粟田屋


自分の膝の下は、建物の外観に違わず、畳。
そして、壁に掛けられた三味線。
床の間に飾られた白い椿に、隣の金屏風。

絶妙な薄暗さの中、僅かに良い香りが漂っている…という具合に、彼女は、少年達に『客間』と称して通された部屋に一人で置かれ、どこか居心地が悪いような気分を味わっていた。


以前、大学の同級生と出かけた先で見た『茶屋』の客間の内装をそっくりそのまま持ってきたような有様の部屋を目にした時には、ちょっとテンションが上がったが。

…まあ、この部屋を短時間誰かと見学するだけならいざ知らず、実際自分が客人として通され、放置されるとなると話は別だ。


別に、もう寒くもないし、熱すぎるわけでもない。
ただ、こんな所に通されるのは初めての経験なので、緊張しすぎて変な汗が出ている。

しかも、スキーウエアの下の格好は、今日に限って白いセーターに青いジーンズという、大学生定番のすこぶるラフな格好であったため、室内全体から冷ややかな目線を向けられているような感じがしたのも事実であった。

実際そんなわけはないのだけど、なぜだかそんな気がしてならない。


まあ、居心地が悪いように思えてしまうのは、座って良い場所が分からず、迷いに迷った末に、部屋の隅っこで正座をしているせいでもあるんだろうが。

そわそわしながら室内を見回していると、ふと、名刺程の大きさをした真っ黒な紙が目に留まった。


彼女が陣取っている部屋の隅っこから、僅かに手を伸ばせば届く距離。

小さな棚に載った飴色の盆の上へ、等間隔で置かれた三枚のうち、端の一枚を手に取る。


見れば見るほど。
漆器のように妙な光沢のあるそれは、どこか高級感があり、紙の丁度真ん中辺りに、金色の文字で『温泉宿粟田屋』と印刷されているのみである。

何気なく裏返してみると、この建物の外観を撮ったと思しき四角い写真がプリントされた隣に、これまた細く高級感漂う金文字で『皆様のお越しを心よりお待ちしております。』と簡素に記されていた。


この情報から、自分が辿り着いたこの場所は『粟田屋』という名前の『温泉宿』であるらしい事が分かった。

誠に勝手なイメージではあるけれども、温泉宿というものは、年がら年中、ほぼ誰か泊まりに来る客、もしくは湯船に浸かりに来る客がいるものではないだろうか。


しかし、廊下では客らしき人物とは全くすれ違わなかったし、玄関口にも、客の物と思しき靴は一足もなかった気がする。

何より今は卒業旅行シーズンなのだから、かき入れ時には違いないのでは、と思うけれど。


「………あ。」


黒い紙を再度よく見直してみて、気が付いてしまった。

『温泉宿粟田屋』と書かれた表面の上に、また金文字で小さく『営業期間は五月から十一月末迄』と書かれているのを。


…つまりこの温泉宿は、五月から十一月末までの間は客の受け入れをして、普通に温泉宿として機能しているものの、それ以外の月は休業しているのだろう。


この辺りは他の場所と比べて特に雪深い上に、よくよく考えてみたら、車が入れそうな道なんかない。

ましてや、雪が降るごとにいちいち道をつけなくてはならない手間やら、暖房費やら、人件費やら。

───諸々の事情を考えれば、冬期間も温泉宿として営業し続けるより、雪が溶け始め、ある程度ロケーションも良くなるであろう五月から十一月末の間だけ営業する方が賢いに決まっている。


そこまで考えたところで、襖の向こうに人の気配を感じ、彼女は自然と居住まいを正す。

…正したは良いけれど、出入り口の方へ体を向けてしまったために、盆の上に黒い紙を戻し損ねた事に気が付く。


あまり枚数はないし、自分がその紙を取ったのはすぐ分かるだろうとは思ったが、別段後ろめたいことをしているでもなし。

こういう物は客の懐に入れられるために置いてあるのが普通だし、一枚なくなったところで、どうせ後から補充されるだろうと考えることにして、彼女はジーンズのポケットへそれを滑り込ませた。


程なくして『よお、待たせちまって悪かったな。』と、襖越しに声をかけられる。


「入るぜ。」


続いて聞こえてきた低い声の後、とてもじゃないがそんな渋い声をしているなんて思えないような儚げな少年が、豪快に襖を開けた。

彼が部屋の中へ足を踏み出したのに続いて、先程と全く同じ面子がぞろぞろと後ろを着いてくる。


先頭が薬研。続いて後ろが厚、信濃、後藤。

先程自己紹介された折に聞いた名前を脳内で反芻する。


彼等が名乗った名称が、名字の方なのか、名前の方なのかは分からない。

あえて聞く必要もないか、と思ったのもあるが、何より彼等自身が、互いに『薬研』『後藤』という具合に、こちらへ教えた通りの名称で呼び合っていたから、なんとはなしに、そう呼べば良いかという考えに落ち着く。


