- ナノ -

笑みの下で渦巻くのは

   布の擦れるような音がしたと思うと、眠っていた松本がゆっくりと身体を起こした。


「起きたか、松本」


   ゆっくりと二回ほど瞬きをして、彼女は寝惚けているのか、自分の部屋で何をしているのだと首を傾げた。


「ここは執務室ですよ、松本副隊長」

「あ、小梅さん……おはようございます」

「はい、おはようございます」


   書類を抱えて立ち上がった小梅は、日番谷の方へとそれを持っていき、確認を頼んだ。それを受け取りながら、彼は松本に自分達と仕事を代わるよう告げた。


「とっととコレ持って自分の机につけ」

「……もうこれだけなんですか?   あんなにあったのに……」

「うるせえ、桐島がだいぶ手伝ってくれたんだよ。礼言ってさっさとやれ!」


   松本に手渡された書類は数十枚程度。本来は十倍以上の山であったが、日番谷と小梅とが手分けをしてそのほとんどを片付けてしまっていたのだ。松本は小梅にお礼を伝えつつ、自分が思いの外眠っていたことに気付いた。外はすっかり日が落ちて、月が昇っている時間であった。

   お礼を伝え、どこか申し訳なそうにする松本に、日番谷は労わるような言葉をかけた。


「……同期……か……」


   囁くように呟いた松本は、僅かばかりの不安を滲ませながら日番谷に呼びかけた。


「隊長は、本当に……ギン……市丸隊長のことを……」


   しかし、松本の声は慌てた様子の竹添幸吉郎――十番隊第七席の隊士だ――に遮られた。彼の様子に緊急なのだろうと悟った日番谷が扉を開けるよう声をかけると、竹添はすぐに扉を開け、各牢番からの緊急報告を告げた。

   それは、各隊舎の牢に拘置されていた阿散井、雛森、吉良の三人が牢から姿を消した、というものであった。それを受け、日番谷は松本と小梅に声をかけた。日番谷は自分が五番隊舎、松本は六番隊舎、小梅は三番隊舎を確認するよう手分けし、三人は各牢へ急いだ。

   三番隊舎へ駆けた小梅は、日番谷の指示で牢の確認に来たことを伝え、吉良がいたはずの牢に案内してもらった。牢番をしていた隊士は、誰かに気絶させられ、気がついた時には吉良の姿が消えていたのだと、青ざめた顔で小梅に告げた。


「本当に、申し訳ございません……!」

「いい、気にするな。鍵も外側から空いてる辺り、誰かが連れ出したんだろう。私の予想が正しいのなら、気配に気付かなかったのも仕方のない相手だ」


   小梅は念のため牢の中も調べたが、特に不審な点は見つからず、状況から見て誰かが吉良を牢から出したという結論が出た。刺さったままの鍵を片付けておくようにだけ伝えると、小梅は日番谷のいる五番隊舎に向かった。

   五番隊舎に着いた彼女は雛森がいた牢に急ぎ、その有様に目を見開いた。格子と壁が壊され、大きな穴があいているのだ。後から来た松本も、その光景に目をギョッとさせていた。

   吉良と阿散井がいた牢の報告をし、三人は雛森が脱獄する前の様子を牢番に尋ねた。曰く、雛森に呼ばれて振り返ると、突然目の前が真っ白になり、気がつけばこの状態であったのだと、彼は深々頭を下げた。


「『白伏』だな……」


   白伏とは、相手の意識を混濁させ、一時的に昏睡状態に陥れる鬼道――死神が自身の霊力や霊圧を用いて使う霊術のことを指す――の一つである。

   雛森は鬼道の達人と称されるほど、鬼道を得意としている。彼女を本気で閉じ込めておくつもりでああったなら、鬼道が使えないように霊圧を封じて牢に入れておくべきだった。しかしそれをしなかったのは、彼女がここまでして脱獄するとは誰も思っていなかったからだ。

   一時的な拘置であり、処刑をされるわけではない。しかしここまでの強硬手段に出た理由に、日番谷は察しがついているようだった。


「松本、桐島、先に帰ってろ。俺は――雛森を助けに行く」


   静かに告げた日番谷は、雛森が出ていったであろう穴を通り、すぐさま駆け出していった。残された小梅は松本に目配せをし、隊舎に戻るため踵を翻す。そんな彼女を、松本は小走りに追いかけ、隣に並んだ。


