対象外を飛び越えないで
人生で最大のピンチを迎えた。運が良ければ恐らくあと七十年くらい人生は続くだろうが、ひとまず現在、十八年生きてきた中では、最大と評したっていいはずだ。
私には、推しという存在がいる。元々は漫画やゲームなど、画面や紙面の向こうにいた。今だって歴代の推しに平等な愛を持っている。今後も画面の向こうの彼ら彼女らを糧に、学業やらボーダーの任務やらを頑張っていくのだろうと思っていた。
しかし、そんな私にもとうとう、現実に推しができたのだ。私が彼を推すに至ったのは、最初は単に見た目が好みだったからなのだが、彼の戦闘シーンのクールな佇まいや仕事人といった感じの振る舞いと、普段の少しぽわぽわとした穏やかさのギャップに見事撃沈、心を射抜かれてしまった。
そんな推しの名前は村上鋼くん。まず名前がかっこいい。「鋼」だ。字だけでかっこよさと強さを兼ね備えている。実際、No.4攻撃主という実力者。弧月とレイガストの二刀流なんてかっこよすぎて、彼のログは二万回見た。今後も再生回数に大幅に貢献したいと思う。
眠そうな目や、無愛想に見えて意外と笑うそのギャップなんてかわいくてしかたない。攻撃主の師匠である荒船くんの話になると見るからに嬉しそうで、彼のことを本当に尊敬しているのが伝わってくる。友人や先輩、後輩思いで、優しくて、穏やかな十八歳高校三年生。そんなの推すしかなかった。こんなにも素敵な子が実在していることに感謝したし、ましてや同級生という事実。私は前世で徳を積んだのかと思った。
そう、推しなのだ。鋼くんは、私にとって推しという不可侵の存在。イエス推しノータッチ。推しはあくまで崇める対象というか、その存在のおかげで日々生きてるというか、貢ぎたいというか。言ってしまえばそういう感じ。
「だから、付き合うとか、そういうのは……そういうのは、違う……!」
私に襲いかかった最大のピンチ。それは三日前のこと。端的に言えば、推しに告白されたのである。正直、天変地異でも起きるのかと思った。何がどうなったらこんな状況に至るかを考えたし、あと緊張気味にほっぺたを赤くする鋼くんはかわいかったしで、私の頭の中は乱痴気騒ぎだった。
宇宙の成り立ちについてまで思考を飛ばしていた私を心底心配してくれたのだろう。顔を覗き込んできた鋼くんに、私はあろうことか「推しとは付き合えません!」と叫んで逃げたのである。何を言っているのかわからないかもしれないが、事実なのだから己の言動に頭を抱える。もっとこう、断り方があっただろうに。焦りのあまり出てきた言葉は本人に言うものではなかったはずだ。推しに推しバレなんて。
でも実際理由はそれに間違いなく。彼ほどかっこよくてかわいくて強くて顔も声も性格もいいオールパーフェクトな子なら、私のような特に取り柄もないようなどこにでもいる女ではなく、もっとかわいくて性格もいい女の子がお似合いだ。私は推しの家の壁になりたいタイプの女なので、恋人になるのはハードルが高すぎて、まず一度壁から人間になる必要があるし、自分と解釈違いを起こしそうになる。
「なんで、何があって私に……罰ゲーム……? いや、でも鋼くんはそういうことしなさそうだし……ねえ水上、ちゃんと聞いてる?」
「聞いとる聞いとる。聞き飽きるくらい聞いとる」
「適当な返事してんじゃないわよ。こっちはピンチを迎えてるのよ、ピンチを」
「告白されたんの何がピンチや」
「推しに告白されたんだからピンチ以外の何ものでもないでしょ! 死活問題なんだから!」
将棋本を読んでないで少しは私の話に集中してほしい。てか人が相談してるときになんでこの男読書してるの? こんなガヤガヤと騒がしいラウンジでよく読書できるものだ。内容頭にちゃんと入ってるのだろうか。いやでも、「この手があったか……」なんて感心してるからしっかり読めているのだろう。
「で、推しから好き言われたんやろ? それの何がアカンの」
「私の好きはそういうのじゃないし、推しの彼女が自分っていうのはあまりにも不釣り合いすぎて自分を抹消したくなる」
「へえ、ミョウジちゃんは面倒な女やな」
