- ナノ -

記憶の中より小さな手



小南と共に千佳を連れて玉狛支部へ戻った桔梗は、宇佐美たちに出迎えられた。それぞれから労りの言葉をもらうなか、桔梗は宇佐美に抱きつかれている千佳をじっと見つめていた。

しばし遅れて迅と遊真が戻ってきたが、迅のほうはまだ用事があるようで、みんなに一言二言声をかけると、すぐに出ていってしまった。


「空閑くん」


スカートのポケットの中にひっそりとしまわれていた、小さなレプリカを取り出した桔梗は、それを彼へ差し出した。驚いた顔をしていた遊真へ経緯を説明すれば、納得したように「ああ」と頷くと、じっとそれを見つめ、首を横に振った。


「いいよ。それはききょう先輩が持ってて。おれはおれで、ちびレプリカを持ってるから」

「……私がこの子を持っていたところで、大した意味はないと思いますが」

「そうかもしれないけど……でも、せっかくだからさ。お守りがわりにでもしてよ」


遊真本人からそう言われたため、桔梗はわかりましたと頷いて、ちびレプリカをまたポケットへ戻した。


「桔梗、今日はおまえもこっちに泊まったらどうだ。幸人は、本部に泊まるんだろ?」

「……そうですね。そうさせてもらいます」


閑から連絡があったのだろう。木崎の提案に頷いた桔梗は、珍しく玉狛の面々と夕食を共にした。皆修のことがあるからか、少しばかり普段よりも静かで、重たい空気が流れているようだった。だがそれを察している宇佐美や小南などが、努めていつも通りの様子で話を振っていた。そのおかげもあってか、空気も僅かに和らいでいった。

夕飯を終え、各々が食器を下げ終えた後、桔梗はそっと千佳のもとへ歩み寄ると、彼女の肩を軽く右手の指先で叩いた。


「雨取さん。少し、いいですか」


声をかけられた千佳は、振り返って桔梗へと視線を移動させる。近くにいた小南や遊真も、不思議そうに彼女を見やった。


「どうしたのよ、桔梗さん」

「彼女と、二人で話がしたいと思いまして」

「千佳と二人で?なんで急に」

「何か叱ったりだとか、そういうわけではありませんのでご心配なく」


訝しむような小南の瞳にそう返した桔梗は、返事を促すように千佳を見つめた。彼女は戸惑った様子ではあったが、ぎこちなく頷いた。私の部屋に、と背を向けた桔梗に、千佳は慌ててついていった。


「二人で話って、いったいなに?」

「さあ……?あまり聞かれたくないことなんじゃないですか?」

「それくらいわかるわよ。そうじゃなきゃ、二人でなんて言わないでしょうし。遊真も気になるでしょ?」

「おれ?まあ、確かに気になるけど……でも、ききょう先輩、嘘はついてなかったし」


不思議そうに、不満そうに。各々が反応を見せるなか、木崎だけは何かを察したように一瞬だけ目を伏せたが、皆二人が出ていった扉の方へ意識を向けていたため、誰も気付かなかった。

桔梗に連れられて彼女の部屋に来た千佳は、座るものがないためベッドに腰掛けるよう言われ、おずおずとそちらに座った。一人分ほど間隔をあけて、桔梗もベッドに腰掛けた。


「……すみません、急に。あなたに謝罪をしたくて」

「え?」

「あなたを危険に晒したこと。三雲くんに、大怪我をさせたこと。本当にごめんなさい」


千佳のほうへと少し身体を向けた彼女は、深々と頭を下げた。え、と再度漏らした千佳は、大きく首を横に振ると、慌てて謝罪の必要はないことを伝える。


「そんな……桔梗さんが謝ることなんて……!桔梗さんは、わたしや修くんを、出穂ちゃんたちのことも、守ってくれました。むしろ、わたしのせいで――」

「あなたに責任はありません!雨取さんのせいじゃない……!あなたの、せいじゃないです……」


グッと握られた桔梗の右手と、後悔で押し潰されそうな面持ちの彼女を見つめ、千佳の眉毛が弱々しく下がっていく。ハッと息を吐いた桔梗は、突然大きな声を出したことを謝ると、一度顔を歪め、項垂れるように俯いた。


