- ナノ -

手前勝手に枷を欲して



ついこの間まで足を運んでいた場所へ、また来ることになろうとは。教えてもらった病室まで向かいながら、桔梗はぼんやりとそんなことを思った。

アフトクラトルからの侵攻を退けた後、早急にボーダー内の医務室に運ばれ治療を行った修は、翌日にはボーダーと提携している三門市立総合病院へと移された。そこは数週間前までは幸人が、四年半前には桔梗が入院していた病院でもあった。修の病室がある階には彼女と顔見知りな看護師もいて、ナースステーションの中から声をかけてくれたため、軽く挨拶だけかわしておいた。

修のネームプレートがつけられている病室で足を止めた桔梗は、控えめに扉をノックした。一拍置いて、中から女性の「どうぞ」という静かな声が返ってきた。そっと扉を開けると、眠っている修の姿がまず目に入った。失礼しますと部屋に入ってみれば、彼のそばのイスに、女性が一人座っていた。

黒い髪をした、とても若そうな見た目の、美人な女性だ。ボーダー関係者ではないだろう。少なくとも桔梗は、ボーダーの本部内で彼女の顔を見たことがない。きっと修の親族だろう。桔梗はあまり音が鳴らないよう気をつけながら扉を閉めると、彼女に一礼して挨拶をした。


「初めまして。ボーダーの玉狛支部に所属しています、長門桔梗です」

「初めまして。三雲修の母です」


彼女、修の母――三雲香澄からの挨拶に、桔梗は数秒固まった。若々しい見た目をしていたため、てっきり姉と勘違いしていたのだ。つい驚いて目を丸くしてしまった彼女だったが、ハッと我に返ると、まずは香澄へ、深く頭を下げた。


「大事な息子さんに、これほどの大怪我を負わせてしまい、申し訳ありませんでした」


ボーダーの隊員は、トリオン体の状態であればたとえ怪我を負ったとしても、実際の身体にはその影響はない。とは言え保護者からしてみれば、未知の敵と戦うなど不安になるのは当然で。そのためボーダーの戦闘員の大半を占める未成年の隊員たちは、保護者に充分な説明を行い、許可を得た上で所属している。

しかし今回、修はこうして重傷を負った。命にも関わるような怪我だ。彼の家族にはボーダーに対して、怒り、責めるに充分な理由も権利もある。桔梗自身、己はそれを受けるだけの責任があると感じていた。

レプリカが彼についてくれているからと、修一人に千佳を任せたこと。人型近界民と対峙していた彼ではなく、千佳の保護を優先したこと。一つ目は緊急脱出機能のないC級隊員たちを護衛する必要があり、修のそばにはある程度戦える力を持っていたレプリカがいてくれたこと、人型近界民を烏丸たちが足止めしていたことなど、その判断を下すに至った客観的で、根拠もある理由があった。

しかし二つ目は違う。あの時、桔梗は己の感情を優先して、早急に千佳のもとへ向かった。修本人から頼まれたことであるのはそうだ。桔梗は彼から頼まれ、それに応えた。敵は明確に千佳を狙っていて、修の仕掛けた替え玉が露見する前に、彼女を保護する必要があったことも確かだ。しかし一人は三輪に、一人は修に注意を向けており、桔梗の存在には気付いていなかった。ならば、千佳の保護へ行く前に、少し修の援護をしてもよかったのではないか。全部が終わった後になって、桔梗は今更ながらに感じたのだ。

仮に狙撃していたとして。人型近界民がこちらの処理をしに来る可能性は低かったと見ていいだろう。ワープ使いが千佳を守っているはずの修を放ってまで、わざわざ桔梗のもとへ来るとは考えにくい。三輪が相手をしていた男についても同様だ。それでも、警戒はしたはずだ。注意をそらすことだってできた。

