- ナノ -

自分に綴った呪い



「秀次くんは、会ったことなかったよね」


そう言って笑った青年は、自分の足にしがみつく少女の頭を撫でた。


「前に話しただろう?秀次くんだよ。今日はお母さんに用事があるらしくて、家に誰もいないんだって。だから秀次くんもうちに連れてきたんだよ」

「しゅうじくん……」

「うん」


顔を覗かせた少女は、姉の手を握る少年をじっと見つめて、ゆっくりと兄の後ろから姿を見せると、照れたように笑った。


「ききょうです。よろしくね、しゅうじくん」












入隊日のことで、恐らく千佳との仲を察しているだろう東に口止めをするため、桔梗は本部へ足を運んでいた。東隊の隊室へ行けば彼の姿はあったが、彼女は既に荒船が東に同じことを頼んでいたと知り、しばし驚いてしまった。

東との話を終え、荒船にお礼を言いに行った彼女は、本部での用事を全て済ませたため、玉狛へ戻ろうとしていた。


「あら、桔梗ちゃん?なんだか久しぶりね」


廊下の角で鉢合わせたその人は、垂れた瞳をぱちりと瞬かせて、嬉しそうにふわりと笑った。

閑美鶴。以前、長門隊でオペレーターをしてくれていた女性だ。緩く巻かれた真っ黒な髪と、垂れた瞳をした美人で、穏やかで儚げな見た目とは対照的に、気が強く勝気と、存外豪快な性格をしている。そんな見た目と中身のギャップからか、太刀川には「詐欺師」呼ばわりされた。


「お久しぶりです、閑さん」


軽く頭を下げた桔梗は、窺うように閑の隣に立つ人物を見上げ、おずおずと声をかけた。


「……二宮さんも、こんにちは」


不機嫌そうに見える仏頂面の男――B級一位部隊の隊長、二宮匡貴は、桔梗を見下げると目をそらし、間を置いてからああ、とぶっきらぼうに返した。そんな彼の態度に片眉をつり上げた閑は、睨めつけるようにそちらへ視線を動かした。だがそんな視線をものともせずに、二宮は無言で桔梗の横を通り過ぎていった。


「ちょっと二宮!」

「話は終わっただろ。俺は暇じゃない」

「あたしだって暇じゃないわよ!」


振り返りもせず歩いていってしまった二宮に、閑は苛立たしげにため息を落とした。どうやら太刀川のレポートや単位の件について話していたようで、文句をこぼす閑の口からは「あたし一人で太刀川のやつ見れるわけないでしょ」という言葉が出てきた。

ボーダーでの実力はNo. 1な太刀川だが、学力は非常に残念であり、毎度誰かが彼のレポートなどの監視役を頼まれている。その時予定の空いている隊員が監視役なのだが、今回は閑にその任が回ってきたのだ。自分一人では手に負えないと、二宮を巻き込もうとしていた最中だった。間髪入れずに断られたのだが。


「あのバカの具現化……あたしの休日潰してくれやがって……」

「……おつかれさまです」

「ありがとう桔梗ちゃん……」


太刀川の頭脳について桔梗は実際にどれくらい酷いものかは知らないが、隊を組んでいた頃に聞いていた閑からの愚痴で、中々のものであることは知っている。そのため流石の彼女も労りの言葉をかけた。


「桔梗ちゃんは、こっちで用事?今日は狙撃手の合同訓練じゃなかったはずだし……」

「少々私用が。もう終わりましたが」

「そうなの?支部に戻るなら送っていこうか?」

「いえ、大丈夫です。木崎さんが待ってるので」

「そっか、じゃあ気をつけて戻ってね。ああ、そうそう。これ、迅くんから。幸人さんに渡しててほしいって言われたんだけど……」


閑が取り出したものは、何かの入った茶封筒だった。疑問から眉をひそめた桔梗に、閑は何れ必要になるからと言われたのだと話した。数秒差し出されているものを見つめた桔梗がそれを受け取ると同時、名前を呼ばれた。桔梗が振り返ると、険しい表情を浮かべた三輪が立っており、閑は彼の姿に不思議そうに首を傾げた。


「あら、三輪くん。どうしたの?」

「……その人、借りていいですか」

「桔梗ちゃん?あたしたちもうバイバイするところだったから、桔梗ちゃんがいいなら……」


桔梗に用があるらしい三輪は、視線を彼女のほうへ移した。表情は険しいものの、彼は二宮同様に普段から仏頂面のようなタイプだ。敵意があるわけでも、喧嘩をしにきたわけでもないことは閑もわかっているため、桔梗に委ねるように彼女を見た。

二人の視線を受けて、黙っていた桔梗は身体も彼のほうへ向けると、一つ頷いた。


「いいですよ。場所は変えたほうがいいですか?」


一拍置いて三輪が頷いたため、桔梗は閑に一言挨拶をして、三輪についていった。

ヒラヒラと手を振る閑に見送られながら、桔梗は三輪の数歩後ろを歩く。人気のない場所へ向かっているようで、中庭のほうへ進んでいく。

中庭の片隅で立ち止まった三輪は周囲に誰もいないことを確認し、桔梗を振り返ると、何度か言いにくそうに口の開閉を繰り返す。桔梗が急かすことはせずに彼の言葉を待っていれば、三輪は意を決したように彼女を見た。


