- ナノ -

恋の致死量を超えている



   背中への衝撃と共に真っ先に視界に入った天井。数回瞬きをして上体を起こせば、先に緊急脱出していた章平と陽介の姿に気付いた。


「よう奈良坂、おまえもやられたのか?」

「……ああ。桔梗さんに」

「桔梗先輩までいたわけ?   マジかよ!   ああでも、おまえからしたら、ある意味ラッキーか」


   ケラケラと笑う陽介の言葉を聞きながら、そっと額に触れて、あてられた銃口の冷たい感触を思い出す。何の躊躇いもなく引かれた引鉄と共に、俺は緊急脱出させられた。これは彼女の存在に気付けなかった俺の落ち度であり、そして、彼女に見惚れてしまった俺の失態である。


「こんばんは。随分と賑やかな夜ですね。パーティーでもひらいてます?」


   銃越しに見えた薄紫の瞳は、こちらにカケラも興味がないのがよくわかるほど冷ややかなものだった。告げられた言葉だって、向こうからすれば特に意味などない、記号にも似た何かだ。こちらとの会話なんて微塵も求めていないし、俺の返答や相槌も必要としていない。

   それでも、彼女の、桔梗さんの瞳に数秒だけでも俺が映ったという事実に、心臓は忙しなく音を立て、歓喜の声を上げていた。

   何事も、きっかけというのは案外些細なものだ。一目惚れ、という言葉が適切だろう。それは二年ほど前、まだボーダー入隊したての頃に、本部ですれ違ったとき。横目にこちらを見た彼女の瞳と目が合ったと思うと、すぐに興味を失せたように、その視線は前へ戻っていった。

   たった、それだけ。ただ視線が絡んだあの一瞬で、俺は彼女に惹かれていた。冷ややかな色をした瞳と、何も寄せつけないような凛としたその顔が、あまりにも綺麗だった。思わず足を止め、振り返ることもなく去っていく後ろ姿を見つめてしまうくらいには、見惚れていた。

   それからは、桔梗さんを見かけるとつい目で追いかけてしまい、彼女のログを意味もなく見返して。普段はつまらなそうな顔をしている彼女が、幸人さんの前でだけは瞳を柔らかくして、可憐な少女のような笑みを浮かべる。彼女の美しさは常に際限がなく、坂を転げ落ちていくように、彼女にのめり込んだ。

   幸人さんの妹ということで、どうやらそれなりに知られていたらしい彼女は、訓練の成績は上位に食い込むレベルだが、ランク戦等実戦での成績はそれほど、という評価であり、そのため個人ランクは中間だった。長門隊は、桔梗さんの兄である幸人さんが点を取り、彼女はいつだってサポートに徹し、一度も彼女自身が誰かを撃つことはなかった。 それを東さんは「優等生」と称しており、防御と援護のみに特化した狙撃手だった。

   それでも、桔梗さんの腕は素晴らしいものだ。援護のタイミング、狙撃の的確さ、優れた隠密行動。幸人さんも優秀な攻撃手アタッカーであることは確かだが、けれど桔梗さんの援護でよりそれが際立っていた。

   そんな彼女が、初めて狙撃した相手。それは風間さんだった。桔梗さんが所属していた長門隊で出ていたランク戦。当時流行していた、隠密トリガー「カメレオン」と菊地原のサイドエフェクトを用い、快進撃を繰り広げていた風間隊との試合で起きた。

   ただ撃ったのではない。桔梗さんは風間さんから左腕を斬られた状態で、約一五〇〇メートルの距離からスコープも見ずに彼の腕を撃ち落とし、続けて彼の心臓を的確に狙撃してみせた。

   今でも思い出せる。目を細め、緩く口角を上げて、風間さんたちがいた場所を見つめていた桔梗さんの姿を。穏やかでありながら、けれどしてやったりとも言いたげに、美しく微笑んだあの表情を。

   画面越しに見ていた俺は、周囲の音がどんどん遠くなっていくなかで、桔梗さんしか見えなくなっていった。沸騰したみたいに熱くなった体内では、血液が身体中を猛スピードで流れているかのようで。無意識に呼吸を止めて、魅入っていた。

