- ナノ -

適切な順序立てから始めましょう


「あの、本当に、本当に大丈夫だから……」

「それじゃあケジメがつかねェ。責任取らせてくれ」


   目の前には座って頭を下げる弓場くん。私の隣には仁王立ちで腕を組んでいるののちゃん。この異様な光景にとてもとても胃が痛いし、ダラダラと冷や汗のようなものが止まらない。心なしか人が避けていっているような気がする。いや、完全に避けている。だってさっき生駒くんや生駒くんたちの隊員さんたちの声で「え、何やあれ、どういう状況?」「さあ……?」「あれ土下座ですか?」「どげ……まあ、土下座やな……」「よう分からんけど、深刻そうやから邪魔せんどこか」って言ってるの聞こえた。

   何故このような状況に陥っているのかは、言葉にすればすごく簡単な話である。ものの十分ほど前だ。私とののちゃんがお喋りしながら歩いていて、何もないところで躓いて転けそうになるというポカをやらかした私を、偶然すれ違った弓場くんが咄嗟に支えてくれた。けれどその時に彼の手が私の胸を思いきり掴んでしまった、という事故である。

   そう、全ては事故で、偶然で、弓場くんは何も悪くない。何だったら何もないのに躓いた私の注意力不足が招いたことであって、だからののちゃん、煽るように「責任とんのは当然だろうが!」なんて言わないでくださいお願いします。


「でも、本当事故だし……弓場くんだって悪気があったわけじゃなくて、あのままだったら私思いきり顔打ってただろうから……責任取るほどのことじゃないよ」

「いや、女の身体に許可なく触った挙句、その触った箇所もよくねェ。きっちり落とし前つけねェと」

「そんな、それほどのことじゃないよ……」


   助けてもらっておいて胸触った責任取れ、なんてそんな恩知らずなことはしない。けれども彼は納得がいっていないようで、エッジの効いたメガネ越しにこちらを見上げる眼光は、なんというか鋭い。睨まれているのかと錯覚してしまう。


「第一、私の胸はそんな重く捉えられるほどのものじゃないからさ……むしろ、こちらこそお粗末なもの触らせてしまってごめんなさいと言うか……」


   アハハ、と苦笑い気味に頬を掻いた。私の胸はハッキリ言って小さいほうで、高校時代の元彼にも「胸が小さい」という理由で浮気された挙句フラれた。これでもどうにか頑張った結果がBカップ。悲しいかなこれ以上育ちそうにはない。フラれた理由はそれだけでなく、「とろくて面倒」というものもあったのだけど。そんな悲しい過去を思い出し、つい涙がこぼれた。

   あ、このタイミングはまずい。そう思うのも束の間、弓場くんは大きく目を見開いて、額を打ちつけるように勢いよく頭を下げた。


「本当に悪かった。ミョウジの好きなだけ殴ってくれてかまわねェ」

「いやいやいや、あの、違うの!   違うから!」


   慌てて彼の前に膝をついて、どうにかこうにか頭を上げてもらうよう頼む。この涙に弓場くんの責任なんて微塵もない。あるのは元彼への怒りやら悔しさやら、フラれた悲しみだけだ。


「弓場くんのせいで泣いてるわけじゃないから……これは元彼のことを思い出しただけで……」

「元彼?   ナマエ、おめぇそんな奴いたのか」

「高校の時にね……まあ、胸が小さいとか、とろくて面倒って言われて、浮気されてフラれたけど……」

「は?   どこのどいつだ!   今すぐぶん殴り行くぞ!」

「行かなくていいからね?   ののちゃん、ダメだよ?   絶対ダメだからね?」


   眉間にしわを刻み、本気で探し出して殴りに行きかねないののちゃんのほうを振り返りながら、必死に首を横に振る。暴力、だめ、絶対。パシン、と自身の拳を手のひらにぶつける彼女に涙も引っ込んでいくようだった。

   とりあえず、まずは弓場くんを落ち着かせなくては。そう思うと同時、背後からゾクリと背筋が凍るような気配がして、身体が強張った。殺気のようなものを感じるのだが気のせいだろうか。身を震わせながら恐る恐る振り返っていき、ヒィ、と悲鳴が漏れた。


「なんだァ、そのふざけた男は……」


   元々鋭めな眼光が、普段の比ではないくらいに鋭利になっている。目だけで人を殺せそうとはこういうことを言うんだろうなあ、なんて現実逃避のようなことに思考を飛ばすくらいには恐怖だった。

   肉食獣を前にした小動物の気持ちが今なら理解できる。身を竦める私は、ガシリと肩を掴まれ、再度悲鳴を漏らした。引っ込んでいた涙がまた出てきそうだ。今度は紛うことなく弓場くんが原因で。


