- ナノ -

真摯な瞳に怯えてる



目が覚めた桔梗は、二度寝をすることもなくベッドから出た。枕が変わると寝られないほど繊細な性格はしていないが、普段玉狛支部に寝泊まりしないこともあり、自宅ほど安眠はできなかった。

洗面へ行って顔を洗い、歯ブラシの手持ち部分を咥えながら、右手で歯磨き粉の蓋を開け、歯ブラシに歯磨き粉をつける。片腕になってからの桔梗は、左手代わりに、あまり行儀が良いとは言えないが、口や足を使うことが増え、最初は手間取っていた作業もそれなりに一人でできるようになったことがいくつかあるものだ。

自室へ戻った彼女は部屋着に着ていたシャツを脱ぐと、ベッド脇に置いていた義手に手を伸ばして、慣れた手つきでそれをはめた。そうして、昨夜のうちに用意しておいた着替えを手に取る。

昨日の近界民からの侵攻を受けて、桔梗が通う三門市立第一高等学校からは昨日の夕方に臨時休校の知らせが入っていた。いつもなら制服を着るところだが、今日はその限りでないので、支部に置いていた普段着に腕を通した。

桔梗の服は基本、制服や元々半袖のもの以外は、左袖のみ半袖になっているものばかりだ。義手があるので今は左袖があってもいいのだが、義手の取り外しの度に脱がないといけないし、袖口が多少広めでないと、腕の線が目に見えてしまう。そのため左袖は半袖にして、手首ほどの長さまでの手袋をつけ、上着を羽織る。それが桔梗の私服であった。

夏場でも薄手のカーディガンを羽織ったり、長めのアームウォーマーをつけたりと、傍から見れば日焼けをしたくない人と思われる可能性はあるのかもしれない。桔梗自身、正直暑いと思っているが、長い手袋はつけるのが面倒で、加えて布が薄いものがほとんどだ。

義手は人目を惹くもので。腫れ物に触るような視線も、物珍しげな視線も慣れているし、今後もずっと付き合っていくことになる。けれど桔梗がその視線を少し煩わしいと感じていることも嘘ではない。それ以外にも理由はあるが、大半は下手に視線を集めることは避けたいというものにいきつく。そのため、夏だろうと暑さを我慢して義手を隠している。

パーカーを羽織った彼女は部屋を出て、リビングへと向かう。七時前でも外はまだ僅かに暗く、支部内も静かだった。けれどリビングからは明かりが漏れており、顔を出せば木崎が朝食の準備をしていた。


「おはよう。早いな」

「おはようございます」


何か手伝おうかと声をかけた桔梗だったが、もうほとんど終わっているとのことで、木崎は適当に腰掛けるよう言った。彼女は素直に頷くと、ソファーのほうへ移動した。


「テレビをつけてもいいですか?」

「ああ」


電源を入れたテレビは、朝のニュース番組を映している。内容はやはりと言うべきか、昨日の件についてだ。どのチャンネルに回しても同じ題材を取り扱っているだろうことは予想できたので、番組を変えることはしなかった。

キャスターが侵攻で受けた被害や、防衛にあたっていたボーダーについてのことを話す姿をぼんやり眺めていた最中、支部のチャイムが鳴った。


「私が出ます」

「わるいな」

「いえ」


少し駆け足で玄関へ行き、靴を履いてドアを開ければ、赤いトレーナーが目に入る。足もとからは、わん、と一つ鳴く声もした。視線を下げれば犬が一匹。尻尾をぶんぶんと振っており、つぶらで愛らしい瞳をしていた。


「ん?長門じゃないか。おはよう」

「……おはようございます、嵐山さん」

「この時間にここで会うのは珍しいな。泊まってたのか?」

「はい」


爽やかに笑う嵐山の姿に、桔梗は彼の目から視線をズラして、額辺りにとどめる。彼はどうやら愛犬の散歩中なようだが、何故ここに。桔梗が疑問を感じていれば、上からあくびをする声が聞こえた。


