんだね?」


念押ししたが、やはり返事はなかった。

仕方がない。
歌仙は溜息をつき、そっと立ち上がって障子の方へ近寄ると、少しだけ障子を開けて廊下を眺め回す。


「(誰も居ない…。)」


てっきり、その誰かは上手く隠れてやり過ごすつもりなのかと思ったから見てみたけれど、どうやら違ったようだ。

壁に張り付いて頑張っているくらいなら、まだ可愛げがあるというものだが。


「…さっきの音、一体何だったんだろうね?」


君はどう思う?

障子を閉じながら、何気なく。
後ろに居るはずの青江に聞いた…はずだった。


彼は、何も答えなかった。


さっきまであんなに話していたのに…いきなり黙るなんておかしいな、と思ったのも束の間。

いつの間にやら、部屋の中の空気は重く沈んで淀み、自分の息が上がっていた事に気が付く。


まるで、長らく放置され続けた埃っぽい屋敷に足を踏み入れたかのようだった。

は、は、と浅く息をしながら、自分の身に何が起こっているのか把握しようと頭を巡らせていると、何処からともなく、何かの匂いが漂ってくる。


「(…いいや、これは。)」


漂う、というよりか、むせ返るくらいに強く匂う、と言った方が正しいだろう。

けして嫌いな匂いではない

けれど、香りの出所たる者の歩いた所が分かるくらいに焚きしめるのは、好ましいとは言えない。


鼻がおかしくなるくらいに、甘く強い白檀の香り。

あまりに濃いその香りの影へ隠れているのは、血と硝煙と汗の…戦場の匂いだ。

一応は平和が約束されている本丸には相応しくないその匂いに眉をひそめて。


青江の居る方を振り返ってすぐ、心臓が止まりそうなくらいに驚いた。

───そこに、青江の姿は無かった。


そのかわり、傷んで所々が擦り切れた着物を纏い、全身傷だらけの。
自分ではない歌仙兼定が、俯き、置物のように座っている。


俯いているせいもあるだろうが、下ろした前髪に隠され、顔はよく見えない。

けれど『まともな顔などしていないんだな、』と直感して、寒気がした。


宗三や御手杵。
はたまた、他の男士達から聞いた特徴と合致する点が多く、ああ、これが件の…とすぐ分かった。

分かったのだが『百聞は一見にしかず、』とはよく言ったもので、自分が想像していた物より、禍々しく、おぞましいそれが、心底恐ろしいと思った。


普通なら、うっかりこの類の者を見つけたとしても素知らぬふりをしてやり過ごせるのだが、今回ばかりは違う。

これは、だめだ。
早く逃げなければ、本当にまずい。

何はなくとも、雰囲気で分かってしまうのが恐ろしい。


肌を刺すような不気味な威圧感。
止まらない鳥肌に、冷や汗と悪寒。

自身の本能が『この輩には、決して触れてはならない。』と、全身全霊で告げている。


それにしても、傍に居るだけでこうなるのだから、他の男士も、出くわした途端に『これはよくない者だな、』と分かりそうなものだが。


…とにかく、僕が奴の視界に入る前に。

奴が、僕の方へ手を伸ばしてくる前に。


歌仙は、青ざめた顔で障子の方へ向き直る。

奴と変に関わりが出来る前に、すぐ逃げなくては。


早く早く、と。
頭では思っているけれど、極力音は立てないように。

障子を押し開け、膝を立てて、いざ廊下へ飛び出さんと構えた直後。


「……………は、」


信じられないような光景が眼下に広がり、腑抜けた声が喉の奥から這い出た。

障子を開けた先には、先程まで青江が居たであろう場所に座っていたそれが、いつの間にやら廊下に立っていた。


…そんな、馬鹿な。

声にこそ出さないが、脳内が一瞬でその一言に占拠される。


───最早、背後を確かめる気力は残されていなかった。

ここまで来たら、もうしようがない。


腹をくくり、下からその顔を覗き込むと、自分とよく似た紫色の髪の隙間から、焦点の合わない濁った翡翠が見えた。

しかし、目線を合わせようとする歌仙とは対照的に、それはこちらが下から覗き込んでいる事にも気が付いていないのか、完全なる無表情のまま、右に左に、と、不自然に視線を彷徨わせている。


