- ナノ -

「男の子」が剥がれる


   視界の先、細い腕でダンボール箱を二つ抱えているスーツの女性を見て、足早にそちらへ向かう。声をかけると、くるりと振り返ったその人は、瞳をぱちりと瞬かせ、目尻を下げてふわりと微笑んだ。


「あらあら、荒船くん。こんにちは。学校終わり?」

「はい。あの、それ……」

「これ?   これはねえ、ボーダーグッズの試作品なの」


   ダンボール箱には新しく打ち出す予定のグッズが詰まっているようで、彼女が少し箱を動かすと、ガサガサと包装用のビニールが擦れる音が聞こえてきた。

   穏やかな空気をまとう彼女、ミョウジナマエさんは、ボーダーの広報部に勤めており、グッズのデザインや、グッズ化する隊及び隊員の選出などに関わっている。年は二十三歳で、未成年の多いボーダー内では年長者に数えられるほうかもしれない。


「運ぶの手伝います」

「まあ、大丈夫よ?   お姉さん、意外と力持ちだから。それに、これは軽いもの」


   遠慮する彼女に僅かに顔をしかめる。そんな俺を見上げてしばし見つめてきたと思うと、「でも、ちょっと腕が疲れちゃったから、やっぱりお手伝いお願いしようかな」とゆったり微笑んだ。返って気を遣わせてしまったことや、子ども相手のような対応にまた不満が顔に出そうになったが、きっとそうしたってナマエさんは微笑ましげにするだけだろうと想像できるので、寸で堪えた。

   ダンボールを一箱受け取りながら向かっている場所を尋ねれば、営業部の会議室だと言われたので、彼女の隣に並んで目的地へ向かう。自分よりも小さな歩幅に合わせるよう意識することを忘れずに。

   自分より低い位置にある頭を盗み見ながら、何か話をするべきかと考える。会って振る話題は大抵が俺の好きな映画のことで、最終的にこちらの熱が入ってしまい、ナマエさんがうんうんと話を聞いてくれて終わる。若干一方的感が否めないので、そろそろ新しい話題を手に入れたい。何を話したって、この人は嫌な顔なんてしないのだろうけど。


「そういえば荒船くん、この間のテスト。中間だったかしら?   点数良かったんだってねえ」


   頭を回して話題になりそうなことをどうにか引き出そうとしていれば、彼女のほうから話を振られた。また、気を遣われてしまった。いや、この人は気を遣ったという感覚はなく、単に「年上として」という思考のままに行っていることだ。


「一応、それなりには」

「村上くんがお話してくれたのよ。自分たちの勉強も見てくれたんだって、嬉しそうにしてたわ。ボーダーの任務もあるのに、すごいのねえ」

「……任務を言い訳にはしたくないので」

「まあ、荒船くんはしっかり者ね」


   お世辞だとか社交辞令ではなく、この人はこういうことを、素で言ってくるから心臓に悪い。けれど深い意味がないことも知っている。

   オペレーターや防衛隊員には学生が多く、彼女の仕事柄防衛隊員たちと関わることが多い。ナマエさんは四人姉弟の長女で、下に妹が二人、弟が一人いるらしい。一番下は中学一年生だそうだ。そんな環境で育ったからか、彼女は面倒見が良く、また隊員が下の妹弟と同年代が多いこともあって、俺や俺以外の奴らにも、この人は「お姉さん」として振る舞う。

   穏やかで、おっとりしていて、以前加賀見が「癒し系」だと言っていたが、確かにそうなのだろう。世話焼きで甘やかし上手で、後ろに花でも飛んでそうな雰囲気を持っている。しかも意外と肝が座っているとでも言おうか。風間さんや二宮さん相手にも、他と同じように接する。前に「二宮くん、隊員の子にご飯ご馳走したんだってね。犬飼くんがお話してくれたのよ。二宮くんは優しい隊長さんねえ。そんな二宮くんには、お姉さんがジュースをプレゼントするわね」と褒める彼女と、「いえ……ありがとうございます」と大人しく受け入れている二宮さんを見かけ、半崎が二度見どころか五度見はしていた。