「……三年前、うちに来ましたか?」


ゆっくりと目を見開いていく桔梗は、三輪を見つめながらフッと息を吐いた。


「お母さんから、聞いてたんですね」


その言葉だけで、答えがどちらであるのか察するのは簡単だった。桔梗はほんの少し眉を下げると、気付いてました?と首を傾げた。


「……半信半疑でした。名前と、面影はあったので。もしかしてとは、ずっと。だからあの時、カマをかけるようなことを言いました」


あの時。三輪の指すことを思い出すように記憶を探った桔梗は、少ししてから思い出したように頷いた。彼が太刀川隊や風間隊と共に自身の隊を率いて、遊真の持つ黒トリガー奪取の任務を請け負った日だ。


「……やつらに大事なものを奪われたことがあるのなら、他人事ではいれなくなる」



彼が言っているのはこの言葉だろうと思いながら、桔梗はそんな意図があったのかと感心してしまった。


「母から、うちを訪ねてきた理由は聞いてました。だから、どう反応するかで判断しようと思いました。でも、触れたのは片腕についてだったので……」

「試しに、お母さんに聞いたんですか?」

「……はい」

「それで今の私に片腕がないと聞いて、確信した、と」


頷く三輪は、人伝にデリケートな部分を聞いてしまったという罪悪感のようなものがあるのだろう。気まずそうな顔をしていた。桔梗もそれに気付いてたいるため、気にしてないと告げた。

話はそれだけかと尋ねた桔梗に、三輪は一度視線をそらしてから、グッと拳を握りしめた。


「あんたは……桔梗、さんは、近界民が憎くないんですか」


ボーダー隊員の中には、否隊員だけではない。三門市には、近界民から何かを奪われた者は少なくない。それは家であったり、桔梗のように身体の一部であったり、三輪ように大事な人の命であったり。そのため被害に遭った者たちは、近界民に対する恨みは、大なり小なり持ち合わせていることが多い。その中でも、三輪はその感情が強い部類だった。

慕っていた姉を奪った近界民を、彼は許せない。たとえそれが姉を殺した相手でないとしても、それでも近界民という括りにいる時点で、彼にとっては殺すべき相手である。故に、近界民との友好を掲げる玉狛支部とは相容れない。それでも遊真の入隊が正式に認められた以上、真面目な彼は規則を破るようなことはしないが、目の下にクマを作るほど悩むくらい、混乱していた。

それくらい、三輪という青年は近界民を敵視している。だからこそ、彼は不思議でたまらないのだ。自分と同じ境遇と言っても過言でないはずの桔梗が、彼らと友好派の玉狛に行ったことが。

その質問に桔梗は少し考えてから、はいと一つ頷いた。


「私は、近界民には特に恨みも何もありません。ですが、あなたの気持ちはわかります。私とあなたは、憎むものが違うだけ」

「憎むものが違う……?」

「はい。私には、近界民を憎むだけの理由がある。左腕のこともそうですし、家族のことも……でも、私が許せなかったのは、憎くて殺してやりたいと思ったのは、近界民ではなかっただけの話です」


では、何を憎んだのか。そんな疑問が三輪の表情に浮かんでおり、桔梗は瞳を伏せた。


「私が一番憎かったのは、私自身です。誰よりも、何よりも、近界民よりも、自分が憎くて、殺してやりたかった」


感情の乗っていないような声音は、どこか無機質さを感じさせるようだった。目を見開いて固まる三輪からは、何の言葉も出てこない。ただ息を呑む音が微かに聞こえただけだ。


「死ぬタイミングはいつでもありました。片腕のまま川に飛び降りることも、誕生日に貰ったプレゼントのリボンで首を絞めることも、自分の髪を切ったときにそのまま鋏で首の血管でも切ってやることだってできた」


いつだって、どこにだって転がる死への一歩。踏み出そうと思えば、躊躇なく踏み出せるその一歩。けれど桔梗は、その一歩だけは決して選ぶわけにはいかなかったのだと続けた。


「それは、どうしてですか……?」


やっと出てきた三輪の声は、僅かに震えていた。その言葉に、桔梗は彼の瞳を見つめると、口を開いた。


「それが、楽になるための一歩だったからです」


三輪の瞳に映る自分の姿が、桔梗の目には鮮明に見えていた。泣きそうに笑う己の表情に、泣く資格なんてないだろうと、怒りと嫌悪が湧いた。


「私のせいで死んだ人がいて、私のせいで苦しんでる人がいるのに、その代わりが片腕一本だけなんて、おかしな話でしょう。かと言って死んで償おうなんて、ただ苦しみから逃れる一歩でしかない」


そんなもの、対価にもならない。手袋に包まれる左腕を撫でながら吐き捨てるように呟いた桔梗は、呆然とする三輪に笑みを向けた。


「だから私は、地べたを這いつくばって、血反吐を吐いて、死にたくなるくらいに苦しみながら生きないと」


至極当然のように紡がれたものに、三輪は絶句する他なかった。桔梗は一歩一歩彼のほうへと歩み寄っていくと、右手を彼の頭にポンと乗せ、真っ黒な髪を撫でた。


「秀次くんは、私みたいな考えで生きちゃダメだよ」


困ったような顔をした桔梗は、じゃあね、と彼に背を向けた。