- ナノ -

スタートラインの一歩手前



「桔梗、そんな顔しないで」


幸人(ゆきひと)の言葉に、桔梗は少し間を開けてから頷いた。しかしその表情はまだ暗いままで、幸人は困ったように眉を下げた。

置いていかれた子どものような顔。自分の爪先に視線を落としている桔梗を見て、幸人はそんなことを考える。頭を撫でてやると、彼女はようやっと幸人の方を見て、けれど項垂れたようにまた視線を落とした。

四年ほど前に設立された、界境防衛機関「ボーダー」。ある日三門市に開いた異世界へのゲートから現れた侵略者――後にそれらは近界民ネイバーと呼ばれだした――から「こちら側」の世界を守るために戦う組織である。

彼らは近界民の技術テクノロジーを独自に研究し、近界民に対する防衛体制を整えた。そんな彼らの尽力もあってか、かつて甚大な被害を及ぼされた三門市だが、出て行く人間は驚くほど少ない。それはボーダーへの信頼によるものか、多くの住人は時折届く爆音や閃光にも慣れてしまっていた。

幸人も桔梗も、そのボーダーに所属している。長門兄妹に加えてオペレーター一人で構成された長門隊は、C級からA級まであるランクの、A級に位置する部隊であった。しかし現在、この部隊は解散している。

それは、幸人が病を患ったためである。そのため防衛隊員としての活動は難しく、幸人は隊員を引退し、現在は入院を控えて自宅にて安静に過ごしている。隊長である幸人がいなくなったことで、長門隊は二人だけとなった。部隊の人数上限はオペレーター一人に防衛隊員四人までと決まっており、桔梗一人とオペレーターだけでも部隊の存続は可能である。実際、二人だけの部隊も存在している。

しかし、桔梗本人が幸人がいない状態で部隊を残す必要性を感じず、結果解散という形となった。長門隊解散により、桔梗は他の部隊からの勧誘を受けたが、全て考える素振りも見せずに拒否し続け、「兄さん以外と部隊を組む気はありません」と決して意見を曲げなかった。そのため幸人は、彼女に友人のいる玉狛支部へ行くように勧めた。それに従い玉狛支部への異動届けを出し、受理されたことで、彼女は現在は玉狛支部の防衛隊員として活動している。


「玉狛に顔を出さなくていいの?」

「用事もないから、いいよ」

「そっか。でも兄さんは、桔梗がみんなと仲良くしてくれてると、嬉しいけどな」

「……善処はする」


でも、難しい。付け加えられた言葉に、幸人は苦笑いを浮かべた。











「さて、全員揃ってはないけど……まあ、本題に入ろうか」


玉狛支部にて、隊長三雲修と、空閑遊真、雨取千佳の三人で結成された新たなチームが誕生していた。彼らは兄と友人を近界民に攫われた千佳のため、遠征部隊選抜を目標にA級昇格を目指している。

そのため、ボーダーの防衛隊員に関する知識を宇佐美から教えてもらっていた。

C級は言わば訓練生であり、B級になって初めて正隊員となる。そのためB級にならなくては、防衛任務はもちろん、A級に上がるための「ランク戦」にも参加ができない。上の級に上がるためには、防衛任務で成果を出すだけでなく、ボーダー隊員同士の模擬戦での勝利も必要なのだ。

既にB級である修は別として、ボーダーに入隊したばかりの遊真と千佳は、まずはB級に上がることが第一目標であった。

簡単な説明を終え、千佳のポジションも決定と同時、玉狛支部の防衛隊員三人が、支部へ戻ってきた。小南桐絵、烏丸京介、木崎レイジ。彼らは皆A級隊員であり、本部のA級隊員たちとも引けを取らない実力を有する、玉狛支部の精鋭部隊である。

三人の紹介を終え、先程のセリフへ戻る。

C級ランク戦の開始まではまだ時間があり、次の正式入隊日が約三週間後。その三週間を用いて、迅は木崎たちに修たちの師匠となり、マンツーマンで指導をしてほしいと頼んだ。新人の話を聞いていなかったらしい小南は難色を示したが、支部長命令であると聞き、渋々といった形で受け入れた。


「でも、そのかわり、こいつはあたしがもらうから」


そう言って、小南は遊真を選んだ。狙撃手スナイパーのポジションに決まった千佳は、三人の中で唯一狙撃手の経験のある木崎があてがわれ、必然的に烏丸が修の修行をつけることとなった。


