∴『彷徨』/歌仙兼定(上)


蝉の声が飛び交い、陽光はさんさんと降り注ぐ。

人の身を得て数年が経つ今でも、毎年…というか、景観を変える度に訪れる暑さはどうも苦手だ。


夜は、庭先に蛍が飛んでなかなか風情があるし、昼間はどんな暑さの元でも上を向き続ける向日葵の姿を目に出来る。

歌を詠む為の材料に事欠かない、という点だけを見れば、夏自体は嫌いではないけれど。


「……………はぁ、」


垂れてきた汗を乱暴に拭い、雅でない事この上ないが、ぱたぱた、と自らの手を動かして団扇の代わりにする。

ぬるい風が起こり、幾らか暑さはましになった…気がしただけで、更に汗が出てくる始末。


───夏の唯一の難点は、この暑さに他ならない。

加えて、毎日毎日。
こうも暑くては、どうしたところで結局苛立ちが募ってくるのだから困りものだ。


それならば、主に頼んで数日程刀に戻り、執務室の床の間にでも居させてもらって、しばし休暇を取れば良いのでは…と思うかもしれないが、悲しきかな。

初期刀の彼には暇などない。


有事の際には身を挺してでも主や他の刀を護る義務があるだけでなく、初期刀であるが故に、何か困り事があった際には事ある毎に呼ばれるため、息をつく暇もないのである。

勿論、頼られて悪い気はしないし、何だかんだ主から優遇してもらえる事もあるので、そこは誇らしくもあり嬉しいところでもある。

しかし、だ。
どこの本丸においても、初期刀にあらゆる業務が集中してしまうのはいかがなものか。


───さて。
元は『暑い暑いと思うと、もっと暑くなるから…。』と。

気を紛らわせるために、ひたすら考えを巡らせていたのは良いが。

包丁を握っていた右手の甲に、ぽたりと汗が滴り落ちた所で、歌仙は手を止めた。


「……あつい、」


自分一人しかいない厨に、疲れ切った声がいやに響く。


一応空調はバッチリ効いているものの、実質ずっと火の側に居るので、まったくもって涼しくなどない。

おまけに、料理が得意な面子は揃いも揃って出陣や遠征に出かけ、先程まで厨に立って黙々と料理の補助をしてくれていた膝丸は、鶴丸が差し入れに来た大量の西瓜を冷やしに行ったきり戻ってこない。


膝丸に関しては、よもや西瓜を冷やしに行ったついでに、自分も涼んでいるのでは…と疑わしく思うくらいには時間が経っていた。


一体全体、何だっていうんだ。

確かに、ある程度なら僕一人だって何とかなるけれどね、今日は酷すぎやしないかい………。


様々な要因が重なり、いつもの二割増し疲れやすくなっているような気さえする。

実際のところ、そんな『気がする、』だけであって、傍目から見ればいつもとさして変わらないのかもしれないが。


「(いや、それ以前に。)」


今何時だったかな…?

時刻の事を考えるだけで、一気に背筋が寒くなった。


どうか、自分が思っているよりも時間の流れが遅くあるように…と、精一杯に祈り、意を決して後ろの壁に掛けてある時計を見やると、針は丁度午後の二時半を指している。

続いて、さあっと血の気が引いた。


───しまった。

夕飯の準備にかまけて、おやつの準備を忘れていた。


かつて無い大失態の予感にわなわなと震えつつも、きっちり火を止め、慌てて冷蔵庫の中を覗き込む。

『さて、何か良い物がなかったかな…。』と。
視線を四方八方にやってみると、肉に魚、豆腐に混ざって、所々に上手く入れてある白桃のゼリーが目に留まった。

これなら、まず問題なくおやつに出来るだろう、と喜んだのも束の間。


「ひい、ふう、みい……。」


───駄目だ。

ゼリーの数を喜々として数えたまでは良かったけれど、本丸に残っている男士の数に対して、圧倒的にゼリーの数が少なすぎる。


皆練度自体は高いわけだし、いい歳の者が少なくないわけであるから、まさかそんな事は無いと思いたいが…。

万が一にでも、おやつを巡っての抜刀騒ぎが起こるような状況の火種を作り出すわけにはいかない。

…だとすれば、これだけは避けたかったが。


彼の目は、渋々、と言わんばかりにゆっくりと動き、その常磐色の瞳に、大きな瓶に詰められたマーマレードのジャムと、食器をしまっている棚の上に置かれたプレーンクラッカーの袋を映した。

