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いつもいつでも、心穏やかに過ごしたい。
誰にも心を乱される事無く、誰の心も乱す事無く。
───幼い頃から持っていた浮世離れした願望のためか、自身の人間関係は、あまりに淡泊な物だった。
愛着関係、信頼関係などない。
彼女の場合、これが友人や先生等限定ではなく、父や母といった肉親の部類であっても無慈悲に適応されるものだったから、尚悪いと言えよう。
───その事に関して、少し言い訳をさせてもらうとするなら、彼女は決して自身を取り巻く人間を嫌いなわけではなかった。
彼女とすれば、どんな人物であろうと、近くに寄ってくれば邪険に追い払ったりはしなかったし、余程の事が無ければ、頼まれ事を断った試しもない。
むしろ、自身に親切にしてくれる先生や友人は、素直に好きだな、大事だな、と思っていたし、自身を養育してくれた両親には大いに感謝し、親しみを感じていた。
この辺りは、一般的な人と何ら変わりはないだろう。 ただし、彼女はこれらの感情を、主観的に持つ事はなかった。
あくまで客観的にそれらを眺め、何となく感謝の気持ちを持ったり、好きだな、と思ったりしていただけだった。
これを分かりやすく言い表すとするならば『真っ白な壁の画廊』を思い浮かべてくれれば事足りるか。
そこへ、自身に親切にしてくれる先生や友人の絵が飾られ、その隣には、自分を養育してくれた両親の絵が飾られているのを付け加えて欲しい。
先生や友人の絵の下には『好きだな、大事だな。』両親の絵の下には『大いに感謝し、親しみを感じる。』というタイトルがついて並んでいるとして───肝心の自分は、それらを画廊へやって来た客よろしく、ただぼんやり眺めているような心地なのである。
確かに、飾られた絵の中に居るのは、紛れもなく自分が大事だと思っている人ばかりなのに、その絵の中に自分はいない。
『なぜ、自分はそうなのか。』というのが最大の争点であるけれど、誰にそれを教えられた訳ではなし。
妙な洗脳等を受けた覚えもない以上、この仙人のような自身の意思は、生まれながらにして持ってきたものである、と言わざるを得ないものだった。
とにかく『心穏やかに』『心が乱れぬように』と願いすぎるあまり、自然と人との深い関わりを絶ち気味にしていたので。
気が付いたら、こちらから相手を心配する事はあれど、自分を心から心配してくれる者は誰もいなくなっていた。
自分がこうである以上、仕方が無い事と割り切ってはいたが、望んだはずの穏やかな日々は、途方もなく寂しいもので。
気が付いたら、俗世から逃げるようにして審神者という職に就いていたのだった。
***
「最近ね、ずっと同じ夢をみるんだ。」
極めて明るく、何でも無いようにそう言う彼女の目の下には、隈らしき物はない。
もしかしたら化粧で隠しているのかもしれないが、彼女が寝不足でふらついているような事も無いから、乱は小首を傾げる。
『何度もみる』と言うからには、悪い夢である事には違いないのだろうが、その割に、彼女には憔悴したような感じもなければ、何かに怯えているような事も無い。
寒い縁側に並んで座った彼女からは、強いて言うなれば、いつもの倍は落ち着いているような感じが伝わってくる。
…そう。
妙に冷静すぎる所が、どこか不気味だった。
「…ふぅん。それって、どんな夢?」
いつもは何ともない沈黙が嫌になり、急かすようにそう問うと、彼女は薄く笑った。
「びっくりするほど物騒だし、誰にも言ってないんだけど、」
笑わないで聞いてね。
そう前置きして、彼女は笑みを崩さぬまま語り始めた。
「夢の中でね、自分で『起きなきゃ、』って思って目を開くと、そこで初めて、自分が仰向けで寝てるって事に気がつくの。なんでかっていうと、本丸の皆の泣いている顔が見えるから。」
「……………。」
「私は全身…それこそ、頭の上から足先まで暖かくて。でも、ふとした瞬間。私が浸かっているのはお湯ではなくて、自分の身体から流れ出た大量の血潮だって事に気が付いて。そこで初めて、自分が死にそうになってる事に気がつくの。それでね、皆私に向かって必死に何か言ってるのだけど、私にはそれが聞こえないんだ。多分、唇の動き的に『しなないで、あるじ。』だと思うんだけど。」