   羨ましいと思った。妬ましいとさえ思った。彼女に撃たれたということは、認識されたも同義だ。あの宝石にも劣らない瞳に映ったのだ。俺も彼女の視界に入りたい。撃たれたい。撃ちたい。そんな欲が膨れるばかりだった。

   それからの桔梗さんは、今までの防御と援護ばかりの動きではなく、点を取るようにもなった。元々撃てる人だったのだろう。サイドエフェクトを露見させないためにそういう風に見せていただけで、彼女本来の実力を見せるようになっていった。次第に注目されるようになり、個人ランクの順位も上がったが、それでもやはり、桔梗さんにはどうでもよさげなようだった。

   少しずつ、少しずつ、桔梗さんの存在が広がっていく。それは即ち、彼女の魅力を知る人が増えていくことにも繋がる。

   後ろ髪より長い榛色の横髪が、風でふわりと揺れているところ。一層冷たさを演出するキュッと上がった目尻が、兄の前ではとろりと蕩けていくところ。普段はきつく結ばれている桜色の唇が、読書中に時折緩んでいるところ。細くて長い右の指先が、前髪をはらうところ。

   どこを挙げても、彼女は綺麗だ。もっと、たくさん、ありすぎて言い表せないくらい魅力しかない人。そんな桔梗さんのことを、多くの人が知っていく。それはどうにも複雑だ。

   あまりにも彼女を見つめるものだから、理想を抱きすぎでないかと陽介に言われたことがある。彼女をより知った時に、幻滅するのではないか、と。決してそんなことはないと俺は断言した。

   最初に惹かれた理由は、確かに、人を寄せつけないような空気や瞳であっただろう。しかし、桔梗さんを知ろうとすれば知ろうとするほど、彼女の魅力は際限なく溢れ出る。元々桔梗さんの側面しか知らないのだから、新たな一面が出てきたって、彼女の美しさが損なわれることなどない。


「――い。先輩、奈良坂先輩!」


   肩を叩かれ、思考が止まる。顔を上げれば、章平が心配そうに、陽介が呆れたような顔でこちらを見下ろしていた。


「やっと気付いた。おまえ、桔梗先輩のことになると、すーぐ思考飛ばすんだから」

「……わるい」

「気にすんな。相変わらず熱烈なことで」


   楽しそうに笑う彼は、俺が桔梗さんに幻滅しないと話した時も、同じような顔で、同じことを言っていた。













   黒トリガー奪取は結局失敗に終わり、迅さんが「風刃」を本部に渡したことで、玉狛の黒トリガー奪取の指令は解除された。彼の手のひらの上で踊らされていた、という感覚は否めないものの、指令が解除された以上できることなど何もない。そのため、各自解散となった。

   家――と言っても仮設住宅だが――に帰ろうと、本部を出てすぐのこと。


「あれ、桔梗先輩。こんばんは〜」


   扉のそばの壁に背を預けている桔梗さんの姿に、つい足を止めた。ぱちりと瞳を瞬かせた陽介の声に、彼女はスマホの画面から視線だけ上げ、こんばんは、とだけ返した。


「帰らないんですか?   あ、人待ち?」

「はい」

「そっかあ。迅さん?」

「そうです」


   何故迅さんを待っているのだろうか。浮かんだ疑問に、桔梗さんは「送ると言って聞かないので」と僅かに眉をしかめながら付け加えた。

   外は暗く、月も出ている時間帯だ。彼女を一人で帰らせるわけにいかないと思ったのだろう。桔梗さんは嫌々と言った雰囲気だが、迅さんが押し切ったのかもしれない。幸人さんの隊員引退をきっかけに長門隊が解散してから、桔梗さんは玉狛支部へ異動している。そのため同じく玉狛所属の迅さんとは、それなりに接する機会も多いだろう。

   それよりも陽介は、何故桔梗さんに気安いのか。会話を振れば返事はしてくれるものの長続きはせず、対応も優しいとは言い難いため、桔梗さんは年上からは生意気、年下からは怖い、といった印象を抱かれやすい。俺自身はまったく思ったことはないが、そう言っている隊員を見かけたことがある。しかし陽介は然程気にしていないのだろう、臆することなく声をかけている。章平なんて、少しオロオロしているというのに。