要は『プレーンクラッカーの上にマーマレードを乗せて、それを今日のおやつとして出せば良い。』という考えが過ったのである。

『大広間の机に、瓶一つと匙を幾つか付けて。後は、小皿の上に何枚かクラッカーを置いておけば、皆察しがいいから、今日のおやつはこれだと気付くだろう。』

自分にしてはいささか妥協しすぎな案にげんなりしたし、ちょっとこれはどうかとも思ったが、例え世の中の理が全部ひっくり返ったとしても、過ぎ去った時間が戻ってくるでもなし。

こんな些細な事で遡行軍と同じ真似をするなんて、それこそ馬鹿馬鹿しい。


時計と数秒睨み合った後。


「…こういうのも、たまには悪くないか。」


ふ…と口元に緩く笑みを浮かべて、彼は迷いなく冷蔵庫の中に鎮座しているジャムの瓶を取り出し、盆の上に乗せた。

続いて、鼻歌交じりにクラッカーの袋を二袋掴み取り、ぽいと同じ盆の上へ放る。

おまけに、金魚の絵が描かれた涼しげな青い小皿と、銀色の匙をいくつか隙間に添えれば、即席おやつセットの完成だ。


「───僕は、顕現したての頃と比べて、大分変わったのかもしれない。」


ぽつりと呟き、そっと盆を持ち上る。

厨と廊下の境目にかけた藍色の暖簾を片腕で押し上げながらとびきり小粋にくぐって。
しゃんと背筋を伸ばし、品良く、子気味よく、すたすたと歩き出す。


思えば、最初の頃は、自分の拘りやら譲れない部分を巡っては、主ととにかく激しい喧嘩をしたものだったが、今となっては笑い話の種だ。

あの頃と比べれば、かなり丸くなった方である。


…結局のところ『これから先も、どんどん男士が増えていく、』となれば、自分の意見を押し通すだけでは上手くいかなくなるのは当たり前だ。

仮にも、自分が昔のままでいたなら、きっと今頃諸々が破綻していたであろうから、この変化は、やはり喜ぶべき物なんだろう。


「…おっと、いけない。」


八つ時に間に合うよう準備しなくては意味が無いからね。

少々重さのある盆を再度しっかり持ち直し、歌仙は大広間へ急いだ。


***


広間に着いたのは、八つ時の五分前だった。

やれやれ、どうにか間に合った。


安堵もそこそこに、食事の時以外は端に片付けられている長机を出し、盆を上に乗せると、思いの外それらしく見える。

常備している懐紙に、たまたま袂へ入っていた筆ペンで『きょうのおやつ』と書き付け、上手い具合に三つ折りにして隣へ立ててみると、さらに良いあんばいだ。


…どうやった所で『大分手抜き』という感じはどうしても拭いきれないが、ここまでやれば上出来だろう。

さて、そろそろ厨に戻ろう。


袴についたい草の破片を払って立ち上がり、歩き出すと同時に『そういえば大広間の畳を変えたのはいつだったかな。』と考える。

去年───いや、一昨年?

よく覚えていない。
けれど、ただでさえかなりの人数がここを行き来し。
なおかつ、毎日机を出したり、座ったりしていれば、当然ながら畳が傷んでくる。


うちの本丸は、主の趣味で、洋室と和室の割合が大体同じくらいになっており、そのためか、畳は割と良い材質の物を入れているのだが、いくら良いものであろうと、傷む時は傷む。

こればかりは物の持つ宿命だ。

多少ならば、いくら掃除をしようとも性懲りもなく出てきて、衣服にくっついてくるい草の欠片も気にならないが『そろそろ畳の張り替えを検討してはどうだろう?』と主に進言してみようか…。