「迅、おはよう!いつもの場所にいないから、迎えに来たぞ!」

「おはよ……今日も朝から元気だね、嵐山」


今起きてきたのか、眠たげな様子の迅は桔梗を見ると、にへらと笑って挨拶をするので、彼女もおはようございますと返した。


「パパッと準備してくるから、コロと待ってて」

「わかった」


それだけ言ってさっさと部屋に戻っていく迅に、桔梗は嵐山と愛犬のコロを振り返る。恐らくそう時間はかからず迅は降りてくるだろうが、寒いなか外で待ってもらうのは気が引けた。とりあえず玄関に入るよう促せば、嵐山はパッと笑ってお礼をこぼした。流石は広報担当とでも言うべきなのか、笑顔が妙に輝いて見えるので、少し目を細めつつ桔梗は靴を脱いだ。

ドアが閉まって数秒、一人と一匹をこのまま放置してもいいものなのかと、桔梗が悩みながら靴を揃えて端に寄せようとしゃがみ込むと、嵐山のほうから声をかけてきた。


「昨日はおつかれさま」

「いえ……嵐山さんも、おつかれさまです」

「三雲くんたちと、C級隊員の援護をしてくれたって聞いたよ。ありがとう」

「いえ……」

「それに、幸人さんも出てくれたんだってな。良ければお礼を伝えておいてもらえると嬉しい」


人好きのする笑み、とはこういうものなのだろう。雰囲気にも親しみやすさが出ている。ぼんやり考えながらも、桔梗には彼の顔を見続けるのはどうにも難しくて、わかりましたと伝えて、視線を犬へと向けた。

ぺたんとおすわりをしているその愛犬は、人見知りなどないのだろう。桔梗を見ても物怖じした様子はなく、むしろ挨拶をするかのように、元気な声で鳴いた。


「ああ、コロっていうんだ」

「はあ……」

「よかったら、撫でてみるか?犬が苦手じゃければ、だが……」

「あ、いえ、犬は好きです」

「そうか!なら、どうだ?」


桔梗の咄嗟の返しに、嵐山はパッと表情を明るくさせた。嬉しそうな顔や声で勧められ、加えてコロの期待に満ちた風にも見える瞳も浴びせられて、「では、お言葉に甘えて……」と小さく返した。

人懐こそうな瞳が、キラキラと輝いている。桔梗は恐る恐る伸ばした右手でコロの頭部に触れ、ゆっくりと手を動かした。手触りの良い、柔らかな毛並みをしていた。欠かさずお手入れをされているのがよくわかる。コロは気持ち良さげに目を細めており、尻尾も大きく揺れているようだった。

かわいい。桔梗が素直にそう感じていたところ。


「お待たせ


軽めの声が背中のほうから聞こえて、桔梗は手を止めた。手を離すと、コロはもう終わり?と言いたげに首を傾げる。


「桔梗ちゃん、嵐山の相手してくれてたんだ。わるいね」

「……いえ。迅さんも来たようですから、私は失礼します」


立ち上がった彼女は嵐山に頭を下げると、すぐにリビングのほうへ行ってしまった。


「コロ、桔梗ちゃんに撫でてもらったんだねえ」


靴を履き、軽くつま先で床を叩いた迅は、嵐山とコロと共に玄関を出た。


「ああ!どうやら長門は、犬が好きらしい」

「へえ、そうなんだ。桔梗ちゃんは猫好きかと思ってたや」


桔梗本人が猫のような性格だと、迅は密かに思っている。警戒心が強く、人に靡かず。けれど心を許した相手には寄っていく。そんな態度がまさに猫みたいで。勝手なイメージではあったのだが、意外そうに言葉を返した迅に、嵐山は自分もだと同意した。