「よーし、それじゃあ三人とも。師匠の指導をよく聞いて、三週間しっかり腕を磨くように!」

「そういえば、迅さんはコーチやらないの?」

「ん?おれ?おれは今回は抜けさせてもらうよ。いろいろやることがあるからな」


ビシッと敬礼を決めた迅に、宇佐美はそっかあと納得したように頷いた。そんな中、小南は周囲を見回して、「ていうか……」と呆れたような顔を浮かべた。


「狙撃手なら、桔梗さんが見ればいいんじゃないの?何でいないわけ?」

「桔梗……?」


新たに出てきた名前に反応を見せたのは、修だった。そしてふと、宇佐美が玉狛支部には迅以外に四人の防衛隊員がいる、と言っていたことを思い出した。その内の一人が桔梗という隊員であり、また狙撃手であるのだろうと予想した。

その名前を聞いた迅は、ああ、と困ったように後頭部を掻きながら笑った。


「もうすぐ幸人さんが入院らしくて、そっちに行ってるんだよ」

「そもそも、桔梗先輩は拒否するでしょう」

「だろうな。幸人から言われたなら話は別だが……」

「……それもそうね……」

「あの、その桔梗さんって人は、どんな人なんですか?」


納得したような小南の反応を見て、修は恐る恐る尋ねた。一斉に視線が向けられ少し構えるが、迅が困ったように笑ったのを見て、彼は肩の力を抜いた。


「桔梗さんは、元々は本部にいたんだよ。長門隊っていう部隊に所属しててね。彼女のお兄さんの幸人さんと、閑(しずか)さんっていうオペレーターの三人部隊。ただ、幸人さんが心臓の病を患ったことで防衛隊員は続けられなくなって……」

「部隊は解散、桔梗は幸人の勧めで、ひと月前にこの玉狛支部へ異動してきた」


なるほど。頷いた修は、桔梗は狙撃手なのかと尋ねると、あっさりと肯定の言葉が帰ってきた。


「なら、そいつがチカに教えたらいいんじゃないのか?」

「それが、そうもいかなくてね……桔梗ちゃん、人と関わるのあんま好きじゃないみたいで。それにあの子の狙撃の腕は、教えても真似できないと思うよ」

「桔梗の得意としているのは、『片腕スナイプ』ともう一つ、『超長距離からの狙撃』の二つだ。前者は努力でできなくもないが、後者はまずもって無理だろう」


無理だという言葉に、遊真は不思議そうに首を傾げた。何故そうもはっきり断定できるのかと言いたげな表情に、木崎は少し考えてから、口を開いた。


「もうB級やA級隊員は知っていることだが……狙撃手は、五〇〇から六〇〇メートル先へ的確に狙撃できる時点で優秀だ。一キロ先への狙撃は相当の腕がいる。だが桔梗は、それ以上の距離があっても難なく狙撃できる」

「それは彼女の狙撃の腕もだけど、視力もあってこそなんだよ」

「視力……」


遊真は何かわかったのか、納得したように頷くと、サイドエフェクトかと呟いた。その言葉に迅は笑うだけであったが、それは肯定であると暗に示していた。

サイドエフェクト――副作用と呼ばれるそれは、超感覚的な特殊能力の総称である。高いトリオン能力を持つ人間の中には、稀にそのトリオンが脳や感覚器官に影響を及ぼし、超人的な感覚を有する者が存在する。あくまで能力は人間の能力の延長線上なため、炎を操ったり空を飛んだりと、超常的なものではない。

遊真や迅、千佳もまたこのサイドエフェクトの持ち主であり、今この場にいない桔梗にも、その特殊能力があった。


「桔梗のサイドエフェクトは強化視覚。単純なものではあるが、狙撃手とあまりにも相性が良かったんだ」

「あの子の目は、数キロ先の距離でも目視できる。トリオン量も申し分ないからこそ、一キロ以上の距離でも射程を伸ばせるってわけ」

「超長距離射撃において、桔梗先輩の右に出る人はいないと思うぞ。実際、射程はボーダー一だ」

「幸人さんは長門隊を組むまでフリーだったけど、実力はA級隊員にも劣らなかったし」

「実際、長門隊は早々にA級入りしたしねえ」


話を聞いて呆然とする修、興味深げな反応の遊真をよそに、そもそも戦闘において知らないことが多すぎる千佳は、とにかくすごいことである、ということしかわからなかった。三者三様なその反応を、迅はおかしそうに笑った。


「まあ、近いうちに会えると思うから。紹介は改めて、その時にね」