一通り考えているうちに廊下に出たので、当初の目的通り厨へ足を向けると。


「───おや、歌仙じゃないですか。」


前方から、聞き慣れた声が飛んできた。

はっとして顔を上げると、そこには内番用の着物を纏った宗三が立っている。


くい、と少し首を傾け。
それでいて、左右で色の違う瞳を見開き、どこか驚いたようにこちらを眺めて。

何か言わんとしているためか、艶のある唇は薄く開かれたままだった。


大方『いつもなら厨につきっきりの時間のはずでしょう、どうしてここに?』とでも言おうとしているのだろう。

付き合いの長い彼だから、何が言いたいのかはそれなりに分かっているつもりだ。


けれど、宗三の口から転がり出た言葉は、自分が予想していた物とは違っていた。


「…あなた、僕が勝手口から入ってきた時に、厨で椅子に座っていましたよね?厨から大回りしてここに来るだけでも時間が掛かるでしょうに。」


ここまで、どうやって移動してきたんです?


…本当に驚いた、というような口調で、宗三は確かにそう言った。

一瞬、面食らってしまい、何を言われているか分からなかったが、落ち着いて考えれば、特別難しい話ではない。


大体、宗三が歩いてきた方向には厨があって。

厨の中には勝手口があり。
さらに、その勝手口は、本丸裏の畑に繋がっていて、そこから野菜を運び入れられるような便利な造りになっている。

となると、彼の道筋としては、勝手口から厨へ入り、ここまで真っ直ぐ歩いてきて、こちらと鉢合わせたのだろう。


そこまでは自然と分かった。

しかし、だ。
『あなた、僕が勝手口から入ってきた時に、厨で椅子に座っていましたよね?』という所が、どうしても分からない。


宗三の『あなた』は、明らかに歌仙一人を指している。

対して、当の自分は、今しがた大広間におやつを置いてきたばかりで、宗三が勝手口から入ってくる頃に厨の椅子に腰掛けていた、なんて事はあり得ない。

確かに、数十分前までは厨に居たけれど、暖簾越しに誰かに声をかけられる事も無ければ、厨内にある勝手口から宗三が入ってくる所も見ていないし、もちろん呑気に腰をついている暇もなかった。


それに、余所の本丸の場合は『同じ刀が何振も顕現されている、』なんて事もあるようだが、この本丸に限っては、都合上『同じ刀は、基本的に一振限りしか顕現しない。』という決まりがある。

もちろん、今までだって『例外』は一度もなかったのだから、歌仙兼定は初期刀の自分以外存在しないはずだ。


…つまるところ、どうにもおかしな話なのである。


「いや『どう移動してきた、』と言われてもね…僕は今まで大広間にいたんだよ。」


やましい事があるわけでもなし、正直に言ってしまえ。

そんな思いで、動かぬ事実を口にすると、宗三はますます不思議そうな顔をして首を傾げた。


「…いえ、その。そう言われましても、あれは確かにあなたでしたよ……座っているのは珍しいなと思って声をかけたら、その途端に『主がどこに行ったか知らないか?』なんて僕に聞いてきたじゃないですか。」


流石に驚きましたよ。
主の居場所を一番よく知っているはずのあなたが、僕にそんな事を聞いてくるなんて。

…今度は、歌仙が首を傾げる番だった。


自分の記憶として、宗三と話した覚えは無い。

それに『主の居場所』は、歌仙が一番詳しく知っており、彼女の本丸での居場所は大体検討が着くし、急ぎの用事があったとしても、一人で十分彼女を探し当てる事が出来るので、他の誰かに聞くまでもないのだ。


薄くふわふわと漂っていただけの違和感が、急に実体を持っていくようで気味が悪かった。


「…それで君、その僕に何て答えたんだい?」


湧き出た焦燥を隠すように宗三へ答えを促すと、彼は妙に落ち着いた調子で話し出す。


「『多分、今日は奥の間に居ると思いますよ、』とだけ。それにしても、厨に居るというのに戦装束のままで…しかも、所々血が滲んでいましたから、何かあったのかと思って色々話しかけてみたんですが…その後は、何と言っても、ずっと黙ってぼんやりとどこかを眺めていましたから、会話は諦めて、すぐに厨を出ました。」