   理由を考えて、そういえば陽介と三輪は桔梗さんと同じ高校に通っている先輩後輩だと思い出し、納得すると共に学校での桔梗さんの様子を少しでも知っているのかと、羨ましさを覚えた。


「……迅は」


   どことなく低く、怒りを抑えているような声音だった。なにかメッセージを打っていたのだろう、忙しなく動いていた指を止めた桔梗さんが、顔を上げて三輪を見た。その弾みで、彼女のスマホにつけられている四葉のクローバーのストラップが揺れた。


「迅は、何を考えてるんですか」

「知りません」


   考える素振りもないまま、桔梗さんは至極どうでもよさそうに答えた。あまりの返答の速さに、三輪は目を丸くして驚いている。こうも即答されるとは思っていなかったのだろう。桔梗さんは三輪から視線を外すと、ため息を一つ落とした。彼女の唇から吐かれた息が白く染まるその光景は、一つの美術品のようだった。


「私は兄さんのお願いに従って、迅さんの手助けをしただけです。近界民の入隊についても、彼が何を考えているかは知りませんし、聞こうとも思ってないです」

「……やつらに大事なものを奪われたことがあるのなら、他人事ではいれなくなる」


   ボーダーには、近界民の被害に遭った人は多数いる。それは俺や章平のように家を壊された者だったり、三輪のように大事な人を亡くした人であったり。俺や章平も近界民に少なからず恨みはあるが、三輪はその比でない。桔梗さんは彼の静かな怒りを数秒眺めると、スマホをしまった。


「……私は、近界民に奪われた側の人間ですよ。左腕だって、近界民に切断されたものですし」

「なっ……」


   本部ではトリオン体で過ごしているためわかりにくいが、桔梗さんの左腕が義手だというのは、今ではボーダー内では認知されている話だ。その事実は彼女がボーダーに入隊して数ヶ月経った頃、噂として流れていたものを認めた形で知られたこと。けれど義手の理由は明かされていなかった。

   近界民に奪われた。平然と、なんてことのないように言われたその事実に、全員で呆然としてしまう。桔梗さんの腕を、切断。彼女のあの白くて細い腕を。ゾワリと胸を逆撫でたのは、紛れもなく不快感だ。


「近界民を恨もうが、復讐しようが、私は否定しません。あなたの好きにしたらいい。ですが、それを押しつけるのは違うでしょう」


   壁から背を離しながら、桔梗さんは僅かに眉を寄せ、子どもに言い聞かせるような口調で告げた。三輪は唖然とした様子を見せたが、ふと何かを言いかけて口を閉ざし、結局何も言わずに大股に歩きだした。陽介は後頭部を掻くと、困ったような顔で桔梗さんに軽く挨拶をして、三輪を追いかけていく。

   桔梗さんは二人の方を向くことなく、俺の横を通り過ぎた。けれど不意に足を止め、振り返った。


「今夜はエスコート、ありがとうございます。おかげで上手く狙撃できました。奈良坂、くん」


   心臓が破裂してのではないかと思うような、そんなとてつもない衝撃だった。ぱちりと一つ瞬きをした桔梗さんは、固まる俺を残して去っていく。もうこちらを振り返ることはない。

   俺を、見ていた。見てくれた。あの透き通った瞳で。それだけでなく名前まで呼ばれた。桔梗さんの唇から、俺の名前が、紡がれた。ぶわりと胸の中に熱が広がる。きっと今の心拍数は大変なことになっている。それくらい、心臓が忙しなく音を立て、抑えきれない想いが、洪水のように溢れてきた。

   好き、好きです。見つめていると、稀にこちらに視線をよこして目が合ったり。訓練時に挨拶をすれば、無視せず返してくれたり。俺のことなんてどうでもよくて、大して興味もないくせに、名前を覚えてくれていたり。そうやって甘やかな毒をくれる、残酷で綺麗なあなたが、どうしようもなく好きなんです。


「奈良坂先輩……?   あの、ここで放心は流石に邪魔になりますし、帰りませんか?」

「章平、少し静かにしててくれ。桔梗さんの声が消える」

「え?   ……え?」


   奈良坂くん。奈良坂、くん。あなたに呼ばれると、自分の名前が何か特別なものにでもなったみたいに錯覚してしまう。