- ナノ -

自作自演の舞台劇

四十六室の無惨な姿を目にした雛森は、いつからそこにいたのか、背後に立っていた市丸に案内されるまま、四十六室のための居住区域、清浄塔居林へ来ていた。完全禁踏区域であるそこに雛森を連れてきた市丸は、逢わせたい人がいるのだと、彼女に振り返るよう言った。

困惑しながらも、言われた通り後ろを見た彼女の大きな瞳に映ったのは――。


「……ぁ……あい、ぜん……たい……ちょう……?」


亡くなったはずの、藍染惣右介その人であった。

彼の姿に、雛森は恐る恐る彼へと歩み寄っていく。その声は震え、足もどこか覚束ない。じわりじわりと涙が彼女の目に浮かんでいき、伸ばした小さな手が、藍染の羽織を握った。


「……すまない……心配をかけたね、雛森くん」


そっと乗せられた手のひらの温度が、彼から香る匂いが、雛森の心にスッと染み渡っていく。これは確かに藍染であるのだと。自身の不安をいつも取っ払ってくれていた、心を洗い流してくれていた、本物の藍染であるのだと確信できた。

溜まっていた涙が一つ落ちると、堰を切ったように溢れ出して、雛森は藍染の胸に顔を埋めた。そんな彼女の背に手を回した藍染は、その小さな身体が前よりも細くなっていることに気付いた。


「本当にすまない。君をこんなに傷つけることになってしまって……だけど、わかってほしい」


自分にはやるべきことがあり、そのためには死を偽装し、雛森を騙してでも身を潜める必要があった。そう話す藍染に、彼女はもういいのだと呟いた。


「隊長が生きていてくださっただけで、あたしは、もう何も……」


そんな彼女の言葉に、藍染は穏やかな笑みを浮かべてお礼をこぼした。


「君を部下にもてて、本当によかった……ありがとう、雛森くん……本当にありがとう……」


優しい声と言葉に、雛森は泣きながらも笑みを浮かべた。そうして――。


「さよなら」


胸に走った衝撃。じわりじわりと熱を持ち、痛みを持つそこをゆっくりと見下ろして、雛森は藍染を見上げた彼女は、痛みに叫ぶでもなく、たった一言、嘘、と呟いた。

刀が抜かれると、雛森の身体は支えを失ったようにゆっくりとその場に倒れ伏した。それを見下ろした藍染は、刀を軽く払って付着した血を飛ばす。その血が雛森へ落ちても意に介すことなどなく、ギンに呼びかけ、二人は歩きだした。

ちょうどその時、日番谷が清浄塔居林に辿り着いた。彼は呼吸を整えながらも、自身の前にいる藍染の姿に、信じられないようなものを見る目を浮かべた。


「どういう事だ……てめえ……本当に藍染なのか……?」

「……勿論。見ての通り、本物だよ。それにしても、予想より随分と早いご帰還だね、日番谷隊長は」

「すんません。イヅルの引きつけが甘かったみたいですわ」


二人のやりとりに、状況が上手く飲み込めていない日番谷は、困惑したまま何の話をしているのだと呟く。藍染はそれに対して平然と、戦術の話だと返し、口角を上げた。


「敵戦力の分散は、戦術の初歩だろう?」

「“敵”……だと……!?」


眉を寄せ、一つ汗を流しながら、日番谷はふと雛森の姿がないことに気付いた。所在を聞くもとぼける姿に青筋を浮かべた彼だが、何かに気付き、藍染と市丸の間を通り抜け、中へ駆け込んだ。

そこには、ピクリとも動かない雛森の姿があった。呆然とする日番谷を振り返った藍染は、悪びれた様子もなく謝罪をした。


「せめて君に見つからないように、粉々に切り刻んでおくべきだったかな」


彼が知っている藍染と同じ声色で綴られた言葉は、人の心でもないかのようなもの。投げかけられたその声に拳を握り締めた日番谷は、いつから二人が手を組んでいたのだとた尋ねる。藍染はそれに対して、素直に最初からだと返した。