「本当に好きなんだろうな。コロを撫でていた時、柔らかい表情をしていた。本人は、無意識だろうがな」


心なしか嬉しそうに話す嵐山に、迅はよかったねと笑った。


「少しは話ができたみたいで」

「……まさか、来なかったのはわざとか?」

「さあね。でも、結構気にしてたでしょ?桔梗ちゃんが、自分とだけ目を合わせようとしないこと」


そう言われ、嵐山は何度か瞬きをすると、苦笑い気味に眉を下げた。













朝食を終えてすぐ、桔梗は本部のほうへ足を運んでいた。現在本部は人型近界民の襲撃に遭った箇所を修復のために封鎖しているが、幸い隊員たちが主に使用するラウンジや個人ランク戦ロビー、各隊室などは無傷で済んでいる。そのため、本部内は普段とそう変わらない様子であった。


「桔梗ちゃん」


ヒラヒラと手を振る閑の姿を見つけた桔梗は、小走りで彼女へと駆け寄ると、おはようございますと一言挨拶をした。


「兄さんは……」

「今は医務室。ああ、体調が悪いとかじゃないわよ。念のためにね、診てもらってるだけ」

「そうですか……」


安堵した様子の桔梗に、閑は少し待っているよう促して、共にラウンジへと向かった。


「三雲くん、だったかしら。彼は大丈夫なの?」

「まだ意識は戻ってないそうです。今日、木崎さんたちがお見舞いに行くと言ってました。あまり大勢でお邪魔しても悪いでしょうから、私は後日伺う予定です」

「そう……命があったのは、不幸中の幸いだったわね」


硬さの混じる声音に、桔梗は頷いた。

閑の言う通りだ。修の傷は、出血量から見ても、命を落としていても不思議ではなかったものだった。傷を負った箇所によっては、最悪即死していた可能性もある。それほどまでに危機的で、切迫した状況だった。桔梗は倒れていた修の姿を思い出し、きゅっと左手を握りしめた。

ラウンジへ到着し、空いているテーブルに向かい合う形で座ると、閑は一息つきながら、周囲を観察するように視線を動かす。あちらこちらでされている会話が、意識しなくとも聞こえてきていた。やはりと言うべきか、話題はアフトクラトルからの侵攻についてが多かった。あれだけ大量のトリオン兵の投下はもちろん、黒トリガーを有した人型近界民まで戦線に加わるというのは、早々起こることではない。また、狙われていたのはC級隊員たちだ。彼らからすれば、その恐怖は一入だろう。


「しばらくは、同じ話題で持ちきりかしらね。ここも、市民も」

「だと思います」

「それでも、あの時の侵攻に比べたら、被害は少ないほうだし……ある程度の準備ができている状態でよかったわ」


レプリカが提供してくれた近界の情報により、攻めてくる国の予測が行えたことは、とても大きいだろう。そのレプリカは、今回の侵攻により深手を負い、且つ行方不明となっているそうだ。遊真は一見ショックを受けている風には見えなかったが、その心情までは読み取れない。桔梗も、そこにわざわざ触れようとは思わなかった。

閑の言葉に頷きつつ、桔梗はあの、と口を開いた。


「昨日は手袋、ありがとうございました。助かりました。洗って返します」

「ああ、いいのよ。桔梗ちゃん用に買ってたものだから、そのままあなたが使って?」


僅かに目を丸くさせた桔梗がおずおずとお礼をこぼせば、閑はどういたしまして、と微笑み返した。

しばらく二人で世間話をしていたが、ふと閑が何かに気付いたように桔梗の背後へ視線を向けた。指先で軽くテーブルを叩いた彼女に後ろを見るように視線で促され、桔梗は振り返った。


「兄さん……!」


ラウンジに入ってくる幸人の姿に、彼女はすぐさま立ち上がって、彼へと駆け寄った。彼は桔梗に気付くとひらりと手を振って迎えた。幸人の隣には忍田の姿もあり、彼女は不思議そうにしながらも挨拶をした。