「女の身体しか見てねェその男の頭が粗末なだけで、おまえは何一つ悪かねェ」

「弓場の言う通りだ。おめぇの魅力もわかんねぇようなそんな男はサクッと忘れちまえ。覚えてたってロクなことにならねぇからな」

「ミョウジは愛嬌もあるし、周りに気も遣える。自分の仕事こなしながら、後輩の面倒だって見てる。ンなもんしか見てねェ奴にはもったいないくらい、いい女だ」


   私のために怒ってくれているというのがわかる言葉に、胸がぽかぽかと温かくなっていく。嬉しいけれど、内容が内容なだけに恥ずかしさもあって、じわりじわりと頬が熱くなった。

   私は昔からおっちょこちょいなところがあった。それこそ何もないところで転びかけたり、落とし物をしたり。それに仕事だって早くはないし、要領も悪いから私の手帳や大学のノートなんかは、メモや付箋だらけで大変なことになっている。よく迷惑をかけてしまう自分の不甲斐なさや元彼とのそんな別れ方もあって、どうにもネガティヴになってしまう。


「ありがとう、二人とも。なんか、ののちゃんと弓場くんにそう言ってもらえたら、少し自信つくよ。正直あの時のこと、少しトラウマみたいな感じだったし」


   ののちゃんと弓場くんは、どちらも男前でかっこよくて、ハッキリとした性格だ。だからそんな二人から褒めてもらえると、少しは自分を褒めてもいいように思える。

   オペレーターとして隊に所属はしていない私より、弓場隊でオペレーターをしているののちゃんや、弓場隊で隊長をしている二人のほうがずっと多忙だろうに。二人の優しさに、些か弱まっている涙腺が刺激されるようだった。

   ポケットからハンカチを取り出していそいそと目尻を拭きながら、二人にお礼を伝える。何故だか元気づけられてしまったが、ひとまず責任云々の話はなくなったのではないだろうか。これは、じゃあこの辺でと解散する流れだろう。


「で、だ。俺の落とし前だが……」


   なくってなかった!   全然なくなってなかった!   これでは堂々巡りになってしまう。どうするべきかと頭を悩ませながら、ふと彼の言う「落とし前」はどういう形でつけようとしているのかが気になり、恐る恐る尋ねてみた。どうしよう、さっきみたく殴ってくれとか言われたら。多分軽く叩くくらいじゃ許してもらえない。

   ぱちりと彼の目が瞬いたのが見えた。少しビクビクしつつ言葉を待てば、弓場くんは真剣な顔のまま口を開いた。


「嫁にもらう」

「……ん?」

「嫁入り前の女の身体、それも胸に触ったどころか思いきり掴んじまったんだ。責任取って嫁にもらいてェと思ってる」

「……んん??」


   聞き間違いかと首を傾げたが、聞き間違いじゃなかった。理解するのも数秒かかり、ぶわっと顔に熱が集中していく。そんな、それは色々とぶっ飛びすぎというか、流石にそこまでの責任の取り方はしなくてもいいし、それならまだ殴ってくれって言われたほうが気が楽だ。いや殴るのも全然楽じゃないけども!


「そんな、それは重く考えすぎだよ!   一旦冷静になろう?   嫁になんて、簡単に言っちゃだめだよ……」

「簡単に言ってなんかねェ。本気で言ってる」

「それはそれでだめだよ……こんなことで、お嫁さんにどうのとか、よくないよ……結婚って大事なことなんだから、好きな子というか、恋人とかに言わないと……」


   ここで仮に承諾でもしようものなら、彼は自分の今後の恋愛を全部投げ捨てることになる。弓場くんに現在彼女がいるという話は聞いていないが、もし好きな人がいるのだとしたら、余計にこんな責任の取り方はよくない。もっとよく考えるべきだと説得する私に、弓場くんは問題ないの一点張りだ。いや、問題しかないよ弓場くん。


「おい弓場、おめぇよ……『落とし前』なんて言葉を理由に誤魔化すつもりかよ。だいたい、それじゃあおめぇ、得してんのはそっちで、まったく『落とし前』にはならねぇぞ。きっちりケジメつけろや」

「え、あの、ののちゃん?」


   彼女の言葉の意味がよくわからず、戸惑ったまま首を傾げる。私だけ置いてけぼりな気がしながら二人を交互に見ていれば、弓場くんから名字を呼ばれ、思わず勢いよく返事をして彼に向き直った。反射的に背筋がピンと伸びてしまうのはしかたがないと思う。


