遭難


突然だが、雪山で迷った経験のある人は、一体どれだけいるだろうか。

そもそも『雪の降らない地方に住んでいるから…。』だとか『雪山に用なんかないから行かない。』という意見は差し引きするにしても。


土地勘のない場所で。
加えて、どうにもやむを得ないような理由で遭難した場合は、途方に暮れる他ない。


動こうと、動きまいと。
どっちをやったところで容赦なく暗くなっていく空と、周りには木以外何もない、真っ白な雪原に一人。

こんな世紀末のような状況で、どれだけの人が自我を保ったまま冷静でいられるのだろう。


───さて、やけに具体的な遭難例を述べたが、正に自分が置かれている状況がそれだった。

前と後ろの感覚すら鈍り、どっちがどっちであるのか分からなくなりそうな銀世界の中『ここに行けば助かる、』というような心当たりもないままに、彼女はひたすら歩みを進めていた。


こういう時は、何か楽しい事を考えたり、自分を励ますような事を思い浮かべるべきなのだろうが。

…ついつい、今自分が置かれているこの状況を作り出してしまった発端は何であったのかを考えずにはいられない。


何はともあれ、大学のサークル内の誰かが『そうだ、スキーに行こう!』なんて言い出したのが始めだったような気はする。

この際、何で『京都』ではなく『スキー』だなんて口走ったんだろう、なんて事は気にしない。

ただ、豪雪地帯に住んでいて。
恐らく、どこに住んでいる人よりも、雪の面倒くささや恐ろしさを知っていながら、誰がそんな酔狂な事を言い出したのかは定かでなかったけれど、自分が言い出しっぺではないのは確かだ。


正直『就職も決まっている身で、わざわざ怪我が続発するような場所に好んで行くなんて…、』とは思っていた。

しかし、所詮ネタだろうなんて軽く考え、内心は明かさずに『そうだね、良いんじゃない?』なんて、同意とも同意でないとも取れるような曖昧な返事をしてしまったのがいけなかった。


大学生特有のノリと勢いは恐ろしいもので、最後の試験期間中、彼女には何も知らされぬまま、雪山へ行く手はずは粛々と整えられ、参加の有無を問われるまでもなく『瑠音ちゃんも絶対来るよね?』という雰囲気で断れぬまま、あれよあれよという間に同伴させられてしまったのが記憶に新しい。

全体の人数は十人。後から合流する面子も合わせれば、最終的には十六人という結構な大人数となるはずだったのだが、彼女は今現在全くの一人である。


理由と原因は様々あるが、ごくごく簡潔に述べるとすると。

女友達とスキーを楽しんでいたは良いものの、ふとした途端にコースアウト。

それから、スキー場内に戻る道を探して歩き回っている内に、急斜面となっている明らかにまずい場所まで来てしまい───お約束展開よろしく、隣でこけた女友達を助けようと咄嗟に支えるも、勢いを殺しきれず、逆に自分が急斜面を凄い勢いで滑落してしまった、という次第であった。


幸か不幸か、滑落した先で頭を打ったり、気絶したり骨折したり、なんて事はなかったから、今はこうして雪の中を歩き回っているわけなのだけれども、山の天気があまりにもコロコロ変わるので、心身共に疲れてきていた。


もちろん、スマートフォンは持っているけれど、山のただ中なので圏外。財布やら、温かい紅茶が入った水筒等は、残念ながらロッジの金庫の中である。

何より心細い上に、行けども行けども景色が変わらない。
もう、この世には自分以外の人間なんて一人も残っていないような…仄暗い孤独感が心の中を満たしていくのが分かる。


