- ナノ -

AM8:42の気まぐれ



   修たちが玉狛を訪れると、リビングルームには木崎たちだけでなく、桔梗の姿もあった。少し驚いた様子で修が目を丸くさせていると、彼女はスマホ画面から顔を上げた。


「おはようございます」


   向こうからの挨拶に一瞬反応が遅れながらも、修は挨拶を返した。続くように千佳も少し頭を下げながら挨拶をする。遊真は二人より先に玉狛に着いていたようで、彼らを見て軽く手を上げた。


「……桔梗さん、なんでそんな千佳のこと見てるの?   戸惑ってるわよ」


   小南の言う通り、桔梗はじっと千佳を見つめていた。しかし彼女は小南の言葉に返事はせず、スマホを置いておもむろに立ち上がり、千佳へと歩み寄っていった。背の低い千佳では、一六〇センチ前半の桔梗でさえ見上げなければならない身長差で、千佳はやや不安と戸惑いを顔に表しながら、おずおずと桔梗を見つめた。

   不意に、彼女がスッと両膝をついた。目線の下がった桔梗に千佳は瞳をぱちくりと瞬かせたが、彼女はそれを気にとめはせず、口を開いた。


「トリオン量が並外れている、と聞きました。それは本当ですか?」


   どんな意図を持っての問いであるのか、修にはわからなかった。聞かれている千佳も同様で、え?   と小さな声が漏れた。桔梗は返答を待っているようで、無言で彼女を見つめている。

   圧のようなものを感じてオロオロと視線を彷徨わせる千佳を見て、修が代わりに事実であると答えると、桔梗は修を一瞥し、再度千佳に本当かどうかを尋ねた。


「は、はい……多い、みたいです……」

「……そうですか」


   ぎこちなく頷いた千佳に、桔梗は静かに呟いたと思うと、そっと瞳を伏せた。


「それは……大変だったでしょう」

「え……?」


   彼女の声を拾った千佳は瞳を丸くさせたが、桔梗はそれ以上何を言うでもなく、ゆっくりと立ち上がって、朝食の片付けをしていた木崎を振り返った。


「木崎さん。彼女の訓練、今後は私も見ます。かまいませんか?」


   突然の発言に、皆一瞬唖然として、そうして小南が大きく驚きの声を上げた。


「どういう風の吹き回し!?   桔梗さん、この間あたしが千佳を見てあげればって言ったときは、即効で断ったのに!」

「気が変わりました。それで、木崎さん。いいですか?」


   気が変わった、なんてそんな誤魔化すような表現に納得のいかない小南は、思いきり顔をしかめた。修も桔梗の言葉に耳を疑い、無意識に遊真へと視線を移す。遊真のサイドエフェクトは、嘘を見抜くことを可能としているものだ。そのため彼女の言葉が真実かどうかを確認したかったのだろう。

   遊真は、何も反応しなかった。口を挟むこともしないし、表情に変化もない。それは、桔梗の「気が変わった」という発言に嘘はないことを示していた。しかし彼の能力で分かるのは、あくまで発言に嘘があるかどうかであり、真実や真意を知ることはできない。そのため、何故桔梗の気が変わったのか、その理由はわからないままだった。

   手を止めた木崎は、僅かに瞳を瞬かせてはいたものの、他の面々に比べると大して驚きは少ない風であった。彼は桔梗と数秒見つめ合うと、千佳を一瞬見て、頷いた。


「俺はかまわない。雨取、おまえはどうだ」

「あ……は、はい。大丈夫です」


   千佳の了承も得たことで、桔梗は木崎と共に千佳の訓練を見ることとなった。あまり納得のいっていない様子の小南ではあったが、木崎と千佳が頷いたため、表情に出すだけで文句を言うことはなかった。

   よろしくお願いします、と頭を下げる千佳のつむじを見つめた桔梗は、こちらこそと頭を下げた。


「じゃあ、これからは桔梗さんも千佳ちゃんに狙撃を教えるってことは……桔梗さんにとって、千佳ちゃんは初めての弟子だ!」


   明るい調子で放たれた宇佐美の言葉に勢いよく反応した烏丸は、しばし黙りこくったと思うと、額に手を置いた。


「……桔梗先輩の、初弟子……」


   呆然としたその呟きに、千佳は申しわけなさそうに彼から目をそらした。













   朝食の片付けも終わったところで、玉狛基地の地下にあるそれぞれのトレーニングルームに、三組は分かれた。千佳が木崎と共に訓練を行なっているトレーニングルーム003号室は、狙撃手用に他の二部屋に比べて容量を使用し、土手での訓練を行なっている。