「……あなたは、母と、似てるんです」


小さく、か細い声だった。静かな部屋でなければ、きっと拾えやしなかったくらいに。普段から隙がなく、凛とした佇まいをする桔梗からは考えられないくらい、今の彼女は小さく、消えてしまいそうな雰囲気があった。


「少し、私の母の話をしても?」


窺うように尋ねられ、千佳がおずおずと頷いたのを確認すると、桔梗は自身の母親について語りはじめた。

桔梗の母親は、度々見たことのない、謎の生物に襲われていた。生物と呼んでいいのかわからない、未知の存在。周囲に話すも最初は心配されたが、だんだんと不信がられるばかりで、結局そのことを口にするのはやめた。しかし歳を増すごとに襲われる頻度は多くなっていったと言う。


「それって……近界民、ですか?」

「恐らくは。私の母は、トリオン量が人よりもはるかに多かったんだと思います。母の日記を見るに、四年半前の近界民侵攻よりも前……世間が近界民という存在を知るよりも前から、襲われていたようなので……」


大きく目を見開く千佳に気付かないまま、桔梗は話を続けた。


「あなたのトリオン量を聞いたとき、母を思い出しました。だから、すぐに察しがつきました。あなたが、苦労をしてきたのだろうことは」


気が変わった。そう言って、桔梗が自身の訓練を見てくれるようになった日のことを、千佳は不意に思い出した。あの時言われた「大変だったでしょう」という言葉の意味を、彼女は今理解したのだ。

人よりも並外れた量のトリオン。そのせいで近界民に襲われやすかった母親と千佳を、桔梗は重ねたのだ。実際、千佳も近界民という存在が知られるよりも前から、近界民に襲われていた。


「今ほど近界民の出現が多くなかったことは、幸運と言えたでしょう」

「その、桔梗さんのお母さんは、どうしてるんですか?」

「……もう亡くなりました」


返された言葉に、千佳はサッと顔を青ざめさせた。それに気付いた桔梗は気にしなくていいと伝える。申し訳なさそうに視線を下げていく千佳を見つめながら、近界民に殺されたり、攫われたりしたわけではないと眉を下げた。


「近界民が関係していないわけではありませんが、直接的な原因は、それではありませんから」


どこか遠くを見つめるような瞳で呟いたと思うと、桔梗は千佳のほうに顔を向け、戸惑いがちに右手を伸ばし、彼女の手を握った。

強くはない。むしろ、包むように優しく握る手のひらが微かに震えていることに、千佳は気付いた。


「私は、あなたに、母のようになってほしくはありません。私のようにも、なってほしくない」


一瞬泣きそうな顔をしたと思うと、桔梗はすぐに真剣な表情を浮かべて、千佳の瞳をまっすぐに見つめた。


「だから、私はあなたに、自分を守ることを知ってほしい……そして、あなたを、ちゃんと守ってあげたい」


桔梗が千佳の訓練を見るようにした理由。それは、母同様に危険な目に遭うことが多い彼女を、近くで守ることができるように。同時に、千佳自身が己を守るための力をつけることができるように。木崎から彼女のトリオン量を聞いて、桔梗はすぐにその考えに至った。それくらい、彼女の中で母のことは大きな大きな杭になっていた。


「あなた自身はもちろん、私は雨取さんの心も、守りたいんです。母のように、苦しんでほしくありません。だからどうか、自分のせいだと責めないでください」


縋るように、乞うように、桔梗は続けた。千佳はどう返していいのかわからず、口を開けたり閉じたりを繰り返す。戸惑っている様子を見つめて、桔梗はそっと手を離した。


「突然すみません。困らせたいわけではないんです。ただ……雨取さんが、無事でよかった」


心底安心した顔で微笑む桔梗だったが、千佳には少しだけ泣きそうにも見えた。

話はそれだけだと言って、桔梗は戻りましょうかと立ち上がった。扉のほうへ進む彼女に慌てて千佳もついていく。桔梗は取手に手をかけたが、ふと千佳のほうを振り返った。


「あの……私も、名前を……千佳ちゃんって、呼んでもいいですか?」


視線を彷徨わせていた桔梗だったが、意を決したように千佳を見つめ、けれど窺うような表情で尋ねた。それはいつものように堂々とした、けれど人を遠ざけるような空気をまとった彼女ではなく。なんだか珍しい姿ばかりで、千佳は少し戸惑うと共に、彼女の申し出が嬉しくもあった。寄せ付けないよう引かれていた線の向こうに、少しだけ手招きされたみたいで。

