- ナノ -

この先踏み込むべからず



「おまえら、そこに座って待って――桔梗……来てたのか」

「こんにちは。新人のトレーニングおつかれさまです」


   本から視線は外さず、桔梗は淡々と告げた。木崎のあとに部屋へ入ってきた面々は、立ち止まる彼を不思議そうに見たが、すぐに桔梗の姿に気付いて、足を止めた。

   榛色の短い髪をした少女が、ソファーに座って読書をしていた。伏せられた睫毛の下からは薄い紫色の瞳が見えて、口もとにはほくろが一つ。何故か左手にだけ黒い手袋をつけており、凛とした横顔は目を惹かれるようだった。右手がテーブルに伸びると、お茶の入ったコップを手に取って、一口啜る。そうしてようやく、彼女は視線をドアの方へ向けた。


「初めまして。迅さんから色々とお話は伺っています。長門桔梗、年齢は十八。玉狛支部に所属する防衛隊員です。呼び方はお好きなように。ただし兄さんと区別のつくようお願いします」


   それだけ告げると、桔梗はすぐに修たちから視線を外した。突然のことに驚いていた彼らだが、慌てて名乗った修を皮切りに、遊真、千佳も自己紹介をした。桔梗はそちらに視線を向けはせず、「はい、よろしくお願いします」と事務的に返し、ページを捲った。


「昼は食べたか?」

「もう食べました」

「まだ入りそうなら、おまえも一緒にどうだ」

「大丈夫です。トレーニング上がりの皆さんだけで頂いてください」


   冷たい。第一印象として、修は桔梗にそう感じた。人と関わることが好きではない、という迅の評価の通りで、桔梗は修たちに対して興味を示す素振りもなく、言葉は丁寧であるものの声音は淡白。はっきりと線を引いている風な空気が肌を刺すように伝わってきていた。

   どこか微妙な空気感だが、木崎たちは慣れているのか、特に気にすることなく――小南は「相変わらずドライ」と呆れていたが――各々飲み物を用意したり、イスに腰掛けたりしていた。修たちも宇佐美に促され、おずおずと腰掛けた。

   木崎が昼食の準備をする間、宇佐美は千佳のトリオン量を調べるための計測器を取りに向かった。

   千佳は先日の訓練時、朝から晩まで木崎から言われた狙撃訓練をやり続けていた。普通ならば二時間から三時間でトリオン切れに陥るのだが、千佳は休憩無しに五時間以上弾を撃ち続けており、そのため彼女のトリオン量がどれだけあるのか計測するよう木崎が宇佐美に頼んだのである。


「桔梗先輩、来てたんですね。会えて嬉しいです」


   桔梗の隣にサッと腰掛けた烏丸は、読書を続けている彼女に声をかけ、小さく微笑んだ。彼はボーダー隊員の間でも「イケメン」と評される顔立ちをしており、女性隊員からの人気は高く、ファンまでいるほどだった。そんな彼の笑みにも言葉にも反応一つせず、桔梗は視線を紙面の上で動かした。


「先輩がこの間読んでた本、俺も読んでみました。おもしろかったです」

「そうですか」

「最近はまた違うジャンルを読んでるんですね。流石先輩、博識なのも納得です」

「そんなことないです」


   声をかけ続ける烏丸と、あまり話を聞いてはいないような返事をする桔梗。その光景にそばに座っていた修は困惑し、一人で気まずい空気を感じていた。そんな彼の心情を察したのだろう木崎は、修の肩を軽く叩いて気にするなとこぼした。


「前からこうだ、すぐ慣れる」

「そうそう。とりまる、まったく相手にされてないのにめげないし。Mなんじゃないの?」

「たまに会話が続いたときは嬉しそうだもんね。『今日は桔梗先輩がたくさん話してくれた』って」


   戻ってきた宇佐美は、やりとりが聞こえていたのだろう。微笑ましげに笑いながらそう言った。


「いいんですか、それで……」

「本人が満足そうだからいいのよ」


   それよりも千佳のトリオン量だと、小南は計測器をセットする宇佐美の隣に駆け寄っていった。


「幸人さんは大丈夫なんですか?    先日、入院を控えてるって聞きましたけど……」

「手術を控えていますから、それで入院するんです。成功して、術後経過が良ければ、退院後復帰できます」

「え?   確か桔梗先輩のお兄さんって、防衛隊員はできないんじゃ……」


   幸人の話題が出た途端、先程までの適当さが嘘のようにすぐに返事をした桔梗に驚く暇もなく、修は瞳をぱちくりと瞬かせた。彼女の兄は防衛隊員を続けることは難しい、と木崎たちから聞いていたからだ。

