- ナノ -

始めた責任を取ってくれ


※話の都合上名字は固定です


水上は激怒した。必ず、かの自由奔放で我儘放題な女に叛逆せねばならぬと決意した。

そうやって、水上は有名な小説の冒頭をリスペクトして脳内でモノローグを流したわけだが、しかして実際それが成功した試しはない。


「水上?水上くん?水上敏志くーん?」

「……はいはい、なんでしょーか」

「聞こえてるなら、ちゃんと返事はしないとダメよ。耳は飾りの名目でついてるわけじゃないんだから」


ご機嫌そうに笑う目の前の少女に、水上は深々としたため息を吐きそうになったものの、それはぐっと飲み込んだ。吐いたところで「その行動、幸せが逃げるらしいわよ」などと言われるだけなことを、彼は賢い頭脳で理解しているのだ。

全ての事の発端は約一年前。彼女、胡蝶ナマエという女から声をかけられたことだった。

その日、ロビーで同じ部隊の隊員を待っていた水上の前に、彼女は現れた。生駒隊のグループにメッセージを送っていたところに、こんにちはと穏やかに笑って声をかけてきたナマエに、水上は正直ギョッとしたのだ。

ナマエは、誰が見たって美少女と称するに相応しい容姿をしていた。濡羽色の長い髪はクセなど見当たらず、さらりとした手触りをしていそうだ。長い睫毛に縁取られた瞳は、つり目がちではあるがキツイ印象は受けない。日に焼けていない肌にはシミもなく、髪を耳にかける指先は爪まで整えられている。お淑やかで、穏やかそうな、大和撫子という言葉の似合う少女が、ナマエだった。

そんな美少女に突然声をかけられれば、水上とて男子高校生なので、当然ながら驚くし、ドギマギもする。しかしそれを悟られぬよう、とりあえずスマホをしまい挨拶を返した。


「生駒隊の方、で合ってます?」

「そうですけど……うちの隊の誰かに用事ですか?」

「ええ、そうなんです」


ここで彼の頭の中に浮かんだのは二択だった。まず一つが水上の所属する生駒隊のオペレーター細井真織。もう一つは狙撃手の隠岐孝二。このどちらかに用事だろうと彼は予想した。マリオの友人か、隠岐に気があるか。どちらだろうかと見極めようとしていた水上だったが、しかして彼の予想は大きく外れた。


「私、生駒隊の脳に、あなたに用事があるんです」

「…………は?」


その時の自分は、さぞマヌケな顔をしていたころだろうと水上は思っている。

ナマエが所属している部隊は、数日前に行われたランク戦にて生駒隊とあたったのだが、その際に先手を打たれ、練り直した策も読まれてしまっていたため、一度話をしてみたかったと笑った。要は戦略の議論だ。彼女は他の部隊に対しても同じように戦略について声をかけることがあると、そう言っていた。そのため水上に声をかけたのも、さして特別なことではなかった。故に、恐らくそれだけ終わっていれば、何も始まりやしなかったのだ。


「ああ、名前を言っていませんでした。私は胡蝶ナマエ、六頴館の二年生です」

「へえ……春が好きそうな名字やなあ。ああ、水上敏志言います。俺も二年やから同い年やし、べつに砕けた話し方で大丈夫なんで」


水上は、彼女の名字に対して思ったことを言っただけだった。とはいえ彼の言葉の意味を汲み取れる者など早々いないだろうし、彼自身言った後に「あ、説明せなかも」と思った。

目を丸くさせるナマエを見て、髪を掻いた彼が言葉の意味を伝えようと口を開きかけたが、しかしそれを遮るように、ナマエが声を上げて笑いはじめた。俯きながら肩を揺らす姿に意表を突かれて、水上はポカンと固まってしまった。顔を上げた彼女は目尻の涙を人差し指で拭いながら、まだ僅かに笑い声を漏らしていた。


「それで言うなら私は秋好中宮の方ね。ええ、けれど胡蝶に誘われたいくらいには、春も良い季節と思ってるわよ」


紫式部著書、源氏物語第二十四帖の巻名「胡蝶」。由来は紫の上と秋好中宮が贈答した和歌であり、水上が特に気にせずポロッとこぼした言葉もまた、それに因んでいた。

「源氏物語」という題は有名なものであるが、しかしてその名前しか知らない者の方が多いかもしれないなかで、「胡蝶」という単語だけで「源氏物語」の話題を挙げるのも珍しいだろう。そのため、まさか伝わるとは水上も予想はしていなかった。


「名前を伝えて、そんなこと言われたのは初めて」


ああおかしい、と呟いたナマエは至極楽しそうであった。

これが、ナマエが水上に大層興味を持ったきっかけであり、始まりである。

それを境に、ナマエは水上を見かけると声をかけるようになったのだ。二回目の出会い時に半ば強引に連絡先を交換されてからは、わりと頻回にメッセージも飛んできた。そうして知ったのは、胡蝶ナマエという女が思いの外自由奔放で、強引で、我儘であるということ。

突然部隊のシフトを送るよう言ってきたと思うと、休日を狙って「新しい服が欲しいから一緒に来て」「観たい映画があるから予定入れないでね」などとメッセージを寄越すのだ。最初の頃は窺うような素振りで確認を取ってきたというのに、三ヶ月も経てば水上が自分に付き合ってくれるのは当然だろうと言わんばかりの誘い方になった。

