ここ
紙を捲る音、束を整える音、筆を置く音。そんな細やかな音がする中に、一つ怒号のようなものが入り込み、小梅はふと手を止めた。瞬きを二回ほどした彼女は、すぐにまた手を動かしはじめる。十番隊の隊舎では、その怒号は日常茶飯事にも等しいものであったため、大して気にとめるものでもなかったからだ。
怒号が聞こえて数分、廊下を駆けてくる軽い足音が近付いてきた。小梅が再度手を止めて廊下の方へ顔を向けると、見目幼い白髪の少年が姿を見せた。
「誰か、松本を見なかったか?」
少年の言葉に、その場にいた者は皆首を横に振った。そんな彼らの返答に深々とため息を吐いた彼は、額に手をあてながら、邪魔してわりいな、とこぼす。
この少年こそ、十番隊隊長、日番谷冬獅郎。神童と呼ばれる彼は、史上最年少で隊長を務める程の実力者であり、先程の怒号を上げた張本人でもある。普段は生真面目な彼をああも怒鳴らせる要因などほとんど限られており、大体が仕事をサボった副隊長である松本乱菊に対するものであった。
今日も松本は書類仕事を放り出し、遊びに出て行ってしまったのだろう。日番谷の眉間にはしわが寄っており、小梅はその心中を察しつつ、片付け終えた書類の一束を机の上でトントンと整え、席を立った。
「日番谷隊長、こちら終わりましたので、お時間ある時に確認お願いします」
「ん? ああ、もう終わったのか……流石だな」
三十センチ程の身長差故に、日番谷は小梅を見上げながら書類の束を受け取った。松本もこれだけ真面目であれば。真面目でなくとも、せめて仕事はしてくれたら。そう考え、彼は再度ため息が出そうになったが、寸前で飲み込んだ。
「私はこれから他の隊へ書類を渡しに行ってきますので、その道中で松本副隊長を探しておきましょう」
「いいのか?」
「はい。隊長にも仕事がありましょう。そちらの手伝いをとも思いましたが、隊長や副隊長でないとダメなものもあるでしょうから、まずはこちらを終えて、私でも片付けられそうなものをお手伝い致します」
「……よろしく頼む。いつもすまねえな、桐島」
「お気になさらず」
小梅が日番谷の書類仕事を手伝うのは、今に始まったことではなく、彼が隊長になった時からよくある光景だ。日番谷が隊長となる前から松本は十番隊で副隊長を務めており、当時の隊長も真面目とは言い難かったため、その頃から小梅が隊長または副隊長でなければ片付けられないもの以外の書類仕事の大半を担っていたのだ。その傍らで入隊したばかりであった日番谷に、業務を教えていた。言わば彼の教育係をしていたのだ。
死神という仕事の歴はもちろん、年齢も小梅の方が日番谷よりもずっとずっと上であり、彼女には今もこうして世話になりっぱなしなためか、日番谷は小梅に頭が上がらない。今でこそ、立場があるのだからと彼女が敬語を使っているが、正直な話日番谷は、未だにそれに慣れていなかったりもする。
「では、行ってきますので」
小梅は彼に一礼すると、束にまとめられた残りの書類を手に取り、部屋を後にした。
護廷十三隊は、各隊で隊舎が用意されている。二番隊は副隊長である大前田が自腹を切って全面床暖房や冷房完備等のリフォームをしていたり、十二番隊は研究部局や技術開発局が併設されているために研究室のようになっていたりと、個々での模様替えは自由となっているようだった。
全ての隊舎を周るのは、存外時間がかかる。何せ護廷十三隊には多くの死神が所属しており、その分各隊舎はそれなりに広い。そこそこの重量を持つ書類を手に周るのは、中々に骨が折れることだった。
あまり時間をかけないようにと早足で隊舎を周り、その間松本の姿を探すことも忘れない。もしかすると甘味処にでもいるやもしれないが、そこまで探しに行くよりは仕事に時間を回した方がいいため、その時は松本の捜索は諦める所存だった。
