好きばかりが増えていく
私ね、雨って結構好きなんだあ。そう言って笑うナマエは、窓の外を眺めている。暗い雲から無数の水が落ちてくるだけのそれを、何が楽しいのか、ニコニコとした笑顔で。
洗濯物は干せないし、人によっては頭痛を起こしたり。濡れたら服が張り付いて気持ち悪いし、癖毛の人は湿気で大変なことになるだろう。そんな、嫌なことのほうが多いだろう雨という天気を好きだと言う彼女は、珍しいタイプに当てはまるのではないか。
教室には俺とナマエの二人だけ。日直故に日誌を書かなければならない俺を、彼女は前の席に座って待ってくれている。両肘ついて手のひらに頬を乗せながら俺の文字を見ていたと思えば、ポツポツと窓を叩き出した雫。それに気付いた彼女は、パッと顔を上げて窓の外を見つめはじめた。
そうして、雨が好きなのだと笑った。
「へえ……なんで?」
豪雨というほど強くはないが、小雨とも言い難い。窓の外側に流れる水滴は数を増して、微かに雨音が聞こえるようだった。ぱちりと瞬きを一つしながら俺の方を向いたナマエは、んー、と考えるように顎に手を置いて、一拍。
「雨の日のときだけの、いいことがあるから」
照れたようにほんのりと頬を染める恋人の表情がかわいくて、少し心臓が跳ねる。雨が好きな理由の詳細は何一つわからない回答だが、彼女がかわいいので指摘しなかった。
「あとで、帰るときに、烏丸くんにも教えてあげる」
小さく笑い声を漏らして、ナマエは楽しそうに言った。早く言いたくて堪らない。そんな風にも見えて、少しでも早く日誌を書き上げようと、止めてしまっていた手を動かす。待っている間暇だろうに、彼女は「雨の日のときだけのいいこと」があるからなのか、どこか心待ちにしているような雰囲気で、なんだか楽しそうだった。
いそいそと日記を書き上げ、荷物を手にナマエと教室を出て、提出を終えることで、ようやっと日直という俺の今日の役割は終了する。彼女の歩幅に合わせながら廊下を進み、下駄箱で靴を履き替えたとき。
「わたし、今日傘忘れちゃったの」
傘置き場から自分の傘を取り出した俺に、ナマエはそう言って笑った。
今日の降水確率は八〇パーセント。天気予報でも雨が降ると、テレビの中のお姉さんは言っていた。そんな日に傘を忘れるとは、と思わず目を瞬かせた。
「ドジだな」
「ね。うっかりしてた」
眉を下げる彼女に手招きをして、傘を広げた。たまに弟や妹を迎えに行くこともあるため、一人で使うには少し大きめの傘。これなら、彼女を濡らすことはないだろう。小走りに隣に来たナマエを傘に入れれば、少し照れたように微笑んで、俺のほうへと僅かに身を寄せた。
ごめんね、と謝る彼女に平気だと伝える。実際、相合傘ができていることに心の中で感謝している。ベタではあるが、一度はしてみたいシチュエーションなことには間違いないのだから。
普段同様にゆっくりな足取りで、普段よりも近い距離で、帰り道を歩く。ナマエは時々俺のほうを見ながら、昨日見たテレビの話や、家族のこと、飼い猫のことなど、小さく身振り手振りを加えて、いろんなことを聞かせてくれる。彼女が楽しそうにいろんな話をしてくれるこの時間は、俺にとって日々の癒しであり、好きな時間でもある。
「それで、お姉ちゃん、リコちゃんにオモチャ買ってきたんだけど、全然見向きもしなくって」
「猫って気まぐれらしいしね」
「本当にそう。リコちゃんなんて、相手しなくなったら寄ってくるんだよ」
ナマエには五つ上の姉がいて、飼い猫を二人して可愛がっている。何度か写真を見せてもらったことがあるが、真っ白な美猫だった。しかし名前はリコピンで、命名したのは母親らしい。曰く、響きがかわいかったからだそうだ。そして彼女はリコちゃんと呼んでいるが、雄猫である。色々とツッコミどころは多いが、ナマエが楽しそうに話す姿がかわいいので、そんなのは些細なことだろう。
彼女のお姉さんとは何度か会ったことがある。目もとがよく似ているが、少しのほほんとしているナマエとは対照的に、しっかりしている印象を受けた。しかし、リコちゃん基リコピン相手となるとデレデレになるらしい。多分彼女と同じような感じになるのだろう。