しかしその「最初」とは藍染が死を装うよりも前ということではない。


「私が隊長になってから、ただの一度も、彼以外を副隊長だと思ったことはない」

「……それじゃあ……てめえは今迄ずっと……」


日番谷の声は僅かに震えを帯びていた。彼の頭の中に、いつかの自身の誕生日に、雛森、松本、小梅、そして藍染と共に見た花火が蘇る。


「雛森も……俺も……てめえの部下も、他の全ての死神達も……みんな……騙してやがったのか……!」


振り返った日番谷の目は瞳孔が開かれ、眉間にはしわを深く刻まれている。フーッ、フーッと怒りを抑えるように呼吸をしながら、彼は強く奥歯を噛み締めた。

そんな日番谷の表情を目にしても、藍染は心を痛めた素振りもなく、騙したつもりはないのだと話した。誰一人、自身の本当の姿を理解していなかったのだと。


「……理解して、なかっただと……?てめえだって知ってる筈だ……雛森はてめえに憧れてた……」


雛森が霊術院にいた頃、現世への実習中に虚の群れに襲われたことがあった。その時に自分達を助けてくれたのが、藍染と当時五番隊の副隊長を務めていた市丸だった。その出来事から、雛森は彼に憧れて護廷十三隊に入隊し、彼の役に立つために努力を続け、念願叶って副隊長に就任した。

それを当然、藍染だって知っている。知っていたからこそ、彼自身が雛森を自分の部下にと推したのだと藍染は語った。


「良い機会だ。一つ憶えておくといい、日番谷くん。憧れは、理解から最も遠い感情だよ」


それは、ある種真理であるのだろう。憧れと理解はまったくもって別の感情だ。憧れというフィルターは、時に本質を見誤る。その対象を盲信し、美化しすぎてしまうから。雛森は藍染に憧れたが、彼を理解していたわけではなかった。

故に彼の言葉は間違いではなかったが、しかし、だとしても。藍染に憧れ、必死に努力していた雛森へのこの仕打ちに、日番谷は我慢できるはずもなかった。

背負っていた刀に手をかけたと同時、清浄塔居林が粉々に破壊される。落ちてくる破片と冷気とに囲まれたその中心で、日番谷は口を開いた。


「卍解……大紅蓮氷輪丸……!」


巨大な翼をもった氷の龍を日番谷自身が纏い、背後には三つの巨大な花のような氷の結晶が浮かんでいる。刀を持つ右腕から連なっているためか、まるで龍が刀を咥えているかのようにも見える。それが、日番谷の卍解「大紅蓮氷輪丸」。

氷輪丸は始解の時点で、溢れ出す霊圧が触れたもの全てを凍らせる水と氷の竜を創り出す。また大気中の水蒸気を始め、水を氷に変える特性も有していた。そのためか、辺り一帯が天井も含め、瞬く間に氷が張られていった。


「藍染、俺はてめえを……殺す」


鋭い瞳で藍染を見据えた日番谷は、冷え冷えとした声音で吐き捨てる。そんな彼に、藍染は薄ら笑いを浮かべて答えた。


「あまり強い言葉を使うなよ。弱く見えるぞ」


――一瞬であった。

日番谷が藍染へと刀を振り下ろそうとした時には、藍染は彼の背後に立ち、そうして、日番谷の身体から真赤な血が噴き出した。

何も見えなかった。何が起こったのか、理解も遅れた。信じられないと、そう言いたげに目を見開いた日番谷は、藍染にひと太刀も浴びせることができぬまま、舞っていた瓦礫が落ちるのと共に、彼の身体もゆらりと傾き、冷たい地面に倒れ込んだ。


「……良い眺めだな。季節じゃあないが、この時期に見る氷も悪くない」


氷の張られた空間を見つめながら、白い息と共にそう吐いて、彼はギンを連れ立ってこの場を去ろうとした。

しかし、そこに新たな客人が足を踏み入れた。


「やはり此処でしたか、藍染隊長……いえ、最早“隊長”と呼ぶべきではないのでしょうね。大逆の罪人、藍染惣右介」


現れたのは、四番隊隊長である卯ノ花と、その副官勇音であった。

彼女らの登場は予想通りであったのだろう、藍染は特に驚くこともなく、むしろ来るならばそろそろだと思っていた、とまでこぼした。

精巧な「死体の人形」を作ってまで身を隠そうとしたならば、尸魂界でもただ一箇所しかない完全禁踏区域である清浄塔居林が、最も安全で、見つかりにくい場所である。そのため、卯ノ花はこの場所に足を運んだのだ。

