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勘違いせぬよう言い聞かせ



イスに腰掛けたまま、桔梗はじっと映画を観ていた。有名な洋画のミステリー映画で、桔梗も名前は知っているが、観たことはない作品だ。パソコンから聞こえる英語と字幕の日本語訳とを脳内で照らし合わせ、時々自分で翻訳を修正しながら、静かに画面を見つめていた。


「おもしろくなかった?」


開いた扉からかけられた声に、桔梗は視線をそちらへ向けた。中に入ってきたふくよかな男性は、パソコン画面を一瞥して彼女の表情に視線を移すと、腕を一本抱えながら中へ入った。


「いえ、おもしろいです。ストーリーもおもしろいですが、個人的にはセリフの言い回しが好きですね。確か小説を映画にしたものでしたよね?今度そちらを買ってみようと思います」

「そう言ってもらえたならよかったよ」

「前回のメンテナンスの際に見せていただいたファンタジー映画も、おもしろかったです」

「ああ、アレ……ジャンルの好き嫌い、あんまりないんだね」

「そうですね。感動モノ以外は観ますよ」


ボーダー本部内の開発室に備えられている仮眠室にて、桔梗はチーフエンジニアである寺島に会いに来ていた。

彼は手にしていた腕――機械仕掛けの義手を桔梗に手渡した。銀一色のそれを見つめ、彼女は慣れたように、上腕の半分までしかない左腕へはめ込んだ。義手についている肩サポーターの位置を整え、二の腕の部分のベルトを固定し、次に肩のベルトを固定すれば、義手の装着は完了する。数秒して、右手を動かす感覚と同じように、左手のひらを握り、開いて。それを五回繰り返した桔梗は、顔を上げた。


「問題ありません。ありがとうございます」

「いいえ。特に不備はないから、また二ヶ月後くらいに来てくれたらいいよ」

「わかりました」


桔梗が左腕を失ったのは、四年半前に起きた第一次大近界民侵攻の時である。その日、熱を出して寝込んでいた彼女は逃げるのが遅れ、胸から下と右腕が、家の瓦礫の下敷きになっていた。身動きの取れぬまま彼女は近界民に襲われ、左腕を切断されたのである。

それからは片腕で過ごしていたが、桔梗のボーダー入隊前に幸人が開発室長である鬼怒田に頼み込み、義手の製作をしてもらったのだ。トリオンを動力とするトリオン兵からヒントを得て、桔梗の義手は彼女のトリオンに反応して作動する仕組みとなっている。トリオンを流し込むことで義手が擬似的なトリオン体の役割を果たし、普通の腕と変わりない感覚で指先まで自身の意思で自由に動かすことを可能とした。

とは言え当然コストがかかるため、いくつも用意できるものではない。また第一次近界民侵攻では桔梗同様に四肢を欠損した者は少なからずいるし、義肢の製作はボーダーの役目でない。トリオン体の状態であれば腕の欠損などほとんど関係ないもので、義手の製作は専門でするべきだろう、と当初は鬼怒田も難色を示していた。

ボーダーでは最新の技術を開発している。そのため、より腕に近い義手を、ボーダーでなら製作できるのではと、幸人が無理を承知で頭を下げに来たのは、桔梗の入隊日から二週間ほど前のことだ。しかし、そもそも桔梗自身が義手の製作に前向きではなかった。難しい顔をする鬼怒田に頭を下げる幸人の後ろに控えていた彼女が、彼の服の裾を引っ張って言ったのだ。「片腕でも大丈夫」と。

不便ではあるが何もできないわけではない。何を言われても、どんな目で見られても平気。嘆いたところで腕が生えてくるわけじゃない。桔梗は笑って言った。「逃げ遅れた私が悪かったんだから」、と。

その言葉に、鬼怒田は絶句した。彼女の怪我は、決して彼女のせいではない。逃げきれない状況で、未知の敵に襲われ、一生ものの怪我を負った。それは嘆いて当然のことであり、自分のせいだと責任を感じる必要などないものだ。それを「自分のせい」だと平然と言い放った彼女の、結ばれてある上着の左袖がプラプラと揺れる光景を見て、鬼怒田は言い知れぬ何かを覚えた。

気付けば彼は、頷いていた。そうして入隊日までの期間で義手の製作を行い、彼女が入隊日を迎える前日に、桔梗は失った利き腕を新しく得た。

義肢の製作も初の試みであったことから、様々な不具合やバグ、また改良点等問題は様々ある。また、何かしらの不備が起こる可能性も考え、彼女は定期的にメンテナンスのために本部の開発室を訪れているのだ。

桔梗にとって左腕は、あってないようなものである。あれば便利がいいのだが、自分にはもうないものだと認識していた。失った時点で片腕で今後の人生を生きていかなければならない以上、それを理解しておかなければと考えていた。そのため、義手を腕に近い見た目でなく、機械じみたものにしたのも、「腕がない」ということを、自分で認識しておくために桔梗が頼んだことである。

両腕での動作に、左腕があることに慣れたくない。「あるもの」だと認識したくない。錯覚したくない。でなければ、義手がない状態に再び陥ったときの喪失感は一層強くなるし、片腕では何もできないと思われたくなかったからだ。

それでもこうして義手を受け入れたのは、ひとえに幸人の善意を跳ね除けたくなかった。義手のおかげで助かった点もあり、要は両腕があると誤認しなければいいだけだと、彼女は義手を使用している。