この夢が、一ヶ月前からずっと続いてて。
生々しい夢の全容を、顔色一つかえず。 むしろ饒舌に語ってみせた彼女は、やはり『何でもない』といった風で笑っていた。
奇妙な行動にどこか空恐ろしさを感じながら、乱は何とも言えない面持ちで主の横顔を盗み見る。
便利だから、と彼女が好んで使うブラウンのアイシャドウが乗せられた目元はどこまでも優しく緩められたまま。 薄い色の紅が塗られた唇は、ごくごく自然に釣り上げられたままで、いつもと何ら変わらぬ様子でそこにある。
まさしく彼女が持つ願望の通り『心を乱さず』『穏やかに』といった様ではあるけれど、やはり一度生じた違和感は拭えない。
そもそも彼女は、江雪左文字のように『日々を穏やかに過ごしたい』と考えている人物であるため、夢の内容よろしくスプラッター的な趣味がある訳ではなかろう。
かといって、彼女自身が、過去にトラウマに残るほどの大怪我をした…という話も聞かないし。
そうとなれば、この血生臭く縁起の悪い夢は、どこからやって来たのか。
謎が謎を呼ぶような展開に、思わず顔をしかめた。
確かに、乱自身は、彼女の倍歳を取っているけれど。
探偵の真似をした試しなんてなかったから、こういった場面で、何をどうするべきか…というのは全く分からない。
眉根を寄せたまま黙っていると、彼女がこちらを向いて、ふ…と笑った。
「ごめんね、乱ちゃん。ほら、そんなに皺を寄せないで…。」
可愛いお顔が台無しよ。
心の底から脱力したような笑みと、優しい手つきで眉間に触れられたのに驚き、目を見開いて固まっていると、彼女は再び話し出す。
「あのね…さっき話した夢、多分予知夢なの。」
また唐突に寄越された破壊力のある言葉に、意図せず思考が停止した。
いや…思考だけではない。 きっと、心臓も動きを止めた。
そう思わずにはいられない程。 まるで雷に打たれたかの如く、自分の身体をぴくりとも動かす事が出来なかった。
『先程話した夢は、恐らく現実になる。』
他ならぬ彼女自身から発せられた言葉の裏には、明らかに確信が滲んでいたし、いきなり自分に寄越された信じがたい言葉に抗う間もなく、ただ渋い物が胸の内へ広がって、ぽつりぽつりとシミを作っていく。
何て言ったらいいか…なんて考えもせず。 気が付けば口開き、息を肺腑の奥に引きずり込むが早いか、言葉を発していた。
「…………やだなぁ、主さんったら。そんな事言わないでよね、」
───はじめは、冗談っぽく。軽い感じで。
「それに、主さんが死んじゃったら、皆悲しむよ…きっと。僕だって、悲しいよ、すごく。」
次は、やや重めに伝えて、乱はにこりと笑った。
笑う以外に、どうすればいいのかが分からなかった。
すると、彼女は『それもそうね、』と言って、少し恥ずかしそうに。 けれども、それでいてとても嬉しそうな笑みを返してきた。
…それに安心してしまったのは、何故なんだろう。
『なぁんだ、いつもみたいに、心配して欲しかっただけじゃない。』
なんて。 軽率に思ってしまったのは、彼女無しの生活が咄嗟に想像できなかったからなんだろう。
彼女は正真正銘人間だけれど、その思考は、付喪神たる自分達の物とあまりに似通っている。
そのため、並の人間風情では彼女の考えを理解する事は出来なかったろう。 ───本人申告してこないだけで、彼女が裏で何と言われていたかも大方想像はつく。
だから、彼女の言う『いつか』。
すなわち、彼女が命を終える時まで、出来る限り彼女の事を心配をして、彼女の事を気にかけて。
乱は、彼女の望む心穏やかな日々を保証しようと思うのだ。
自分の主が言い放った『予知夢』が、本当の事なのか。 それとも単なる話の種であるのかなんて、もうどうでも良かった。
この『いつかの話』が、まだ手の届かないくらい遠くに居て欲しい、と願うばかりであった。
end.
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