   年下。かわいがる理由も、甘やかす理由も、ナマエさんにとってはそれだけで充分だ。無条件で彼女の優しさと愛情をもらい続けることができる。けれど、それだけ。そこにあるのは子どもを想う母と同じような温かさと柔らかさであって、それ以上でも以下でもない。その事実が、鉛のように胸の底に沈んでいく。

   気付けば、会議室に着いていた。一度ダンボールを床に置いた彼女は、護身用トリガーを取り出して鍵を開けた。本部の部屋は、タッチ式の自動ドアが多い。部屋によっては静かに入退室ができるようにと、手動式のドアも設置されているが、どこも基本的にはトリガー認証とパスワード入力で鍵を開けれるように設計されている。

   ダンボールを抱えなおして開いたドア――この会議室は自動ドアのほうだった――から中に入ったナマエさんは、それを長テーブルに置いた。続けて俺が入ると、ドアが閉まっていく。腕に抱えた箱をテーブルに置けば、彼女はありがとうと微笑んだ。


「なんだか、いつも荒船くんに手伝ってもらってるわね」

「いえ。俺が、好きでしてることなので」


   研究や開発に付きっきりなエンジニアは基本開発室に篭もりきりだ。しかし、広報部のナマエさんのことは本部内で度々見かける。それは隊員に広報の仕事を打診しに行ったり、打ち合わせのために隊室を訪れたりしているからだろう。今日のように試作品や在庫を運んでいる姿を見て声をかけたのも初めてのことではなく、こうして仕事を手伝うことは何度もあった。


「荒船くんは優しい子ね。いつもありがとう。お姉さん、すごく助かっちゃう」


   「お姉さん」。その言葉が、耳障りに聞こえる日がこようとは。きっと彼女が度々口にするからだろう。

   ナマエさんはその人柄故に、人に慕われる。他の隊員に笑顔や優しさを振りまいている姿だって嫌というほど見かけた。加えて俺は、五つも下の未成年。彼女の中では一つだろうが五つだろうが、歳が下なら自分は「お姉さん」だ。俺への対応と、風間さんや二宮さんたちへの対応に、大きな差なんてない。

   それが、不愉快でしかたない。

   結局それは、今の俺であろうが、高校を卒業して成人に足を突っ込んだ俺であろうが、この人にとっては「年下の男の子」でしかないということだ。どんなにアプローチをかけたって、小動物が戯れてくる程度の微笑ましさしか感じてくれやしないだろう。

   どうしたら、この人は俺を見てくれるのだろう。どうすれば、この人は俺を「男の子」ではなく「男」だと認識するのだろう。年齢なんて、どうしようもないものじゃないか。沸いてくる怒りや悔しさの行き場がない。


「でも、お手伝いしてもらいっぱなしなのは悪いわ。何かお礼をさせて?」


   ナマエさんの声が、耳にスッと入ってきた。何がいいかしら?   とこちらに委ねるように呟きながら、彼女はダンボールから中身を取り出している。明かりが点いていないが、窓越しに入る外の日差しでそこまで暗くはない。けれどガラスの向こうは橙色がじわじわと侵食しはじめている。もしまだしばらくこの部屋にいるのであれば、明かりを点けたほうがいいだろう。


「……俺が、決めていいんですか?」


   答えなどわかりきっていながら、しかし欲しい言葉を引っ張り出すために確かめるように尋ねれば、顔を上げた彼女は無垢な顔をして笑い、頷いた。


「お姉さんにできることなら、なんでもお願いしていいわよ」


   言質を取った、というのはこういう時に使うのだろう。できることなら、なんでも。ハッキリと、ナマエさんはそう言った。それは聞きたかった言葉であるものの、この人は危機感が足りない。いや、俺が年下だから、油断しきっているのだろう。ならば他の奴相手にも同じくらい無防備ということだ。想像して、ドロドロとした黒い澱みのようなものが生まれていく。