けれど桔梗は、それをしなかった。あそこで自分が一度援護をして、ではその援護が、敵が何の対処もしていないのに止まったら、相手は何かしら不審に思うだろう。「狙撃手がいる」という情報は少なからず相手に警戒心を与えるが、「何故狙撃が止まったか」という情報は、様々な可能性を生む。

トリオン兵に襲われ対処をしている、場所を移動をしている。自分たちの注意をそらしたい。いくつもの可能性を考えさせることは、相手の注意を散漫にさせるかもしれないし、動きを制限させることもできる。しかし同時に、何か企てているのでは、といらぬ勘繰りを生む場合もあった。替え玉を悟らせないためにも、近界民にこちらの動きを察知されてはいけない、という理由だってある。

けれどそんなの、尤もらしい言葉を並べただけの屁理屈にすぎない。桔梗はそれを自覚している。あの時自分は、己の感情のままに、千佳のほうを何よりも優先した。それが全てだった。


「私は彼の先輩として、彼を守らなければならない立場でした。しかし、それを怠ってしまった……本当に、申し訳ありません」


どんな言葉を言われるとしても、何故守ってくれなかったのかと責められるとしても、桔梗は全部覚悟していた。


「どうか、顔を上げてください」


けれども、香澄の声は彼女が思っていたよりも、落ち着いたものだった。怒りが滲んでいる様子も、悲しみに満ちている様子もない。恐る恐る桔梗が顔を上げれば、香澄は微笑んではいなかったが、かと言って眉間にしわを寄せるでも、眉をつり上げるでも、口角を下げるでもなく。

至って冷静な顔のまま、昏睡状態の息子へ一度視線を向け、改めて桔梗のほうを向き、彼女の目をまっすぐに見つめながら口を開いた。


「昨日お見舞いに来てくれた、玉狛の人から聞きました。あなたと、もう一人、男の子とで、うちの息子の応急処置をしてくれたって。千佳ちゃんも、あなたや他の人たちに守ってもらったと言っていました」


淡々としていて、けれどどこか穏やかさを滲ませる声だった。香澄はゆっくりとイスから立ち上がったと思うと、先程までの桔梗みたく、彼女に向かって深々と頭を下げた。


「自分のお洋服まで使って、息子の処置をしてくれたそうですね。本当に、ありがとうございます」


桔梗は、ただ愕然としてしまった。だって、自分は、責められてしかるべきだと思ったのだ。

今回の侵攻で受けた被害は、四年半前のものと比べてみれば、大きく抑えることができたと言えるだろう。それでも、決してゼロではなかった。攫われたC級隊員は数十人といて、本部内を襲撃されたことで亡くなった職員も数名いた。修だって、何かが少しでもかけ違っていれば、命を落とすところだった。迅が視た未来の中には、その可能性だって確かに存在していたのだから。それを阻止するために、迅はもちろんのこと、遊真や木崎たちは自分たちの役目を果たそうと、奮闘したのだ。


「お礼、なんて……私は、それくらいしか、できなかっただけです……」

「ええ。でもそのおかげで、今こうして、息子は生きています」


何の裏表もない。それは純粋に、心からの言葉であると、桔梗はすぐに読み取れた。それになんと返せばいいのかと口を開けたり閉じたりを繰り返し、結局桔梗は、顔を上げてほしいと言うしか思い浮かばなかった。


「汚してしまったお洋服は、弁償しますので」

「いえ、大丈夫です。あの時使ったものは、全て替えが効くもので、弁償してもらうほどのものはありません。何よりも、息子さんが、ご無事でよかったです。彼は今回、本当に、頑張ってくれたので」


そうこぼすと、桔梗は修を一瞥し、香澄に再度頭を下げた。


「あまり長居してはご迷惑でしょうから、私はこれで」

「はい。今日は、わざわざありがとうございました」

「いえ……では、失礼します」


香澄に見送られながらそっと病室から出た桔梗は、扉をしっかりと閉めてから、深く、ゆっくりと、息を吐き出した。無意識に力が入っていたらしい肩を下ろした彼女は、病室の前から逃げるようにして、足早に去っいった。