「……隊長はやっぱり、市丸隊長のところに行ったんですかね……」

「だろうな。恐らく、吉良も一緒にいる」


   吉良を牢から出した人物を、小梅は市丸と予想している。それは日番谷も同じ考えだろう。そして、雛森もまた市丸のもとへ向かっていると睨んでいる。

   彼女は藍染を、神格化しているのではないかと思うほど深く敬愛している。それこそ、最早依存の域だ。そんな彼が殺されたのだ。雛森がその仇を討とうとしてもおかしくはない。彼女が拘置されていた理由も、市丸に斬りかかり、それを止めに入った吉良と戦闘になったからだ。


「雛森の精神状態が心配だな……今のあの子は、冷静な判断ができない。こちらの言葉にも、聞く耳を持たんだろう」


   最悪、気絶させて再度牢に入れておく必要があるかもしれない。今度は零圧を封じた状態で。小梅はそこまでは口にしなかったが、松本は彼女の考えを察しているようで、不安そうに眉を下げ、瞳を伏せた。

   夜のうちに方がつけばいいが、そう簡単に解決するとも思えない。処刑の日も刻一刻と近付いているなかで、旅禍の一件もあるというのに、そこに隊長の殺害が重なり、護廷内で仲間割れを起こしているのはよくない傾向だ。小梅はため息が出そうになるのを堪え、飲み込んだ。


「――氷輪丸?」


   二人は、ある霊圧を感知し、ピタリと足を止めた。それは天候さえも支配する、氷雪系最強と謳われる日番谷の斬魄刀。霊圧を感じたということは、斬魄刀解放が行われたということだ。そうするまでに至るようなことがあった、ということなのだろう。


「行くぞ」

「はい」


   小梅は松本共に駆け出し、霊圧を辿って来た道を戻っていく。距離としてそう離れた位置でもなく、日番谷と分かれて時間もそれほど経ってはいない。怪我人がいないというのは難しいかもしれないが、せめて新たな死人が出るのは避けたいが、どうなることか。一度髪を掻き、彼女は現場へ急いだ。

   二人が日番谷のいる三番隊舎の前に到着した時、小梅の予想通り日番谷は市丸と戦闘中であった。隊舎の屋根にて、日番谷が市丸の左腕を捕え、刃を突き刺さんとしている。隊舎のそばには倒れた雛森の姿もあり、少し離れた場所には、僅かに身が凍っている吉良もいた。


「松本、お前は――」

「雛森の方に行きます」


   小梅が伝えるより早く、松本は頷いてその場を離れた。それと同時、市丸の斬魄刀である神鎗の刀身が延びた。寸前でかわして串刺しは避けたものの、日番谷の額には傷ができている。


「……ええの?   避けて。死ぬで、あの子」

「……!   雛――」


   切っ先は倒れている雛森へと延びていき、彼女の身体を突き刺す勢いであった。しかし、彼女へ届く前に間に入った松本が、自身の刀で神鎗の切っ先を受け止めてみせた。


「……申し訳ありません。命令通り隊舎へ帰ろうとしたのですが……氷輪丸の霊圧を感じて、戻ってきてしまいました……」


   冷や汗を流しながら、松本は刀を握る市丸へと視線を向けた。その手は僅かに震えているが、しかしそれをぐっと堪えながら、彼女は口を開いた。


「……刀をお退きください……市丸隊長。退かなければ――ここからは私がお相手致します……!」


   その言葉を受けた市丸は、何故だか口角を上げ、笑みを見せていた。その余裕な態度は不気味さを感じさせた。


「刀を、お退きに。部下の首が飛びますよ」


   にんまりと笑みを浮かべて松本の方を向いていた顔が、その声にゆっくりと移動していく。氷輪丸に巻き込まれたのだろう、所々に氷が付着し動けない吉良の背を片足で踏みながら、その首に刀を向けている小梅の姿があった。

   背を踏む足に僅かに力を込められ、吉良は呻き声をこぼす。小梅は吉良を一瞬見下ろし、催促するように市丸へ視線を向けた。


「これはこれは……女性を怒らせるんは、ようないね」


   市丸がそうこぼすと、神鎗がもとの長さへと戻り、その刀は鞘の中へと納められた。それを見て、小梅も刀を納めて吉良から足を退け、雛森の方へと駆け寄る。彼女の両手には血が滲んでおり、また顔は殴打したのか赤くなっていた。

   去ろうとする市丸を追いかけようとした日番谷だったが、自分よりもまずは雛森を、と彼から言われ、ハッとしたように動きを止めた。その隙に、市丸は吉良を連れて姿を消した。