   他人に無防備を晒すのは許せない。俺を意識してくれないのも腹立たしい。だがどちらも解決できる術が、頭に浮かんだ。彼女の言葉のおかげで、それを実行に移せる。


「なら、今からすることを受け入れてください」


   ぱちりと、瞳が不思議そうに瞬いた。意味を問おうとしたのだろう。ナマエさんの唇が僅かに開いていくのを見ながら、帽子を取ってテーブルに置き、言葉を飲み込むように己の口で塞いだ。一拍置いて、まん丸になっていく瞳と、彼女が手にしていた試作品のタオルが落ちる音。


「まっ、荒船くん……!」

「受け入れてくださいって、俺、お願いしましたよ。聞いてくれるんですよね、なんでも」


   肩を押す小さくて細い腕に、一度離れて彼女の言葉を持ち出した。自分の言葉には、責任を持つものだ。俺よりも年上なこの人は、それをよくわかっている。だから戸惑いつつも、焦りつつも、言い返す言葉が出てこない。

   弱々しく下がっていく眉に思わず口角が上がって、もう一度唇をくっつける。ナマエさんの両手は俺の肩に添えられているが、押してくるようなことはない。こんなにも単純に、簡単に言い包められるとは、心配になる。今後変な奴らに騙されかねない。そうならないように守ってやらないと。

   唇からほんのりと香る匂いは甘い。何か、フルーツのような気がする。恐らく桃だろう。くっつけては離して、それを何回か繰り返していれば、ナマエさんの瞳がぎゅっと閉じられた。耳まで真っ赤に染まった肌に触れると、熱が伝ってくる。そっと下唇を食むと、肩が揺れたのが視界の端に見えた。腰に手を置くと、また小さく揺れた。


「んんっ、ふ、ぅ……」


   食んだ唇を舌先で舐めて、僅かに開いた隙間から彼女の口内へと入れていけば、くぐもった吐息が聞こえて、縋るように肩を掴まれる。目尻に浮かんでいる涙を親指で拭ってあげながら、ゆっくりと口内を堪能した。

   上顎、歯列、そうして奥へ引っ込んでいる舌に触れる。舌先をつついて、表面をなぞり、舌裏をぐりぐりと擦りつけていれば、唾液が溜まって、彼女の口の端からこぼれていった。

   静かな会議室に似つかわしくない水の音と、こくりと上下に動いた彼女の白い喉。ゾクゾクと、痺れに似たなにかが背骨を伝う。混ざり合った唾液を吸って飲み込めば、胸の底に落ちて溜まった澱みや鉛が、軽くなっていくようだった。

   苦しそうな表情へと変化した辺りで唇を離せば、勢いよく息を吸い、肩を上下に動かすナマエさん。名前を呼べば、大袈裟に身体を揺らして、恐る恐る上がっていく顔。


「男相手になんでも、なんて軽率に言うものじゃないですよ。気をつけてください」


   何が起きたか理解できていないように涙の浮かぶ瞳を白黒させる彼女に、わかりましたかと尋ねると、首がぎこちなく縦に動いた。


「でも、俺にだけは言ってくれていいです」

「ぇ……?」


   漏れ出たか細い声と、大きく見開かれた瞳。年下に向けるいつもの穏やかさや微笑ましげな顔はそこにはない。ナマエさんにとって俺は「年下」で、「男の子」だというのに。

   身体を離せば、彼女はふらりとしながらもテーブルに手をついた。混乱気味な姿を尻目に帽子を被り、ドアのほうへ向かってそばにあるスイッチを押せば、室内が瞬時に明るくなった。


「もう少ししたら日が落ちるので、ここで作業するなら、明るくしておいたほうがいいと思います」

「あ……う、うん、ありがとう……」

「いえ」


   彼女を置いて室内を出ていく。背後でドアの閉まった音を聞きながら、帽子を深く被り直す。

   次会ったとき、あの人は俺にどんな顔をするのだろう。きっと「お姉さん」なナマエさんはいない。それを考えるだけで満たされていく心に、口もとを隠した。