『これはもう。本格的に駄目かもしれない…。』

寒さと空腹で、今にも思考が千切れてしまいそうな感覚に襲われ、彼女はまた身震いした。


辺りの薄暗さや、再び降り出した雪、木々の寒々しさも手伝い、体温が下がっていくような感覚に陥る。

『このままここで事切れたとして。せめて、身元が特定できるような文章でも残しておこうか…。』

凍り付いた思考のまま、スマートフォンを取り出し、かじかむ手で画面に触れようとした時だった。


…今自分が居る位置から、大分離れた場所。
雪をこんもりと被った杉の枝葉の間から、僅かに灯りのような物が見えた。

───まさか、幻覚が見えているのでは。
そう思ったけれど、まず確かめないわけにはいかない。


急に沸いて出た希望に縋るような気持ちでスマートフォンを操作し、カメラ機能を呼び出して件の明かりを拡大して見ると、自分の勘違いなどではなく、それは確かにそこにあった。

更に良い事に、拡大した画像を見る限り、灯りはどうも家らしき建物から漏れ出ているようだ。


大分長い時間歩いてはいるけれど、滑落して辿り着いた場所かしてみれば、スキー場のペンションにはまだまだ距離があるはずだし、こんな人里離れた雪山に民家があるなんて、まずあり得ない。

しかし、山小屋はもうちょっと高い場所にあるはずだし……。


脳裏には意図せず『山姥』の物語が過ったが、今は『怖い。』だの『何だか怪しい気がする、』だのと言っている暇はなかった。

体力的にも精神的なのも、これ以上は限界だし、この場の行動一つ一つに自身の生死が関わってくるため、四の五の言う前に行動するしかないのだ。


吹き付ける風の冷たさに体を震わせ、彼女はどうにか進路を変える。

そうして、最後の力を振り絞るようにしながら、僅かに見える明かりを頼りに、また雪道を歩き出した。


***


来る者を拒むように鬱蒼と茂った杉の森を抜け、やっと辿り着いた先には、信じられないような光景が広がっていた。

当然ながら、明かりが近くなるごとに建物の外観がはっきりとしてきたのだが、今彼女の目の前に鎮座している建物は二階建てだというのに異様に大きく感じられ、以前見た茶屋のように、とても立派で古風な外観であった。


それにもっと驚いたのは、建物の周囲だけ、土や建物に続く石畳が剥き出しになっている事だった。

彼女が今し方四苦八苦しながら通ってきた杉の森は、膝まですっぽり埋もれてしまう程雪深いにも関わらず、その建物の半径二メートル程を丸く囲むようにして、全く雪がなかったのだ。


人の手でこまめに除雪をすれば、この状況を維持するのも容易いのかもしれないが、この大きさの建物全体の周囲を、こんなに綺麗にすっかり除雪する、なんてなかなか難しいだろう。

そうなると、ロードヒーターか、除雪剤を定期的に撒いているのかのどちらかが考えられるけれど。

よく建物を眺めてみると、屋根にも壁にも。はたまた、窓硝子にすら全く雪が付着していないから、何か別の仕組みがあるのかもしれない。


「(それにしても…。)」


あまりに立派すぎる外観に気後れしてしまって、ここに来るまでの苦労や絶望感もどこへやら…。

彼女は、本当にこの建物に入って良いのかどうか、という事を考え出す。


明かりがついているのは、無人ではない証拠と言える。

もし仮に。ここが『一見さんお断り。』の隠れ家的な旅館であろうと、外国の資産家のプライベートな別荘であろうと、建物の中に入って、中にいる人に『実はかくかくしかじかで、恥ずかしながら遭難してしまった。』と状況を説明すれば、門前払いにはされないだろう。


でも、もし建物の中に居る人が、嫌世的で極度の人嫌いで、類い希なる偏屈な人だったりしたらどうしよう…。

極度の緊張で吐きそうになりながらも、精一杯雪を払い落として敷地に足を踏み入れ、玄関の戸を叩く。


…しばらく待っても誰も出て来てくれる気配がないので、仕方なく取っ手に手をかけ、少しだ動かしてみると、意外にもするすると戸が空いてしまう。

他人事ながら『何て不用心な、』なんて思ったが、これだけ雪深い山の中に住んでいるのだ。
『鍵なんてあっても、使い道がないんだろう。』と思い直して、建物の中へ入った。


寒い屋外から、暖かな屋内に入った事により、頬が急に火照り始めたのが恥ずかしかったが、彼女は声を張り上げる。


「すみません、すみません………私、道に迷ってしまって………。」


どなたか、いらっしゃいませんか…………?