「面倒って言わないで。アンタにも推しができたら私のこと笑えなくなるんだからね。今に見てなさい」
呆れ満載のため息を吐いた水上は、パタンと本を閉じて、ようやっと聞いてくれる姿勢を見せた。
「で、結局おまえはどうしたいん」
「鋼くんに目を覚ましてほしい……」
「思いきり目ェ覚ましとるぞ、あいつ」
「なんで私なの……なんで……」
「そんなん本人に聞けや」
それはそうなのだが、いかんせん告白された上に彼にとっては謎極まりないだろう言葉を吐いて逃げた手前、なんで私が好きなの? なんて聞けるわけがない。そんな度胸があったなら、三日前に告白されたその時に逃げずに聞いている。
推しの恋は応援したい。だって幸せでいてほしい。毎日三食お腹いっぱい美味しいものを食べて、充分な睡眠をとって、日々健康に笑顔で過ごしてほしいと常日頃思っている。けれども、そこに自分という要素が入るのはどうも受け入れ難い。推しに認知されていたのは素直に嬉しい。会話ができたときなんて小躍りしそうなくらい舞い上がった。推しの情報を知れるのだって立派な生命維持。けれどそれはあくまで、私が彼を一方的に推しているからであって、恋愛が絡んでいるかと聞かれると答えはノーだ。
私の好きは、表すならファン目線の好きだ。彼の活動を応援し、彼の幸せを願っている他人。たまにあるファンサに舞い上がっているだけの女だ。鋼くんにトキメキを感じないわけじゃないが、あくまで「推しが今日もかっこいい」とか「推しが世界一かわいい」とか、そんな感想込みである。
「私は鋼くんが健やかに生きてくれればいいだけで、その過程でかわいい彼女ができたら全力で応援するし、結婚ってなったら式に呼ばれなくてもいいからせめて御祝儀渡したいって、そう思ってるだけなの……そういう好きなの……」
「ミョウジちゃんは誰目線なん?」
「片想いしている鋼くん、その言葉だけでなんかもう尊さ感じて泣いちゃいそう。でも相手が私……どうして……どうしたって言うの鋼くん……何があったの……」
「おまえの思考がどうしたん」
推しの恋が叶うことを願いたいのに、相手が私故に願えない。辛すぎる。私は前世で悪行でも重ねたのだろうか。
「おまえ引くほど面倒やな」
「鋼くんと上仲間のくせに、水上には人に優しくする気持ちとかないの?」
「上仲間ってなに?」
「水上冷たい……水だけに……」
「罵られた上にしょうもないギャグに巻き込まれた俺に謝罪の気持ちはないんか?」
随時ツッコミをくれるのは、関西人が故なのか、彼の優しさか。恐らく前者だ。二割くらいは優しさがあるかもしれない。あと水だけに冷たいは自分でもしょうもないと思っているので、心の中で謝罪をしておこうと思う。ごめんね水上。
正直、自分でも面倒で厄介だとは思っている。けれども私は推しに対してはそういうスタンスなので、どうしようもない。というかそもそも、現実に推しができたことが初めてなので、余計に戸惑っている。ゲームならばいざ知らず、推しからの告白が現実に起こりうることだとは想像もしていなかった。視界の右下辺りに選択肢が欲しい今日この頃。
「でも、その推しが、他でもないミョウジちゃんを選んだんやろ? ここは素直に、普通の女の子として喜んどけばええやん」
まるで人を普通の女の子じゃないみたいな物言いにムッとしたものの、普通の女の子は同級生を推しとは言わないということに気付いたので甘んじて受け入れた。
「実際どうなん。推しとかそういうんは抜きに、告られて嫌やったんか?」
「そ、れは……」
水上の言葉に、視線を下げた。鋼くんから推しという点を除き、先日の告白のことを思い出す。強くて、かっこよくて、優しい同級生から、面と向かって好きだと言われた。信じられないような出来事だし、何かの間違いかとも感じる。けれど、嫌だとは微塵も思わなかった。
なんで、どうして私? そんな疑問はあれど、不快な気持ちは一切ない。それどころか、むしろ。
「……嬉しかった、かなあ」
むしろ、嬉しかった。実際推しという点を抜きにしても、私は彼に恋愛感情は持っていない。それは確かだ。けれど、彼のような人から好きだと言われるのは、そりゃあ嬉しいに決まってる。