時折庭に目をやりながら、小梅は五番隊舎まで来た。中に声をかければ、少女の返事と一緒に駆けてくるような足音が聞こえて、戸が開いた。
「こんにちは、雛森副隊長。書類を届けに参りました」
「桐島さん、こんにちは。あ、ありがとうございます!」
出迎えてくれたのは、五番隊副隊長を務める雛森桃だった。彼女は小梅を見てサッと背筋を伸ばすと、書類に視線を落として穏やかに笑った。雛森はその可憐な容姿から自隊隊士だけでなく、他隊隊士にも人気の高い隊士である。
「すみません、藍染隊長は今霊術院の方に――」
太めの眉を下げた彼女だったが、何かに気付いてパッと表情を明るくさせたと思うと、口を開いた。
「藍染隊長!」
その言葉に、小梅は雛森の視線を追いかけるように振り返った。
「おや、桐島さん?」
眼鏡のレンズ越しに瞳を瞬かせたのは、五番隊隊長、藍染惣右介だった。雛森は彼を心底尊敬しており、彼の役に立ちたいと死にもの狂いで努力を重ね、やっとの思いで副隊長になった身である。彼女だけでなく、藍染の温和で柔らかな性格は、他隊士から信頼され、慕われているのだ。
「おかえりなさい、藍染隊長。ちょうど、桐島さんが書類を届けに来てくださったんです」
「なるほど、だから桐島さんが……」
納得したように頷いた藍染に向きなおった小梅は、挨拶をして、持っていた書類を彼に差し出した。
「わざわざすみません、ありがとうございます」
「いえ。今日は霊術院の方で講師を?」
「ええ、はい。どうやら生徒の皆さんから好評なようで、嬉しい限りです」
「あなたは教えるのが上手いですし、話術にも長けていますからね」
藍染は霊術院で書道の特別講師をしている。選択科目である書道だが、藍染のおかげもあってか定員数は常に満杯、果てには廊下で講義を受ける者もいる程の人気科目となっていた。
「それよりも、藍染隊長。私は席官と言えどあなたの方が立場は上です。敬語はおやめになってください」
小梅の言葉に、藍染はハッとすると、苦笑いを浮かべて謝罪をこぼした。小梅は護廷十三隊の中でも古株に数えられる。そのため殆どの隊士よりも長く死神を務めており、また年齢もそれなりに重ねている。彼女の見た目こそ現世の人間として見れば二十代後半だが、死神は若い姿でも優に百を超える年齢の者は少なくなかった。
「どうも、まだ慣れなくて……」
「そうですか。ですが、そろそろ慣れてください」
書類を渡し終えた小梅は、藍染と雛森に一度会釈をして、二人の横を通り過ぎていった。
ピンと伸びた背筋を崩すことなく去っていく小梅の後ろ姿を見つめ、雛森は無意識にフッと息を吐いた。彼女は小梅を前にすると、どうにも緊張してしまうのだ。
「桐島さんは苦手?」
「え!? い、いえ、そういうわけでは……!」
小梅は、自分にも他人にも厳しいところがある。口調も目上の者には敬語を使用するが、普段の口調は男性的で、淡々としている。また表情も基本無愛想なこともあって、平隊士には彼女を怖がっている者は多い。美人の真顔というのは、相手が不機嫌でなくとも緊張感を覚えるもので、つり目がちな瞳に見つめられてしまうと、何故だか叱られるのでは、と思ってしまう隊士は少なくなかった。
「桐島さんは少し厳しいからね。でも、誤解はしないでほしい。彼女はただ、他者を守りたいだけなんだ」
眦を緩めて微笑む藍染に、雛森は薄く頬を染めながら、何度もコクコクと頷いた。その反応に満足げに笑った彼は、書類の確認をしなくては、と雛森と共に戸を開けて中へと入っていった。
小梅は二人の会話など気付かぬまま、引き続き他の隊にも書類を届けて回った。結局道中で松本の姿は見つけることはできず、書類を届け終えると諦めて隊舎に戻り、最早いつも通りとなった日番谷の書類仕事の手伝いをした。