今日も、昨夜二十時頃に「明日休みでしょ?一緒にショッピングね」と可愛らしいネコのスタンプと共に送られてきたメッセージのせいで、彼はナマエに付き合わされている。

毎度毎度当たり前に長時間拘束され、どっちが良いかなど聞かれるし、荷物持ちにもされる。いや、最早荷物持ちが目的の可能性が高い気もする。靴屋で買った新作らしいブーツの入った紙袋と、別の店で買った前々から狙っていたというワンピースやらカーディガンやらの入った紙袋を手に、スカートで悩むナマエを眺めながら、水上はどえらい女に捕まってしまった、と心の中で呟く。


「ねえ、水上。これどっちがいいかしら?」

「どっちでもええんやないの?」

「悩んでる女の子にその答えはマイナスね」

「……どっちも似合うし、どっちでもええんやないですか」

「その答えはポイント高いわ。五点あげる」

「そらおーきに」


右手には白、左手には薄い桃色。形状は同じフレアスカートで、どうやら色で悩んでいるらしいナマエは、水上の答えににっこり笑いながら、再度悩むように両方を見比べている。長くかかりそうだと少しうんざりしていた水上だが、またも自身のほうを向いたナマエに、今度は何だと身構えた。


「質問を変えるわね。水上は、どっちを着てる私が見たい?」


こてん、と首を傾げて笑うナマエに、水上は一瞬拳を握った。けれどもそれは怒りからくるものではない。いや、若干怒り的なものも混じっているけれど。

平然を装いながら彼女の手にするスカートを順に見た水上は、長い長い間を空けて、左と答えた。


「じゃあこっちね」


嬉々として白のスカートを戻したナマエは、水上の選んだ物を手にレジへと歩いていく。背中で揺れている黒髪を眺めながら、彼は片手で顔を覆い、今度はため息を吐き出した。

レジの女性店員と楽しそうに言葉を交わし、会計を済ませて戻ってきたナマエは、さも当然のように荷物を水上に手渡すと、今度は新しいリップが欲しいと歩きだす。かれこれ数時間は連れ回されているというのに、まだ行くかと顔を歪めた水上は、決意を思い出してナマエを呼び止めた。


「いや、もう今日はええやろ。胡蝶ちゃん、上から下まで全身コーディネートでもするん?」

「あら、水上は不満?」

「そりゃあ、俺は胡蝶ちゃんに付き合わされとるだけやし。その上荷物も全部持たされて、俺は付き人か。毎度毎度……そろそろ我儘が過ぎると、水上敏志くんは思うんやけど」


水上が腕の荷物を見せ、呆れたように、うんざりした風に伝えれば、ナマエはキョトンとした顔で彼を見つめた。その心底不思議そうな顔に、これ伝わっとんのか?と不安を覚えていたところ。

おかしそうに笑い声をこぼしたナマエが、軽い足取りで水上の前に戻ってきて、顔を覗き込みながら告げた。


「でも、水上はそんな我儘な私、好きでしょう?」


聞いておきながら、否定の言葉が返ってくるとは微塵も思っていないほど、自信に満ちた声で彼女は言う。ニコニコと微笑んでいるナマエを前に、水上は己の決意がみるみる萎んでいくのを、今日もまた、止めることはできなかった。


「……その自信はどこから湧くんやろなあ」

「そうねえ、水上の態度からかしら」

「……もうええわ。俺が胡蝶ちゃんの我儘に付き合ったらな、他に被害がいってもたまらんし」

「じゃあ、水上は被害拡大を抑えるために、今後も私に付き合ってね。お礼に、今度水上が選んでくれたスカート着てお出かけしてあげる」

「はいはい、おおきに。楽しみにしときます


くるりと振り返ったナマエは、お目当ての店へと歩いていく。その後ろをついていきながら、どえらい女に捕まったと、水上は改めて思うのだ。

何を隠そう、彼女の自信満々な発言は何も間違ってなどおらず。ナマエの言う通り、水上敏志は胡蝶ナマエが好きなのだ。彼女の自由さも強引さも我儘も、全部許せてしまうくらいには。何せそれらは全て水上にしか発動されない。

普段のナマエは、彼が当初抱いた印象通りの少女だ。お淑やかで、穏やかで、大和撫子のような人物。それが自分にだけは、途端に自由をまとい、強引さを振りかざし、我儘を口にする。こうも目に見えて特別扱いをされるのだ。

好きになったキッカケも、結局はそれである。自分を見つけるとパッと笑って駆け寄って来たり、頻回にメッセージを送ってきたり。それは誰にでもしている行動ではなく自分にだけともなれば、そりゃあ好きにもなるし、全て許してしまうのも仕方がないだろう。誰に言うでもない言い訳である。

とはいえ彼女の言葉に他意はなく、額面通りの意味しかない。水上側は思いきり下心アリなわけだが、ナマエの方はそういうわけでもない。むしろ下心でもなければ、彼は毎度毎度こんな面倒なことに付き合ったりしない。

そもそも水上は、好き好んで他人に振り回されにいくような性格はしていない。そんな男が、なんだかんだ言いながら自分の行動を許容しているから、ナマエも水上相手に好きに振る舞い、尚且つそんな自分が好きだろうと言うのだ。彼女にとって水上敏志という男に対する信頼は、それほどまでに厚いのである。

その信頼を全面に受けながら、どうやってかの自由奔放で我儘放題な女を自分の側へ引き摺り込むかと、水上は考える。己の時間やら心やら諸々好きにさせているのだから、お代として彼女本人を貰わなければ割に合わない。彼女の成すこと許容しまくって、いっそこちらにズブズブに落ち込めと思うくらいには、水上は執念深い男であるのだ。

胡蝶ちゃんもどえらい男捕まえてしもうて。かわいそうなんて、思いもしないけれど。前を歩く彼女を見つめて、水上は心の中で舌を出した。