彼女のその言葉に、藍染は間違いが二つあることを指摘した。一つ目は、身を隠すためにこの場所に来たわけではないこと。そしてもう一つ目は、そう言って二人に見せたのは、藍染自身の遺体であった。


「これは、『死体の人形』じゃあない」


突然現れたそれに、卯ノ花も勇音も目を見開いた。いつからその手にあったのか、いつそれを持ってきたのか。まるでわからなかったのだ。しかし藍染は、彼女らがここに来た時から、この手にずっと持っていたと笑った。ただ、今この瞬間まで、そう見せようとしていなかっただけなのだと。


「そら、解くよ。砕けろ、『鏡花水月』」


まるで鏡が割れるように、藍染の遺体が弾けたと思ったら、現れたのは彼の斬魄刀であった。


「僕の斬魄刀、『鏡花水月』……有する能力は、『完全催眠』だ」


その言葉に、勇音はすぐに否を唱えた。何せ藍染は、以前彼女らに鏡花水月の能力を見せたことがあるのだ。それは霧と水流の乱反射で敵を攪乱し、同士討ちさせるというもの。勇音を含め、その場に集められていた副隊長達は、目の前でその能力を目にしていた。


「……成程……それこそが……催眠の“儀式”という訳ですか」


勇音の言葉を受け、卯ノ花は納得した様子でこぼした。彼女の言葉に、藍染は御名答だと笑みを浮かべ、鏡花水月の本当の能力を語った。

鏡花水月の「完全催眠」は、五感全てを支配し、一つの対象の姿形、質量や感触、果ては匂いに至るまで、全てを誤認させることができる。そしてその発動条件は、鏡花水月の解放の瞬間を見せることであった。

一度でもそれを目にした者は、その瞬間から完全催眠へと堕ちる。それ以降も鏡花水月が解放されるたび、完全催眠にかかるのだ。


「一度でも……目に……」


何かが引っかかったのだろう。卯ノ花は呟いて、そうして何かに気付いたように目を見開いた。

一度でも目にすれば、術に堕ちる。それ即ち、眼の見えない者は術に堕ちることはないということである。そこから導き出される答えは一つ。


「……つまり最初から、東仙要は僕の部下だ」


盲目である東仙は、鏡花水月の催眠に、かかっていなかったということだ。

それを告げたと思うと、市丸の袖口から布が飛び出した。それは藍染と市丸とを囲うように巻かれていく。


「最後に誉めておこう。検査の為に最も長く手を触れたからとはいえ、完全催眠下にありながら、僕の死体にわずかでも違和感を感じたことは見事だった。卯ノ花隊長」


それだけ伝えて藍染は二人に別れを告げ、市丸と共に姿を消した。

暫し呆然としていた勇音であったが、卯ノ花からすぐに転移先を補足するよう命じられ、縛道の五十八「趾追雀」にて彼らがどこに向かったのかを捕捉した。


「東三百三十二、北千五百六十六!…………双極です……!」


卯ノ花はそれを受け、全ての隊長、副隊長の位置を捜索、捕捉し、自分達が知った藍染の全てとその行き先を伝信するよう命じた。


「そして、同じ伝信を……あの旅禍達にもね」


卯ノ花は階段をのぼっていくと、日番谷と雛森の救命措置へと入った。


「黒白の羅!二十二の橋梁、六十六の冠帯、足跡・遠雷・尖峰・回地・夜伏・雲海・蒼い隊列、太円に満ちて天を挺れ。縛道の七十七!天挺空羅!」


全員の捕捉に成功した勇音は、自身と卯ノ花からの緊急伝信であると告げ、彼らに先程起きた出来事全てを話しはじめた。