小綺麗で華美な玄関で精一杯声を張り上げるも、やはり人が出てくる気配はない。


それに加え、辺りに自分の声が反響しているのは分かるのだが、それは表面上で。
ここでどれだけ声を上げても、奥の方へは絶対に届かないのではないかという感覚に陥る。

困り果て、苦し紛れにスマートフォンの画面を見てみるも、やはり表示は圏外のまま。


このままでいるのもまずいけど、侵入罪とかに問われたらどうしよう…。

新たに湧き出た不安に溜息をつき、スマートフォンをポケットにしまった途端。
彼女の背後…屋外と屋内を隔てる戸のある方から、何やらこそこそと相談するような声が聞こえてきた。


『……すごく良い匂い。』

『それにしても、………とは大違いだな…。』

『確かに………から見ると、こりゃ女だな。』

『おっ、いいねぇ…で?誰が最初に………するんだ?』


「…………。」


聞き取れたのはここまで。それ以降は、いくら耳を澄ませても、くすくすと笑うような音が聞こえるだけだった。

一体、あの声は何について話をしているんだろう。

もしかしたら私は、何かとんでもなくまずいところに来てしまったのではないか。


助かる、と思ったのも束の間。
言い知れぬ気味悪さを感じて恐る恐る後ろを振り返るも、当たり前だが誰も居ない。

そりゃそうだ。
戸が開く音なんかしなかったし、今建物の中に入ってきたのは自分一人意外は居ないはずだし。


「(私、疲れてるのかな…。)」


じきに聞こえなくなった声にほっとしつつ『今のが幻聴という物か、』と溜息をついた。

どうやら、精神的疲労が思いの外強いようだ。


とりあえず、落ち着こう。

そう思って、深呼吸しながら目を閉じ、こめかみの辺りを軽く揉んで視線を前へ戻すと。


「────っ!?!?」


びっくりしすぎて、思わず飛び上がりそうになった。

…先程まで無人であったはずの上がり框。


そこへ、お揃いの紺色の服を着た少年が四人並んで立っており、皆が皆、自分の方を物珍しそうに凝視していたのだから。

そのうちの二人は黒髪。
他は赤毛と、橙色に近いような色の髪をした少年で、全体的に中学生くらいと思しき体格をしている。


いつからここに…いや、足音なんてどこからもしなかったはず。

それに、自分が後ろを振り向いている間に上がり框へ音もなく移動してくるなんて、まず無理だ。

近くの部屋から出てくるにしても、何かしら音がするはずだし、そもそも、玄関から見て一番近いらしい部屋は、長い廊下の突き当たりにある。


極めて非科学的な例えではあるけれど、その場にすうっと。

煙のように現れたとしか思えない状況に、いよいよ自分がおかしくなったのではないかと心配になってきた。


「あの…………勝手に入って、ごめんなさい…その、」


『君達、ここの人?』
『誰か他に…大人の人はいる?』

とにかく思いついた言葉を口にしてみると、彼等は顔を見合わせ。


その中でも一際線の細い少年が、どこか慣れたようにとある言葉を口にする。


「……あんた、遭難者か?」


儚げな見た目とはあまりにかけ離れた男性的な声に驚きつつも、彼女はぐっと言葉に詰まった。

自分で思うのと、客観的な所から見て言われるのと。

どちらのダメージが大きいかと問われれば、紛れもなく後者である。


遭難して死にかけた挙げ句、今更何をと思われるかもしれないが、あまつさえ自分より大分年下のように見える少年に『遭難したのか。』と問われたのが、何だかとても恥ずかしくなってきて。


「………………うん。まあ、そうなの。」


たっぷり間を取って。

今にも消え入りそうな声で返答する頃には、目の前に無言でスリッパを置かれており、気遣わしげな視線がこちらへ向けられていて、さらに恥ずかしいような気分になった。







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