そうして歩いているうち、あなたと会ったんですよ。


「これが、今までの経緯です。」


こざっぱりと纏めるが早いか、宗三は何とも微妙な表情をして見せた。

目尻はやや下がり、口角は緩く上がっているから、一見笑っているように見えるけれど、どこか困っているように見える要素もあって。

見れば見るほど、やっぱりどちらでもないような、どうにも複雑な顔をしていた。


「(──それもそう、か。)」


宗三自身も話している途中で気が付いたと思うが、先程彼が厨で遭遇した『歌仙兼定』というのは、明らかにこの本丸の歌仙兼定とは性格も、物の考え方も、全く異なった別個体であるらしい。

…こうもきっぱり断言できるのは、自分が歌仙兼定であるからに他ならないが。


おかしな所をあげればきりがないけれど、決定的なのは『戦装束も解かず、所々血が滲んだ軽傷の状態で厨に居る。』という点だ。

僕…いや、普通の歌仙兼定なら、そんな状態の場合、絶対に厨になんて行かない。

他の刀だってそうだと思うけれど、そんな状態で厨をうろつく理由もないし、衛生的にも良くないのは考えなくとも分かるだろう。


その上、自分が怪我をしているのに、手入れ部屋に行こうとするわけでもなく。

自分が一番よく分かっているはずの主の居場所を他の誰かに聞きっぱなしでぼんやりする…なんて、どう考えても僕のする事ではない。

こういった違和感を集めていくと、宗三が出会ったのは、明らかに『姿は良く似ているけれど、全く別の刀だった、』と言える。


さて、そうなると、その『別の歌仙はどこから紛れ込んだのか。』『ここの本丸に突然現れた理由や目的は何なのか。』の二つが気になるわけだが。


「…宗三、念のため聞いておきたいんだけど。今日はどこかの本丸の審神者や刀剣男士がうちの本丸に遊びに来ていた、なんて事はあったかな?」


最終確認のため、宗三に向かってそう問えば、彼はこちらの意図を瞬時に理解したのか、幾分青い顔をして、弱々しく答える。


「───ありませんよ、もちろん。もしあったとして、あなたも僕も知らないのはおかしいでしょう?」

 
そう言ったきり、宗三は青い顔のまま俯いた。


「…確かに、そうだね。僕も君も知らないというのはおかしい。なら、もう決まったようなものかな。」


宗三の言葉を繰り返してそう言うと、彼は思い切り溜息をつく。


「…はぁ、僕としたことが。歌仙には申し訳ない事をしましたね。」


「いや、それはかまわないんだ。ただ…今回の侵入者が、ただの刀剣男士で。尚かつ、話の分かる輩なら良いのだけど。」


「ああ────なんといっても、夏ですからね。」


確かに、普通の男士でない可能性も往々にしてありますよね。


その時だった。

『歌仙…それに宗三か。』

今度は歌仙の背後から、またもや聞き慣れた声が投げ掛けられる。


「…おや、御手杵じゃありませんか。」


宗三の声につられてくるりと後ろを向くと、そこには御手杵が居た。

宗三に話しかけられた時と雰囲気が妙に似ていて、歌仙はやや顔を顰める。


まさか…いや、そんな事は。

しかし、御手杵はそんな事にはお構いなしにこちらを不思議そうに眺め、こう宣ったのだ。


「あんた…さっきまで玄関先に座り込んでただろ?怪我もしてたし、ヤバいと思って声かけたら、霧みたいにいきなりすーっと消えてびっくりしたんだぜ!?しかも、こっちに来たら来たで普通に宗三と話してるとか…一体何がどうなってんだよ?」


そう言われた瞬間、歌仙と宗三は互いの顔を見合わせた。

思ったよりも、事態は深刻らしい。


「宗三…すまないが、御手杵への説明は任せても良いかな?」


「ええ、もちろん。今回は誰の所へ相談に行くんですか?」


「…御手杵から聞いた僕は、どうも普通ではないみたいだからね。そっちの方面に明るい青江か石切丸に相談してくるよ。」


簡素に告げて、歌仙は御手杵の脇をすり抜け、刀剣男士の居住区が密集している場所へと足を進める。

廊下には、完全に状況を把握している宗三と、明らかに混乱している御手杵だけが残された。




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