「あの…」
「ねえねえ、」


自分が発した声が、赤毛の少年…もとい、信濃の出した声と被ってしまった事に驚き、思わず口を閉じると、彼はそれを気にする素振りもなくこちらへ近寄ってきた。


「…ねえ、」


再度こちらへの呼びかけを行いながらしゃがみ、その端正な顔を、互いの息が掛かりそうなくらいの位置へぐいと近づけて、不思議そうに問うてくる。


「何でこんな隅っこに居るの?大将はお客さんなんだから、堂々と座敷の真ん中に座れば良いのに。」


綺麗な緑色の瞳でじっとこちらを見つめながら。
薄く艶々とした唇が、どこか不満げに言葉を吐き出したのを確かに間近で見て、どこか息苦しいような感じがした。

そこで初めて、自分が無意識に息を止めてしまっていた事に気が付き、申し訳程度に。
しかし、急いで空気を吸い込む。


───その瞬間、彼女は更に息苦しさを覚え、僅かに顔を赤くして、咄嗟に視線を逸らした。


今日初めて会った。
全く面識のない相手に、がっつりパーソナルスペースを侵されているにも関わらず、不思議と嫌な感じはしない。

何故嫌な感じがしないのかと問われたとして、あえて理由を述べるのならば『彼等が自分より、明らかに年下に見えて、危害を加えられる事なんかないだろう。』と思ったから。

もしくは、失礼なのは重々承知の上ではあるが『この少年達は異性と言えども、あくまで妙に大人っぽい子どもである。』という認識が、私の中の警戒心を鈍くさせているから、と答えるだろう。


「ねえ大将。俺の話、ちゃんと聞いてる?」


突如聞こえた信濃の声にはっとして。
…先程より更に距離を詰められている事に気が付き、驚愕した。


「き、聞いてる………よ。」


か細くそう告げた途端、彼は『本当に?』とでも言いたげに顔を覗き込もうとしてきたので、もう視線を逸らすだけでは済まない。

耳まで赤くなりながら、緩く首を捻り。


「ほんとだよ、ちゃんと、その…聞いてる、から……。」


もごもご、と。
先程よりさらに小さな声で弁解しつつ、彼女は顔を逸らした。


「…そう?」


なら、良いんだけど。

やっと止んだらしい追撃に安心していると、畳に着いたままになっていた自身の手に、何かが被さったような感じがして…当然ながら、弾かれたようにそちらを確認する。


多少の硬さはあれど、やけにしっとりとして温かなそれは、自分の物ではない、誰かの手だった。

まさかと思って、手首の辺りへ視線を移し。そのままずっと辿っていくと、どこか悪戯っぽく。
しかし、こちらの反応を余す事なく楽しみ、おまけに『大将、可愛い。』なんて言いながら微笑する信濃の顔が見えた。


「(…なんだろ、これ。)」


もしかしなくても私、年下の男の子から、からかわれてる…?

妙に積極的、というよりか、むしろ馴れ馴れしい態度に腹を立てるでもなく、初な反応を返してしまったのが悪かったのかもしれないが、不可抗力だった所も勿論ある。


「あの、信濃君、手………。」


───退けてほしいな。

さり気なくそう言って様子を見るものの、彼は『信濃でいいよ、』と笑顔で告げるが早いか、ほんの少し手を除け。

今度は、彼女の手を両手で掬い上げるようにひょいと持ち上げるが早いか、自身の方へ引き寄せて『大将の手、白くて柔らかくてすべすべしてるね、』と、どことなくうっとりとした調子で囁いた。


そこで初めて、彼のあどけない表情の裏に、ごく薄く。欲情のような仄暗い物が張り付いているのに気が付く。

こちらの反応を伺うような艶のある笑みと、先程より随分とろんとした緑の瞳。
この先の…何か特別な物を期待して、こちらからその流れを引き出そうとしているかのような。


勘違いなら申し訳ない事この上ないが。
やはり信濃の行動の端々から、妙な生々しさを感じてしまい、彼女は僅かに眉を潜めた。

───しばらく、そうしていたろうか。


「…ねえ大将、もっと触っても良い?」


『良いよね?』

焦れたように息を吐き出し。
さらに艶っぽく彼が囁いた所で、その頭に『…そこまでだ。』という薬研の冷ややかな声と、重めのげんこつが落ちた。


ごつん、と音がしたと同時に信濃の手がぱっと離れたのを良いことに、急いで自分の手を背後に回し、かばうようにして隠す。

…彼女のささやかな防衛とは対照的に、信濃はというと、げんこつをもらった自らの頭を抱えて畳の上を転げ回っていたが。


「いったぁっ!?!?いきなり何すんのさ…俺、大将と仲良くしてただけなのに酷くない!?」


余程痛かったのか。
…やや時差はあったものの、しっかり叫び声を上げ、ついでに文句を垂れ流しながら、抗議する様子からは、当然ながら先程のような艶のある雰囲気はない。


「(やっぱり…私の気のせい、かな?)」


薬研と信濃の言い合いと、それに介入していく厚。巻き込まれてどこか困った顔をする後藤の四人を眺めながら、一度湧き上がった妙な考えを鎮めようと、彼女は緩く頭を振る。


きっと私は疲れてるんだ。

こんなにあどけない少年達の。
あまつさえ、自分を屋内へ引き入れてくれた恩人達にの何気ない行動一つ一つに神経を尖らせて被害妄想を付け加え、一人で勝手に焦ってしまうくらいには。


私も大概だなぁ…。
それにしたって、あまり人を疑わないようにしなきゃ。


そんな事を思いながら、溜息をついでこめかみを軽く揉んでみる。

何だか、頭が痛かった。



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