何か異常でもあったのかと表情を変えた桔梗に気付いた忍田は、ただ話をしていただけだと言って、昨日のアフトクラトルからの侵攻の話題を持ち出した。


「長門くん、昨日は三雲くんたちやC級隊員の援護をありがとう。それに幸人も駆り出させてしまって、本当に申し訳ない」

「……いえ。私は他の隊員よりはフリーで動ける位置でしたので。兄さんに関しても、戦闘員としてとどまると決めたのは兄本人です。そこについて多少の不満はあれど、文句を言うつもりはありません。ですので、お気になさらず」


少なからず迅が行動に出るくらいには、未来のために必要なことであったのだろう。それは桔梗も理解していたし、幸人も同様だ。言った通り、最終的に選択をしたのも、彼自身。戦闘用トリガーを渡した時点で戦場に身を置くことを頼んでいるも同然だが、迅や上層部は、決してそれを幸人に強制させたわけではない。むしろ鬼怒田辺りは、術後でまだ万全ではない状態で、加えて非戦闘員に異動する手筈となっている幸人を、たとえトリオン体とは言え戦場に出すことを渋ったのではないかと、桔梗は思っている。

幸人の身体に異常がないと言うのに忍田と共にいるということは、恐らくわざわざ医務室にいた幸人のもとに出向き、現在様々な処理に追われている上層部の面々を代表し、今回の件についてのお礼と謝罪をしてくれただろう。ボーダーの大人たちが、多くの時間と努力を費やして、隊員たちの安全面を常に考えてくれていることは、桔梗とて知っている。だから彼女には、上層部の大人たちを、もちろん迅のことも責めるような気持ちは、本当になかった。


「君たちの寛大さに感謝する」


瞳を和らげながら告げた忍田は、幸人に無理はしないよう伝えると、二人に一言挨拶をし、踵を返した。気持ち急ぎ足な姿に、忙しい合間を縫って来てくれたことを察することができた。


「兄さん、身体は……」

「大丈夫。何も問題ないよ」


心配そうな桔梗を安心させるよう、穏やかな声音で言う幸人に、彼女はしばし眉を下げはしたものの、それならいいの、と微笑んだ。


「幸人さん、検査おつかれさまです」

「あれ、美鶴ちゃん。桔梗と待っててくれたんだね。ありがとう」


二人のもとへと歩み寄ってきた閑は、幸人のお礼にいいえと返しながら、これから家に帰るのかを尋ねた。


「もし帰るなら、送りますよ」

「わるいよ。タクシー使うから、気にしないで」

「あたし、後輩指導までまだ時間あって、正直暇なんです。お昼ご飯も買い忘れちゃったし、そのついでみたいなものですから、お気になさらず」


彼女の気遣いを受け、ならお言葉に甘えさせてもらおうと、幸人は頷いた。閑は桔梗のほうを見ると、桔梗ちゃんはどうする?と首を傾げる。

桔梗は、今日は幸人の迎えのために本部へ来ただけで、この後は特に予定は入っていない。そのため、幸人と合流したらそのまま家へ戻るつもりだった。それを伝えれば、閑はパッと笑ってポケットから車の鍵を取り出した。


「じゃあ、二人とも行きましょうか」


歩き出した閑を追いかけるように、幸人も桔梗もラウンジを出る。

隣を歩く兄を、彼女はそっと窺った。顔色も悪くはないし、痛みを我慢している様子もない。体調に問題ないのは事実なようでそっと安堵し、彼を呼んだ。ん?と優しげな瞳がこちらに向けられることに安心感を覚えながらも、ひっそりと罪悪感が染み出てきたが、桔梗はそれに気付かないフリをした。


「今朝、嵐山さんと会ったんだけど、兄さんにお礼を言っておいてほしいって言ってたから」

「……嵐山くんが?」

「うん。迅さんに用事があったみたいで、支部に来たの。そのときに、少し、話して」

「そっか……気にしないでいいのに」


律儀だねえ、なんて明るく笑った幸人に、桔梗もそうだねと笑い返した。