   本へと向いていた彼女の瞳が、スッと修へ向いたと思うと、彼女は顔を上げてまっすぐに彼を見つめた。少しつり目な瞳からいやに圧を感じて、修は冷や汗を垂らす。美人の真顔は怖いと言うが、母親でそれを体感している分慣れてはいるものの、やはり他人となると些か勝手が違った。


「兄さんは、術後は技術面のスタッフとして本部で働くんです。隊員としては復帰しません」

「あ、ああ……なるほど……」

「はい」


   修から視線を外した彼女は、読んでいた本にしおりを挟むとページを閉じて立ち上がった。


「新人との顔合わせもすみましたので、私はこれで」


   早々に帰ろうとする彼女を、烏丸が真っ先に引き止めた。それに同意するように、小南は同じ狙撃手である千佳のことを見てやればどうだと提案するが、桔梗はトリオン計測中の千佳を一度見ただけで、すぐに視線を外して本をバッグの中に入れた。


「結構です。御三方が教えるのであれば、別に必要ないでしょう。私は、教えることは不向きだと思いますし。それに、今日は予定がありますので」


   バッグを肩にかけると、桔梗は軽く頭を下げてそそくさと部屋を出ていってしまった。パタン、と閉まった扉に僅かな沈黙が流れるが、小南のため息でどこか張り詰めていたような空気は消えていった。


「そっけないやつだな」

「桔梗は、幸人以外の人間があまり好きじゃないんだ。気を悪くしたのならすまない」

「あ、いえ……気を悪くなんて、そんなことは……」


   以前修たちが通う学校がモールモッドに襲撃された際、現場に現れたA級嵐山隊隊員、木虎藍。彼女に似ているような、似ていないような。愛想のないところや、事務的な部分は彼女を彷彿とさせるようだったが、しかし木虎の方がまだ歩み寄れるだけの壁が薄く、また手厳しくありつつも徹底的に突き放しているわけでもなかった。同い年という気安さもあったのかもしれない。

   しかし桔梗は、明確に線引きをしており、こちらを寄せ付けない空気や言動を感じさせた。それは新人である自分たちだけでなく、烏丸たちにも同様で、中々にコミニュケーションの難しい相手であると修は認識した。同じ玉狛支部に所属した以上、顔を合わせる機会は増えていくことを考えると、少しやりにくさえを感じてしまった。


「本部にいた頃からあんな感じだけど、悪い人ではないんだよ。そっけないけど、返事はしてくれるし、意外と笑うし」

「え、笑うんですか?」


   声にして、修はハッと口を押さえた。失礼な発言であったと自覚していたため、慌てて謝罪をする。しかし烏丸は気にしていないようで、むしろその反応もわかると理解を示した。


「まあ、幸人さん相手の時か、本読んでる時くらいで、他の人の前じゃ基本無表情だから」

「桔梗さんは、お兄さんが好きなんですね」

「そりゃあもう、ブラコンよブラコン。幸人さんの言うことだけは素直に聞くし、部隊組んでた時も、自分で点取れるのに幸人さんが点を取れるようにサポートに回りっきりだったし……まあ、時と場合によっては、自分でもキルもしてたけど」

「その、幸人さんって人は、どんな人なんですか?」

「幸人は穏やかなやつだ。面倒見も良いし、よく笑う。と言うか、微笑んでる状態が常だな」


   正反対な兄妹だ。修が心の中で思ったことを、遊真は「へえ、正反対だな」と素直に口にした。その言葉に、木崎は眉を下げながら、少し間を置きつつも同意するように頷いた。彼の反応に少し違和感を覚えた修であったが、それの意味するところはわからなかったため、何を言うこともなく、そうなんですね、と無難な返答をして、サンドウィッチを頬張った。

   千佳のトリオン量の計測が終わり、宇佐美や小南が驚愕するのは、十秒後のことである。