   川を挟んで向こう側に設置してある的に当てる。積み上げられた麻袋に身を隠しながら、ただそれを延々と続けるという、集中力や忍耐力も必要な訓練であった。

   桔梗は木崎の隣で、千佳の狙撃を観察していた。ど真ん中にとはいかないが、弾は的には当たっている。緊張しているのは感じられるが、途中で集中が乱れることや焦る様子もなく、まずはしっかりと狙いを定め、引鉄を引いている。

   風はなく、穏やかな天気。的との距離は一キロもないため難なく目視できる。銃から的までの間に障害物はなく、射線良好。的に動きはなし。まずは止まっている的に確実に当てるという、単純で初歩的な段階であるのがわかる。狙撃手なりたての千佳には妥当な練習法だろう。


「雨取、一旦中断だ」


   撃たれた弾が頭部の右上部分に命中したのを見て、木崎が声をかけた。千佳はスコープから目を離し、木崎の方を不安げに見上げた。突然の中断に、何か間違ったことをしてしまったのかと思っているのか、眉がへにょりと下がっている。それを見て、中断したのは注意などではないと前置きし、桔梗に視線を動かした。


「桔梗、おまえの目から見て、雨取はどうだ」


   意見を仰がれた桔梗は、一度瞬きをして千佳を見た。無意識に姿勢を正した千佳は、少し身体を強張らせながらも彼女の言葉を素直に待っているようだった。


「そうですね……的に当たってはいますが、狙撃部位にはバラつきが多い。狙撃のセンスは高いとは言えません。止まっている状態でそれならば、動く的には当てきれないでしょうね」


   言葉を濁すことも、オブラートに包むこともせず、桔梗はハッキリと告げた。彼女の言葉に千佳は少し落ち込んだ様子で視線を下げていく。練習に影響が出てはいけないと木崎がフォローに入ろうとしたが、しかし桔梗が言葉を続けた。


「ですが、初心者であることを考えれば、的に当たっているだけでも及第点でしょう。それに、練習で補えばいい。彼女の長所はそのトリオン量。他の狙撃手の倍の練習量を積めますし、集中力や忍耐力もある。止まっている的くらいなら、数日もすればほとんど真ん中に狙撃できるようにはなるかと」


   思わず、木崎は瞳を瞬かせた。それは自分がフォローのために加えようとしていたことと同じ内容であった。桔梗にそんなつもりはないだろう。最初の言葉だって、千佳に狙撃センスがないのだと言っているわけでもない。彼女はただ、現段階での千佳の実力と、観察に基づく自身の意見を述べているだけにすぎなかった。

   しかし、だからこそ、それは取り繕われた言葉でも、上辺だけの褒め言葉でもなく、嘘偽りのないものだ。

   何を言われているのかすぐに理解できなかった千佳は、ぱちぱちぱち、と瞬きを三回繰り返す。そうして頬をほんのりと赤くさせ、僅かに表情を明るくさせた。


「がんばります……!」


   銃を握る手を強くさせた千佳は、すぐに練習を再開した。

   先に足りない点などを指摘し、その後に良い点やカバーの方法を伝える。些細なことだが、たったそれだけでも相手の向き合い方というのは変わってくるものだ。桔梗がそれを意図していたのか、木崎にはわからない。しかし、存外教える側は向いているのではないかと、桔梗を盗み見ながら彼は密かに考える。

   放たれた弾は、今度は頭部の左下を貫く。桔梗は千佳を見、的を見、何も言わない。その表情は普段と同じで愛想はなく、関心を向けているようには見えない。しかし千佳の方は最初の頃の緊張感は解れているようであった。

   防衛任務などで、ずっと見てやれない時もある。その時桔梗と千佳の二人きりになると思うと心配ではあったが、それは杞憂に終わりそうで、木崎は少し安心しながら、千佳の練習を見守った。