バイトやボーダーなど、多忙極まりないなかで貴重なオフが取れたときには、毎回と言っていいほど彼女をデートに誘っている。けれど優しいナマエは俺を気遣って、所謂お家デートとなることはままあり、基本彼女の家にお邪魔させてもらっている。うちに来て弟や妹の相手をしている姿を見るのも微笑ましいし、結婚して子どもができたらこんな感じなのか、としみじみ噛み締めるのだが、それはそれとして弟妹にナマエを取られてかまってもらえないのは嫌なのだ。
彼女の家の場合は、愛猫リコピンがいる。俺は、恐らく懐かれてもいない。どちらかと言うとマウントを取られている気さえある。リコピンにすり寄られると、ナマエは顔を緩ませて彼を抱きあげたり、撫でたりとメロメロになってしまう。兄妹の前ではかっこ悪いところを見せれやしないが、しかし猫相手ならばこちらも少しは強気でいられるもので、たまに彼女を取り合うような仲になってしまった。
甘やかすほうが好きだが、俺が甘えたときの彼女の真っ赤な顔が好きなので、リコピンには悪いがダシにさせてもらっている。彼もそれに気付いているからか、最近俺がいるときに近付いてこなくなり、けれど俺が独り占めしているとナマエの気を引こうとするので、中々に侮れない猫だ。
足もとで水が小さく跳ねる小さな音を耳が拾いながら、傘の中でナマエの声に耳を傾ける。少し高めで穏やかな、聞き心地のいい声は、彼女の好きなところの一つ。挙げれば切りがないくらい魅力であふれた女の子。そんな子が自分の恋人なのだと思うと、頬がだらしなく緩みきってしまいそうなので、表情筋を引き締めた。
「明日は、烏丸くんはバイトなんだっけ」
「うん」
「がんばってね。でも、無理はしちゃダメだよ。烏丸くん、いろんなバイト掛け持ちしてるし、ボーダーの任務だってあるんだから」
立ち止まったナマエにつられ、足を止める。傘の外側を覗く彼女の視線を追えば、もうナマエの家についていた。この瞬間、いつもあっという間だったな、と残念に思う。俺の都合で中々時間を取れないことは多く、彼女にはいつも我慢させていることは常々申し訳なく感じている。だからこういうとき、少しでも長くいたくて、わざと足取りを遅くしていることを、きっと彼女は知らない。
玄関前まで送り届け、ナマエが濡れていないかを確認する。ローファー以外は無事そうなので安心しながら、ふと、雨の日のときだけのいいことを教えてもらっていないと思い出した。
「本当はね」
それについて尋ねようとした俺よりも先に、彼女が頬を少しだけ赤くしながら口を開いた。
「折り畳み傘、持ってたんだ」
「え?」
「烏丸くんと一緒の傘に入りたくて、嘘ついたの。相合傘したらいつもより近づけるし、声もね、よく聞こえるから」
バッグの中から使われていない折り畳み傘を取り出したナマエは、照れたように笑った。
「これがね、雨の日のときだけの、いいこと」
傘を持つ手が無意識に強くなる。だって、そんなの、かわいすぎやしないか。普段よりも近い距離になれるから、相合傘ができるから、傘を持っていないなんて小さな嘘をつくなんて。じわじわと顔に熱が集まってくるのを感じる。黙り込んでしまった俺に、ナマエは眉を下げてごめんねと謝るが、ゆるく首を横に振った。
「次の雨のときも、傘忘れたって、嘘ついていいよ。本当に忘れてきてもいい。そのときは、また俺の傘に一緒に入って帰ろう」
ぱっちりとした瞳が瞬いた。そうして、嬉しそうに綻んでいく。
「雨、もっと好きになっちゃった」
「ん。俺も、雨好きになった」
同じだね。嬉しそうに口もとを両手の指先で隠しながら笑うナマエがあまりにもかわいいくて、好きが溢れてやまなくて、狭い額に唇を寄せた。途端に目がまん丸になる姿は、彼女の愛猫にそっくりで、思わず笑みがこぼれた。顔を真っ赤に染めながら、慌てた様子で「じゃ、じゃあ、また明日ね!」と逃げるように中に入っていく姿を見て、彼女の好きなところがまた一つ増えた。