「なら、嬉しかったじゃダメなん?」
「嬉しかったけど、結局そういう意味で好きではないし……それにやっぱり、本人見ちゃうと思考が切り替わるからさあ。一回推し認定しちゃったものだから、推しとしか見れない部分があるんだよねえ」
「へえ……らしいわ、村上」
「はい?」
水上の視線が私を通り越して、背後へ移る。嫌な予感にぶわりと冷や汗が流れはじめた。肩を震わせながら恐る恐る振り返れば、件の推し、鋼くんが立っている。
「むら、村上くん……きいてた……?」
「聞いてた……盗み聞くつもりはなかったんだ、ごめん……」
申し訳なさそうに眉を下げてしょんもりした顔を浮かべる彼に、罪悪感がひしひしと刺激される。そんな顔をしないでほしい。謝る必要はない。私は推しには笑っていてほしいタイプのオタクなんです。君の笑顔だけで五十年は生きられるから。これも全部後ろに鋼くんがいることを教えてくれなかった水上のせいだと恨めしげに睨んだが、どこ吹く風で読書を再開させている。
「その……この間のことなんだけど」
「あ、は、はい……」
「ミョウジに言われたこと、考えてみたんだ。推しっていうのがよくわからなくて、荒船に聞いたりもして」
「あ、あらふねくんに……」
「それで、なんとなくはわかった」
「わかったんだ……」
「うん。荒船は説明が上手いから」
少し微笑んだ彼に思わず拝みそうになったが、そういう雰囲気でないことは理解しているので抑えた。
「荒船から教えてもらって、脈ないんだって落ち込んだんだけど、でも、さっきのミョウジの話を聞いて、まだオレにもチャンスがあるかもしれないって思えた」
「うん?」
どこか吹っ切れたような笑みを浮かべる彼に、首を傾げる。その笑顔かわいい、とオタクの私は心の中でキャッキャと無邪気にはしゃいでいるが、冷静な自分がそんな場合ではないと警報を鳴らしていた。
何故だかニコニコと笑っている鋼くんの両手が、私の手を取りぎゅっと包む。思わずヒェ、というか細い悲鳴を漏らしてしまったが許してほしい。
当然ながら彼の手は私よりも大きいから、私の手なんてすっぽりだ。ゴツゴツとしていて、豆があるからか手のひらは少し硬い。推しの手の情報、ありがたい。そんな現実逃避みたいなことを考えている私の意識を戻すように、鋼くんが私の名前を呼んだ。
「オレのこと、推し? として好きって思ってもらえるのも嬉しいけど、でもオレは、ミョウジには男として好きって思われたいから、そう思ってもらえるように頑張るよ」
彼の目が緩やかに細められていく。ほのかに蕩けた瞳に気付いてしまうと、握られている手から全身に向かって、じわじわと熱が広がっていった。本当に私のことが好きなのだと、鋼くんの表情、基瞳を見れば認めざるを得ない。目は口ほどに物を言うとは、どうやら事実らしい。
「これから、よろしく」
「あ、ぇ……ひゃ、はい……」
「顔が真っ赤だ、かわいい」
「ヒィィ……! 村上くん、そういう、そういうのは、よくないです……! 軽率にそういうこと言うのはよくない……!」
「でも荒船が、押せばいけるって言ってた」
「何故押してダメでも押してみろを教えた……?」
「そら、既に好感度が天井ぶち抜いてんのやから、押しまくって感情の転換させるのが一番効率ええからやろ」
確かに、と思わず納得してしまった。それが一番効果的でもある。既に胸がキュンキュン通り越してギュンギュンしてる。このままいけば多分破裂する。推しの過剰摂取や過剰なサービスは軽率に人を殺すんだよ、鋼くん。でも荒船くんからの助言を素直に聞いて実行する素直さや純粋さ、とても良いと思う。
「そういえば、オレの前では名前で呼んではくれないのか?」
「ヒッ……!」
こっそりと本人がいない場所で鋼くん呼びをしていることもバレてしまった。期待に満ちたような顔はやめてほしい。本人の前で名前呼びはハードルが高すぎる。心なしか目が輝いているようにも見えた。
「よ、要相談で……」
どうにかこうにか絞り出して言葉に、後ろから「誰に相談するん」というツッコミが入ったが、無視した。