「悪い、今のは狡いマネしちまった。やり直させてくれ。いいか?」

「う、うん?   どうぞ?」


   何が狡くて、何をやり直したいのか正直一ミリも理解できていないが、とりあえず頷いた。弓場くんは一つ深呼吸をすると私をまっすぐに見据え、両膝に置く拳をグッと握った。


「ミョウジが好きだ。結婚を前提に付き合ってほしい」

「……ん?   え?   あの、落とし前は本当に……」

「これは落とし前じゃねェ。気を急いてあんなこと言ったが、本心だ」

「ほんしん……」


   頭が混乱して思考がぐるぐる回っている。弓場くんは私を好きだと言って、それは別に落とし前とは関係なく、本心からの言葉で。突然の告白に頭がショートしそうで、自分でも顔が真っ赤になっていることがわかるくらいだった。


「弓場くんが……私を……?   いや、え?   な、なんで私なんか……私、さっきみたいに何もないところで転びそうになるくらいおっちょこちょいだし……」

「危なっかしいが、そういうところは守ってやりてェと思ってる」

「仕事だって遅いし……」

「丁寧にやってるってことだろ。後輩にだって、時間割いて色々教えてんのも知ってる。そういうところも好きだ」

「む、胸も小さいし……」

「そんなこと気にしてねェし、おまえはそもそもいい女だ」


   真剣に、まっすぐに伝えられるものだから、この人は本当に私のことが好きなのだと理解していく。


「突然こんなこと言って、混乱させちまって悪い。ただ、本気だってことは知っといてくれ。嫁にもらいたいってのも含めて」

「ぁ、えっと……」

「返事は今すぐくれとは言わねえ。ただ、考えといてほしい。もし受け入れてくれるってんなら、一生大事にする」


   脳内で弓場くんの言葉が延々と繰り返されていて、視線を右往左往させる。彼のことをそういう風に見たことは正直なくて、でもこうも真正面から気持ちをぶつけられると、ドキドキしてしまう。


「好きだって、言ってもらえたのは嬉しい……」

「ああ」

「でも、私、弓場くんのこと、ちゃんと知らなくて……だから……」


   姿勢を正して座りなおし、おずおず頭を下げた。


「お、お友だちからは、だめでしょうか……?」


   こういうの、ズルいのかな。好きだって言ってもらえて、でも私は弓場くんのことそういう風な意味で好きとは思ってなくて。ならキッパリと断るべきなんだろうけど、でも彼の誠実さには何かしらで応えたくて。よく知らないからで断るのは、なんだか悪い気もして。

   緊張感いっぱいで弓場くんの返事を待つ。ギュッと目を瞑っていると、バクバクと鳴る心臓の音がよく聞こえるようだった。

   多分、十秒もなかったと思う。フッと空気が漏れるような音が聞こえたと思うと、弓場くんがクツクツ笑う声が耳に入ってきた。恐る恐る顔を上げて目を開けたら、少しおかしそうな顔で、弓場くんが笑っていた。


「お友だち、か。友人の知り合い、よりはいいな。スパッと断られるより機会もある。願ってもねェ申し出だ」

「じゃ、じゃあ……」

「よろしく頼む」


   差し出された手を見つめ、慌てて彼の手を握った。大きくて、ゴツゴツとしていて、男の人の手、という感じでなんだかドキドキしていると、握る力が強くなるから、思わず肩が大袈裟に跳ねた。


「小せェな」


   呟いた弓場くんの手がゆっくりと移動して、手の甲に彼の手が重なったと思うと、確かめるように私の肌を撫でる。身体が強張って、つい視線をそらすと、弓場くんとかちりと目が合った。瞳をキュッと細めた彼が僅かに口角を上げる。


「弓場ぁ!   おめぇ、お友だちってんなら相応の距離感ってもんで接しろ!   積極的なのは悪くねぇけど、あたしの目が黒いうちは、ナマエに変なことさせねぇからな!」


   ののちゃんが私と弓場くんの手を引き離すように、私の手を掴んで引っ張った。そうして彼に先の言葉を告げ、私に声をかける。ハッとして立ち上がった私は、ののちゃんに手を引かれるがままその場から離れた。

   一度振り返ると、立ち上がった弓場くんと目が合った。


「ゆ、ばくん……!   あの、またね……!」


   彼が笑ったのが見えたと思うと、ひらりと軽く手を振られた。

   なんというか、既に若干落ちかけているというか、危うい気がしてならない。今後の彼とのお友だち関係を思うと心臓が忙しく鳴りやまなくて、これはちょっと誠実さに欠けるぞ、と己の単純さに頭を抱えたくなった。