「感動モノは、好きじゃないんだね」


上着を羽織り、左手に手袋をつけていた桔梗が顔を上げた。寺島はDVDを停止させて、取り出したディスクをしまっている。


「つい、泣いてしまうので」

「へえ。泣くから嫌なんだ。でも、そういうのって、それが狙いだろ?」

「……そうですね。そうなんですけど……あまり泣きたくないから、嫌なんです」

「そっか。なら、今度来る時は避けておくよ。アクションなんかどう?」


いいですね。そう告げると、桔梗は寺島に改めてお礼を伝え、頭を下げて部屋を出ていった。

一人廊下を歩いていた桔梗は、腕時計で時間を確認すると、立ち止まって上着のポケットからスマホを取り出した。いくつかメールが送られてきていたが、そちらの確認は後回しにして、幸人に定期メンテナンスが無事終わったことを報告した。送って十数秒で既読はついて、返信もすぐに表示された。

体調はどうか、必要なものはあるか。そんなやりとりを交わして、あまり長々と連絡をしていては休めないかと、桔梗は「もうすぐ帰るね」とだけ送り、メッセージのやりとりを終えた。

トークアプリを閉じてメールボックスを開けば、木崎と烏丸の名前が並んで表示されている。木崎からのものを先に確認すれば、無事にメンテナンスが終わったかどうか、玉狛に来るかどうか尋ねられていた。そしてその後に加えられている文を見て、桔梗は僅かに目を見開いた。数秒固まった彼女だが、そちらに手早く返信を送り、烏丸からのメールを確認すれば、彼も今日は玉狛に寄るのかを尋ねている。

元々玉狛の隊員では木崎以外の連絡先は持っていなかった彼女だが、連絡手段はあった方がいいと言われ、他のメンバーとも交換した次第である。

桔梗は普段、玉狛にいることは少なく、またあまり長居もしない。彼女が玉狛に寄るのは食事の当番が来たときがほとんどであった。

だからなのか、烏丸からの連絡は大抵「今日は玉狛に来ますか?」「夕飯当番俺なんですけど、食べて帰りませんか?」という内容が多い。常に彼からの連絡であり、桔梗の返信も実際に話すときと変わらず、「結構です」や「わかりました」と淡白でそっけないものばかり。オススメの本や勉強に関してはもう少し長い返信にはなるが、それでも淡々としたもので、会話なんて長くは続かない。

だというのに、こうも自分に連絡を入れるとは。何を考えているのかと純粋に疑問に思いつつ、彼女はスマホをポケットに入れた。

木崎たちは、入隊日までの期間で修たちの訓練をつけている。今日もその予定であり、玉狛に来ないかというのは、そういうことなのだとうと桔梗は判断している。昨夜の黒トリガーが狙われた件についてはどうやら知らされていないようで、メッセージで触れられることはなかった。桔梗も教えるつもりはなかったため、わざわざ話題に出すことはしなかった。

少し早足になりながら廊下を進んでいく桔梗は、すれ違う隊員たちに見向きもせずに出入口へ向かった。


「あれ、長門ちゃん。今日は本部にいるんだ」


ピタリと足を止めた桔梗が振り返れば、ひらりと手を振る青年の姿があった。B級一位の部隊に所属している、犬飼という男だ。


「義手の定期メンテナンスです」

「ああ、なるほど。だからトリオン体じゃないのか」


納得したように笑った顔の胡散臭さに僅かに眉をしかめつつ、彼女は彼の隣に視線を移した。ぱちりと目が合うと、途端に頬が赤みをさしていくその姿を見つめ、彼女はメモ帳とボールペンを取り出して、さらさらと文字を書いた。


『こんにちは、辻くん』

「ぁ……こ、こんにち、は……な、がとさん……メ、メンテ、ナンスは……」

『つつがなく終わりました』

「そ、ですか……」


よかったです。吃りながら、詰まらせながら、視線を泳がせて話す姿に頷く桔梗を見て、犬飼はクスクスと笑い声を漏らした。


「辻ちゃんには気持ち優しいよね、長門ちゃん」

「女性が苦手なのでしょう。本人の苦手なこと、嫌いなことで相手を困らせるのも、不快な思いをさせるのも、本意ではありませんので」


先程から顔を赤くして落ち着きなくソワソワしている辻は、男兄弟という環境で育ったからなのか、それとも過去に異性との関わりで何かがあったのか。理由は定かでないが、異性が苦手な傾向にあった。目も合わせられないし、言葉も上手く伝えられない。一定の距離に近付かれてしまえば、最悪ショートしかねないくらいだ。そのため桔梗は、辻相手の時はメモを使用し、一定の距離を保っての対話を行なっている。

兄以外にドライな桔梗だが、他人を慮る心がないわけではなかった。そのほとんどが兄に向いているというだけの話だ。しかし他人との関わりを拒むわりに、挨拶には挨拶を返し、会話を振られれば無視はしない、と些か矛盾したような行動を取る。関わりたくないが、徹底しているわけではなく。それと言うのも、兄から「桔梗が他の人と仲良くなれたら、俺は嬉しいな」と言われたことが理由だった。

他人と仲良くしたくはない。けれど兄には喜んでほしい。その結果、徹底的に関わりを断絶することはせず、しかしある程度の線引きは行う、というスタンスに落ち着いたのである。辻への対応もその延長線で、異性が苦手という彼への配慮であった。


「でも、傍から見てたらちょっとシュールだよね」


おかしそうに笑う犬飼を一瞥し、桔梗は反応せずに辻にメモを見せた。


『用事がないのなら、私はこれで』

「ぅ、あ……は、はい。あの、ぇっと……引き止めて、しまって、すみません……」

「あれ、もう行っちゃうの?もう少しお話したかったんだけどなあ」

「私はありませんので」


犬飼の言葉を一蹴し、桔梗は二人に背を向けた。犬飼は軽く手を振り、辻はおずおずと頭を下げていたが、彼女は特に何を返すでもなく、歩を進めた。