もちろんだと千佳が大きく頷くと、桔梗は小さく微笑んでお礼を伝えた。


「話は終わったのか?」

「はい。すみません、時間を取りました」


リビングへ戻ると、先程の遠慮がちであった桔梗が一変、いつもの彼女に戻ったその変わり身に千佳は少し驚いた顔をしたが、木崎に呼ばれて慌てたように荷物を受け取った。


「京介、おまえもはどうする。帰るなら、一緒に送るが」

「いいんすか?なら、お願いします」

「千佳ちゃんもとりまるくんも、また明日。今日はゆっくり休みなよ


宇佐美たちが部屋を出る千佳と烏丸に挨拶をするなか、桔梗も烏丸に軽く頭を下げる。そうして千佳へと視線を移すと、控えめに口を開いた。


「また、明日ね。千佳ちゃん」


小さく手を振るその仕草はとてもぎこちないものだったが、それよりも周囲は、桔梗の態度に目を丸くして驚いていた。


「……え?ちょっと、桔梗さんどういうこと!?何があったの!?」

「何が、とは?」

「全然対応が違うじゃない!なんで急に名前呼び?千佳に対してだけ雰囲気も柔らかくなってるし!」

「……少し話をしただけです」

「それだけでそんな変わるわけないじゃない!とりまるなんて、余りの衝撃に固まっちゃってるのよ!」


大慌てに立ち上がった小南から指を差された烏丸は、確かに瞬き一つせず桔梗を凝視していた。それを一瞥した彼女だが、特に何を言うでもなく、無愛想なまま首を傾げてリビングへ入っていった。

何があったのだとしつこく詰め寄ってくる小南や、興味津々に目を輝かせる宇佐美の視線を桔梗があしらっている声が聞こえるなか、烏丸は木崎に呼ばれてようやっと我に返り、木崎のあとをついていった。


「桔梗さんは何でも突然すぎるのよ。千佳の訓練見はじめたのも、今回のことも!」

「まあまあ、こなみ」


一向に教えてくれない桔梗に折れた小南は、少しむくれた様子でソファーに座りなおす。そんな彼女を宥める宇佐美だが、でもビックリしました、とカウンターのほうに座る桔梗を見た。数秒彼女らに視線を向けた桔梗は、一瞬瞳を伏せると、ため息を落とした。


「……私は、一応彼女の師匠という立場です。現状己を守れるだけの力のない弟子を守るのは、師匠の務めでもあるでしょう。けれど、私はそれができていなかった。千佳ちゃんは危うく攫われかけて、三雲くんも、大怪我を負ってしまった。だからそれについて、謝罪をしただけですよ」


淡々と告げられた言葉に、小南たちは目を丸くした。唖然としていた彼女らだが、小南が眉を吊り上げて、勢いよく立ち上がった。


「そんなの、桔梗さんが悪いわけじゃないでしょ!」

「そうですよ!桔梗さんだけが責任を感じることじゃありません。それに、みんなあの時、自分たちにできることをしたんですから」

「結果的にチカも無事だし、オサムだって死ぬわけじゃないんでしょ?迅さんが視たっていう最悪の未来にはならなかったんだ。チカも、それにオサムも、ききょう先輩に謝ってほしいとか思ってないんじゃない」

「ききょうちゃんはがんばったぞ!」


次々かけられる言葉は、どれも桔梗を責めるものではなく、むしろ責任を感じる彼女を励ますようなものばかり。それらを受け取りながら、桔梗は間を空けて、そうですねと呟いた。


「……皆さんの言う通りですね。すみません。少し、自分を責めすぎました」


一人静かに呟くと、桔梗は先にお風呂に入らせてもらうことを告げて、リビングを出ていった。


「桔梗さん、今日のこと、ずっと気にしてたのかも……」

「千佳のこと、結構真剣に取り組んでくれてたしね」


遊真は一人、先程の桔梗の言葉を思い出す。「自分を責めすぎた」と彼女は言ったが、遊真だけがそこに嘘があったと気付いている。