その一連の流れを見て、歌仙はぼんやりと『ああ、これは目があまりよくないのか、』と思った。

続いて、まじまじと体全体に着いている傷を眺めてみると、確かに戦場で着いたであろう刀傷もあるが、そのほとんどは痣や擦り傷ばかりだ。


…やはり、目が良くない、というのは当たりかもしれない。

大方、あちらこちらに体をぶつけながら移動をしているうちに、このような有様になってしまったのだろう。


もっとよく観察しようと相手に躙り寄ると、それは覚束ない手つきで辺りを探り出した。


「(…気付かれたか、)」


迫ってきた手を避け、緩やかに後退すると、それは初めて口を利く。


「誰か、だれか、そこに居るのか…?」


自分とよく似た声が、問いかけを投げる。

答えずに、黙っていると、それは明らかに焦ったような口調で捲し立てる。


「…居るなら、教えて欲しい。主、主は…僕の主は、今どこに居るんだい?」


「………………。」


「あぁぁ…主、ある、じ…君、きみ…きみ、一体、何処に行ってしまったんだい……僕の、ぼくの主…!!!!」


『主』『君』という単語を出した途端に、それは明らかに様子が変わった。

そこに居るだけでも、十分に恐ろしい…と思ったけれど、主を指す言葉を口にした途端、ぞわり、と。


勢いよく息を入れた風船が、いきなりぶわ、と膨らむように、嫌な感じがどんどんと増していった。

目の前のそれからは、主に対する忠誠心…というよりかは、執着心が恐ろしい程に強く感じられて、また鳥肌が立つ。


…というか、この執着心は、大勢の者の一つ一つを重ねて練り上げ、無理矢理一つにに纏めたように感じられて、歌仙は顔を顰めながら、またそろそろと後退する。


「(…なんなんだ、これは。)」


確かに、見た目は一人。

しかし、これは。
この並みならぬ執着心は、本当に目の前の歌仙一人だけの物であるのか。


ゆっくり考える猶予があれば、また違った考えが出てくるのかもしれないが、そう悠長な事は言っていられない。


ゆっくり、ゆっくりと後退する歌仙。

その時、僅かに生ずる音を頼りに、よろよろとこちらへ近寄ってくるそれ。


気が付けば、歌仙の背中には襖が当たり、もう逃げ場はない。

目の前に迫ったそれは、『あるじ、あるじ…、』と呟きながら、こちらに手を伸ばして。


冷や汗で薄ら湿った歌仙の顔の輪郭をするりと撫ぜて───その拍子に、それの着物の袂から、からん、と何かが落ちた。


そんな事をしている場合ではない、とは思いつつも、反射的に音のした方へ目を向けると。

畳の上に落ちていたのは、銀縁の丸眼鏡だった。


刹那、歌仙の脳裏で何かがむくりと頭をもたげる。


あの銀縁の丸眼鏡は、どこかで見たことがあった。

勘違いなんかじゃない。
絶対に、僕はどこかで、この眼鏡を見たはずだ。

…ああ、でも。
一体、これ最後に見たのはいつ頃だったか。
はたまた、誰の持ち物であったのか。

どうしても思い出せなかった。


そのうち、自分の首に、ぐっ…と強い力がかかり、苦しいと思う間もなく、意識が霞んでいく。

しまった、と思いながらも、首を絞めてきたそれの顔を睨み付けると、それは濁った翡翠を更に暗く澱ませて、小さく吐き捨てる。


「僕は…………君が、とても羨ましい。そして、同じくらい憎らしい。」


…とてもとても、小さな声だった。

いつまでも迎えに来ない親を待つ幼い子どものような、今にも泣きそうな調子の声。


けれど、歌仙の耳は、それが発した一語一句を全て拾い上げ、妙にはっきりと聞き取る。


『一体、どういう事なんだい…。』

言葉を発する前に、歌仙の意識は完全に落ちた。




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